「あの日の話」其の二
土曜日の夕方、僕は家を出た。このまま家にいてもどうにもならないって、そのときにはさすがにもう、わかっていたから。誰も助けてはくれない。家族にすべてを話したところで、あるいは病院とかに行ったところで、僕を助ける方法なんて誰も知るはずがない。僕の体をこんなふうにしたのは、あの傘だらけの異界が持つ、この世にはない力だ。だとしたら、この体をもと通りにできるのも、あの傘の国の力だけに違いない。それだけが希望だった。だから、もう一度、行くしかなかった。傘の国を訪れて助けを求めるしかなかった。得体の知れない異界に、また足を踏み入れるのは恐ろしかったけど、そんなこと言っていられない。さらに肉が失われて、自力で歩けなってしまったら、もういよいよどうすることもできなくなってしまう。
家を出て、傘の国を目指して歩き出したものの、ちゃんと国にたどり着けるかどうかは不安だった。国に迷い込んだときも国から帰ってきたときも、そのとき通ってきた道筋の記憶がはっきりしなかったから。それでも、不思議なほどすんなりと国の入口に行き着いた。きっと、国の料理を食べたせいだと思う。一度でも異世の国の料理を食べると、食べた人の中に異世の国が宿るんだ。食べた人と異世の国とが、つながるんだ。料理として呑み込んだ異世の国の一部。たぶん、その力が僕を国まで導いたんだろう。
異世の国の民たちは、再び国にやってきた僕を、前にもまして歓迎してくれた。休む間もなくすぐ広庭に連れて行かれると、宴の用意はとっくに整ってた。僕が、また国に戻ってくること……戻らざるを得ないこと、民たちは、わかってたんだな。山ほどの料理をこしらえて、僕が来るのを待ってたんだ。
そのとき、異世の国を二度と訪れないって選択肢がなかったのと同様に、目の前に並んだ料理を食べないって選択肢も、なかったよ。料理を前にした途端、何も考えられなくなった。この料理のせいで自分の体がおかしくなってるってことは察しがついてたのに。またこの料理を食べてしまったら、そのあとはどういうことになるのか。そんなことを考えることさえ、そのときはできなかった。体がその料理を求めてた。……正確には、僕の中に宿って僕の体の肉を追い出した、異世の国の力がね。
異世の国の料理は、吐き出さずに食べることができた。食べれば食べるだけ、僕の体には肉が付いて、痩せこけた体はあっという間にもと通りになった――もちろん、表面上は、だ。
実際には、異世の国の料理はすべて土細工。異世の国は、土を食べて生きる土人形の国。食事を終えたあと、そのことを聞かされた。自分の体の肉を大量に失って、そのぶん土の料理をたらふく食べて、たくさんの土が体に混じってしまった僕は、もう傘の天井がない外の世界で暮らすことはできないんだと、そう言われた。僕は、自分の体をもとに戻してほしくて、助けを求めて異世の国に来たはずだった。けど、一度でも異世の国の料理を口にした者が、もと通りの、人間の体を取り戻す望みなんて、最初からなかったんだ。
そうして、僕は異世の国で暮らすことになった。国に戻ってきてからしばらくは、理土さまの屋敷で寝泊まりして、その間にも、何度か肉を出した。異世の国にいる限り、いくら肉を出しても体が痩せこけることは、もうなかった。肉の代わりに土の料理が体を作る。肉を出して、料理を食べるたび、僕の「人間の体の部分」は、どんどん土と入れ替わっていった。
最後の肉が体の外に出たとき、僕は、マレビトからこの国の民になった。今はもう、僕の体の中には肉も血も骨も、人間だったときのものは何一つ残ってない。全部土なんだ。この国の民になるってことは、この国にいるみんなと同じ、土人形になるってことなんだ。
だから……。
おまえの言うとおりだ。僕は、外の世界が嫌になったわけじゃない。時にはうんざりすることがあるのも本当だけど、あそこは、僕にとっても、大切なもの、魅力的なものが、たくさんある世界なんだ。できるなら帰りたい。……でも、それはもうできない。
無理なんだよ。おまえならわかるんじゃないか、一道。だっておまえは、親しい人との別れを知ってるんだから。そういうのはどうにもならないってこと、わかるだろ?
……そりゃあ、僕は死んだわけじゃない。こうしてここに生きてるよ。人間としての「里哉の体」はもう残ってはいないけど、生きてるって、言っていいと思う。
でも、同じだ。
人の死っていうのも、きっと、その人の魂が、生きてる人のいる場所とは別の世界に行くことなんだよ。いるべき世界が別の世界になったら、それはもう、死に別れたのと同じことだ。
僕はおまえたちの世界には戻れない。確かに、この国の外に出ることはできる。傘盗りのために町へ行くことはできるけど、それだって、ただ道を歩けるってだけなんだ。道っていうのは、境の空間――世界と世界との中間だから、そこまでは行くことができる。でも、外の世界の建物の中は完全に「向こうの世界」の領域になってしまうから、僕は建物の中には入れないんだ。学校の昇降口ならかろうじてまだ境の空間だから、昇降口の傘立ての傘を盗りに行くことはできるけどね。
……そういえば、おまえまでここに来ることになったのって、僕がおまえの傘を盗んだりしたからなんだよな。ほんとに、悪かったよ、一道。
でも、これだけは信じてくれ。僕は、おまえをこの国に連れてこようと思って傘を盗んだわけじゃない。ただ、大きな傘が欲しかっただけなんだ。こうして土人形の体になって、傘を盗りに町に出るとき、雨に濡れるのが怖かった。だから、少しでも大きな傘を差して外に出たかったんだ。
ごめん、一道。……でも、勝手だけど、こうしてもう一度おまえに会えて、うれしかった。
本当は、おまえには、何も知らないまま帰ってほしかった……。
おまえがもとの世界に帰ったら、もう、二度と会うことはないと思う。おまえがまた学校の傘立てのそばで待ち伏せしても、僕はもうそこへは行かない。行けない。
この国は、もうすぐ引っ越すんだ。梅雨が明けたらその日にでもね。今日、屋敷に国の人たちがみんな集まってただろ。早ければ明日にでも梅雨が明けそうだから、引っ越しのことについて、理土さまと国中の民たちが、いろいろ話し合ってたんだ。今この国がある場所は、以前は滅多に人が入り込むことはなかったんだけど、最近になって急に人の出入りが激しくなってね。それで安心して暮らすことができなくなったから、どこか別の、人の近づかない場所に移ろうってことになったんだよ。引っ越し先について、僕は詳しくは知らないけど、ここから遠い所にある土地らしい。そこへ行ったらもう、おまえのいる町に来ることはできない。
だから、僕はもう戻れないけど。でも、おまえのことは絶対にもとの世界に帰れるようにする。なんとかするから。
……それから、一道。
一つだけ、おまえに頼みがある。聞いてくれるか?
おまえが外の世界に戻れたら、僕の両親に、この国のことを話してほしいんだ。僕がこの国で楽しく暮らしてるって。ちゃんとこっちに友達もいて、ずっと住みたかったような家に住んで、毎日おいしいものを食べて、幸せに暮らしてるって。もちろん、そんな話、父さんも母さんも信じないと思う。だから、おまえが話したくなかったら、それでもいい。でも、できるなら、おまえがこういう夢を見たってことにしてもいいから、話してほしい。夢でいいんだ。どうせ、もとの世界に帰ったら、この国のことはおまえにとって、夢の中の出来事と同じになると思うから……。
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