第十九話
「逃走譚」其の一
翌朝目覚めた一道は、昨夜のことを思い出し、起き上がるやいなや枕元を振り向いた。
そこには、見覚えのない一つの小さな布袋が置かれていた。
夢ではなかった。里哉は、昨夜確かにここへ来たのだ。そしてこの袋を置いていった。とすれば、記憶にあるあの伝言も、本当に里哉が残していったものなのだ。
一道は布団から這い出ると、布袋とリュックを掴んで立ち上がった。
そしてふと気になって、リュックの中身を点検した。
菓子がいくらかなくなっている。飴と一口チョコレートが、大袋ごとない。それ以外にはこれといって変わったことはなかった
里哉が菓子を持っていったのか。
昨日あんなことを言っていたが、里哉もやはり、外の世界の食べ物が恋しかったのか。
それならいいのだ。里哉だったら、菓子なんていくらでも持っていってくれればいい。吐いたっていいからそれを食べてみればいいのだ。
里哉はきっと、人間として外の世界に帰ることをあきらめていない。
一道は気力を取り戻した。
林へ行こう。里哉が待っている。
一道はリュックを背負い、勢いよく部屋の障子を開けた。
途端、空気の色が混ざり合って独特の色合いを帯びた風景が、一道の目をくらませた。
それは、この国に来てからというもの、毎日のように見続けてきた「色」。もう、さすがに目に慣れた、この国の「色」。そのはずなのに。今日はひときわその色が鮮烈だった。傘を透かして降ってくる、光の色が――。
一道は思わず空を見上げた。
赤い。青い。黄色い。傘の天井は、その無数の色粒の一つ一つが、昨日までとは比べものにならないほど、鮮やかに色を現している。その下にある地上の景色は、今までにない明るさだった。
屋敷の門の上から、一条の濃い光が差し込んでいた。
「梅雨が明けたんだ」
そういえばいつの間にか、絶えず国全体を包み込んでいた、あのぼうっという音が聞こえなくなっている。そうだ。だから昨夜、あの程度の物音で目が覚めたのだ。夜中に目覚めたあのとき、すでに雨の音は止んでいた。そして、薄い月明かりが里哉の顔を照らしていた。
里哉の話では、梅雨が明けたら、この国はすぐにでも引っ越すということだった。では、今日がその日なのか。
一道は急いで屋敷の外に出た。
門を出たところでちらと頭上を見ると、一道の青い傘はそこにはなく、穴の開いた天井から、正真正銘の真っ青な空が見えた。その下の地面には、色影を切り抜く、何色でもない光の丸が一つ、落ちていた。
一道は屋敷の裏側へ回り、そこから林へと伸びる道を進んだ。屋敷の門前からの道に比べて、こちらの道は周りに民家が少なく、ひと気がない。
いくらか道をたどったところで、一道の目に、一つの青い点が映った。
見慣れた傘の色。
一道の青い傘を差した人影が、道の先に佇んでいた。
「里哉!」
呼びかけて、その人影に駆け寄ろうとした、そのとき。
「おはよう、一道」
背後からの声に、一道は心臓を軋ませて立ち止まった。
こわばる体を、一道はぎこちなく声の主へと振り向けた。
「理土……」
「林へお散歩? お腹もすいているでしょうに、元気なのね」
理土はいつもの薄笑みを浮かべ、一道のほうへ一歩近づく。一道は、思わず同じだけあとずさった。
「お散歩の前に、今朝こそは、ちゃんと広庭で食事を召し上がりなさいな」
「俺は……」
「食べなさい」
笑んだ唇から、それまでとは違う低い声が放たれた。
周りにあった空気が、一瞬にして消滅し、何か別のものに変わったかのように思えた。
一道の手足が、呼吸が、視線が、その場に縛りつけられて固まる。熱を感じる感覚が点滅して、自分の体温が、熱くなったのか寒くなったのか、それすらもわからなくなるほどの混乱に襲われた。
理土は一道のほうへ手を伸ばす。
――ここで捕まるわけにはいかない!
一道は、必死の気合いで目に見えない緊縛を振りほどき、走り出した。
青い傘も林のほうへと駆けてゆく。一道はそのあとを追った。
後ろを見ると、やはり理土が追ってきている。向こうは走ってなどいないのに、ゆったりとしたその歩みを、全力で走る一道はどうしても引き離すことができない。
どうしよう。このままでは追いつかれてしまう。
そう思ったとき、一道の手元から、不意に土の匂いが立ち昇った。
(里哉の置いてった布袋……。そういえば、この中身、一体何が……)
こんな状況だったが、一道は、なぜかそうしたほうがいいような気がして、走りながら袋を紐解き、開けてみた。
袋の中には、土団子が三つ、入っていた。
袋に手を突っ込み、一道は、その土団子の一つを掴んだ。
すると、どうだろう。土団子は一道の手の中でみるみる形を変えていき、たちまち一丁の鍬へと
一道は驚きながらも、すぐさま体を翻して足を止め、理土と向き合う格好で、その鍬を思いきり地面に打ち下ろした。
鍬の刃が地面に食い入ると同時に、一道と理土との間の地面が、雷のような音を響かせて、横一線に大きく割れた。鍬はそれきり崩れて土塊と化したが、理土の前には、橋がなければ到底渡れそうにない、深い亀裂が口を開け、道を塞いだ。
やった。これでもう追ってはこれまい。と、一道は安堵しつつまた走り出す。
しかし、少し進んだところで嫌な予感を覚え、振り返った。
足を止めることなく、一道は理土の様子をうかがう。
亀裂を隔てた地面の縁に立つ理土が、おもむろに、着物の左袖を亀裂の上に広げた。そして、袖に描かれた銀色の花を、もう片方の手で一撫でした。着物の袖から銀の花びらが散った。幾百、幾千の、数え切れない大量の花びらが、袖の絵からどんどん散り続ける。散った花びらは亀裂の底へと落ちていき、あっという間に降り積もり、やがては地面の高さまで、亀裂をすっかり埋め尽くした。
花びらで作った地面を踏んで、理土は亀裂を渡ってしまった。
まずい。このままでは追いつかれてしまう。
一道は布袋に手を入れて、二つ目の団子を掴んだ。
すると、団子はまたその形を変え、今度は一基の香炉の姿となった。
香炉の蓋に開いた雫型の穴から、幾筋もの白い煙が、理土のほうへ向かってたなびいていく。
煙に触れた一道の肌が、薄っすらと水滴で濡れた。なるほど、これは煙ではなく、霧なのだ。
霧を吐き切った香炉は、砂の固まりとなって崩れ去り、長く長く伸びた霧は、理土の周りを何重にも取り巻いて、その中に理土を閉じ込めた。
水気をきらう土人形なら、これでもう動けまい。
しかし、理土は霧の渦の中心で着物の右袖を広げ、そこに描かれた金色の花を撫でた。着物の袖から金の花びらが散った。理土が袖を一振りすると、花びらは、霧の渦の中を通って、真ん中から外側へと舞い飛んでいく。花びらに触れた霧は、しゅうしゅうと音を立てて蒸発し、乾いた砂粒となって、ぱらぱらと地面に落ちていった。
霧が残らず消えて、理土はまた歩み出す。
一道は、袋の中にある最後の土団子を取り出そうとした。
だが、前をよく見ず走っていたのが災いして、足元にあった石に躓き、転んでしまった。
その拍子に土団子が袋から飛び出し、地面に落ちて、粉々に砕け散った。
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