第十八話
「一緒に帰ろう」
その日の夜、一道は、眠りにつくまでずっと里哉のことを考えていた。
里哉は何も、前と変わってなどいなかった。里哉はずっと里哉のままだったのだ。
無理やり心を変えられるのと、心が変わらないまま、それまでいた世界から引き離されるのとでは、一体どっちが残酷だろうと、一道は思った。
里哉と一緒に向こうの世界へ帰ることは、もうできないのだろうか。里哉は土人形になってしまった。でも、土人形でもいいから戻ってきてほしい。これからも、今までみたいに会って話をしたい。一緒に遊びたい。里哉の両親だって、里哉が里哉でさえあれば、その体が人間のものでなくなったことくらい、大きな問題ではないだろう。あんなに里哉がいなくなったことを悲しんでいるのだから。里哉にもう一度会えることを望んでいるのだから。きっと、やっぱりそれでも里哉に戻ってきてほしいと言うはずだ。そうだ。里哉はこの国の外に出ることができるのだから、土人形になったことなど気にせず、向こうの世界に戻ればいい。
――いや。けれど。
それは、果たして、里哉にとって幸せなことなのだろうか。
里哉が大切に思うものは、もとの世界にもたくさんある。
だが、もとの世界に帰った里哉は、それらをまた手に入れることができるのか?
里哉はこう言っていた。自分は国の外に出ていくことはできる。外の世界の道を歩くことはできる。でも、外の世界にある建物の中に入ることはできない、と。
ならば今の里哉にとっては、自分の家も、学校も、図書館も、あらゆる店も人家も空き家も、外の世界の建物はみな、建物の形をしているだけで入口も中身もない、張りぼてに等しい。
だったら。
この国が引っ越してしまったあと、里哉の居場所はどこにあるのだろう。
一道は想像する。土の料理を食べなかった自分は、向こうの世界に戻りさえすれば、今までどおりの生活ができる。夏はクーラーの効いた部屋で、冬はストーブをつけてコタツに入って、漫画を読んだりテレビを観たりしながらお菓子を食べて、自分の部屋でごろごろしたりゲームをしたり、そして、夜は布団に入ってぐっすり眠ることができる。学校にも行けるし、友達の家に遊びに行ったり、店に買い物に行ったりもできる。日常を、取り戻せるのだ。
でも里哉は。
向こうの世界に戻っても、里哉はこの先二度と、自分の家に帰ることができない。普通の子どものように学校へ行くこともできない。どこかの空き家で寒さや雨を凌ぐことすら許されず、水に溶け去る土人形の身であるがゆえ、いつ雨が降るかもしれない向こうの世界では、気が休まることはないだろう。周りに溢れる、当たり前の人間らしい暮らしをあきらめて。きっと当たり前にあるはずだった将来をあきらめて。己の身を溶かす雨に怯えながら、死ぬまで張りぼての建ち並ぶ町をさまよい続ける。異世の国を失った里哉に待っているのは、そんな人生なのだ。
いるべき世界が別の世界になったら、それはもう、死に別れたのと同じこと――。
里哉の言っていたあの言葉の意味が、初めてわかった気がした。
この国には里哉の家がある。里哉の仕事がある。里哉と仲のよい土人形たちがいる。そして、傘に覆われたこの国は、いつだって雨から守られている。本来里哉の居場所であったはずの外の世界に、今の里哉を守り、里哉に必要なあらゆるものを与えてくれる場所など、存在しない。この国にいてこそ、里哉は心安らいだ暮らしを送れるに違いないのだ。
それでも里哉と別れるのは嫌だ、などと。これからも里哉に会いたい、などと思うのは。それは、単なる自分のわがままでしかない。
でも。
里哉は帰りたいと言ったのだ。
自分だけじゃない。里哉自身がそう望んでいる。なのに。
なんとかならないものか。
里哉の体を、もう一度人間のそれへと戻すことは、不可能なのだろうか。
この国の料理を食べたことによって、里哉の体からは人間の肉体が押し出された。ならば、今度は外の世界の食べ物を口にすれば、それがやがて人間の血肉に変わって、今里哉の体の中にある土を押し出してくれるのでは。……いや、だめだ。外の世界の食べ物は、食べようとしても吐いてしまうのだと、里哉が言っていた。……でも、どうにかして、一口でも呑み込めないのか。それができたら、もしかしたら、何かが変わるかもしれないではないか。
(――一緒に帰ろう、里哉……)
胸の中で何度もそう呟きながら、一道はいつしか眠りに落ちた。
その真夜中のこと。一道は人の気配で目を覚ました。
枕元で何やらごそごそと物音がしていた。さほど大きな音ではなかったが、その音を除けば辺りは完全な静寂であるだけに、音の輪郭までも掴めそうなほど、それが耳に付いて仕方がなかった。
枕元にはリュックが置いてある。では、この音は……。誰かが、リュックを漁っている……?
一道は薄く瞼の隙間を作り、音のするほうに目玉を向けた。部屋の襖が少し開かれて、そこから差し込んでいる、わずかに闇を薄める月明かりの中に、少年の背格好が照らされて見えた。
「……里哉」
囁くように名を呼ぶと、里哉は振り返って、一道の枕元に膝を付いた。
「一道。朝起きたら、これを持って林に来てくれ。屋敷の裏から林へ続く道の途中で、おまえの青い傘を差して待ってる」
一道は、横になったままうなずいた。
里哉は枕元に何かを置いて、部屋から出ていった。
障子戸が月明りを遮ると同時に、一道の意識はまた眠気に絡め取られる。枕元のものを、せめて一目確かめようとしたが、もはや手も足も首も眠りの中にあり、動かすことができなかった。
かすかな土の匂いを感じながら、一道は再び瞼を閉じた。
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