第十六話

「あの日の話」其の一

 一道の疑問は一つ二つ解けた。

 先ほど、陽の沈み灯が埋まっている明るい道を歩いたとき、ふと振り返って目にした里哉。その姿に、違和感を抱いた理由。

 それは、里哉の顔色、肌の色のせいだったのだ。

 地面からの日の光に照らされた里哉の顔は、昔林の中で見た理土と同じ、白っぽい土色だった。

 この国では、日の光が色とりどりの傘を透かして地上に降ってくる。また、ここに来る前、外で里哉を見たときは、真っ青な傘の下にあった里哉の顔にはその青色が映っていた。石の明かりも、沈み灯の月の光も、日の光ほどに充分な明るさはない。だから、今まで気づかなかったのだ。それに、里哉は体に触れられることを極端に避けていた。手を掴もうとするとその手を引っ込め、殴る真似をしただけで青ざめて飛び退き、自分からも決して一道に触れようとはしなかった。

 この国の民たちの顔を見て、顔立ちはそれぞれに異なるその人々を、どこか皆「似ている」と感じたのも、同じ理由だ。この国の人々の肌の色は、みな理土のそれと同様に、白土色なのである。傘のせいで空気の色が混ざり合っているこの国では、そのことにずっと気づけなかった。

「……どうして」

 呆然とした声で呟き、一道は、我知らず里哉の手を握る指に力を込めた。力を入れるだけ、指は里哉の手の中に食い込む。慌てて手を放したあとも、その手には、一道の指の形をしたへこみがくっきりと深く残った。

 もはや声を出す気力さえも失った一道を前に、里哉はゆっくりと自分の手をさすり――そして、自身がこうなるに至ったいきさつを語り出した。



          ×



 僕が初めてここに――この異世の国に来たのは、向こうの世界で行方不明になった日じゃなく、その前の日、金曜日だったんだ。その日はたまたま用事があって、珍しくおまえと一緒に帰らなかったな。

 僕は一人で帰り道を歩いてた。学校から出てしばらくは、まだ周りに同じように下校中の生徒の姿があったけど、家に近づいて細い路地に入っていくにつれ、ひと気は 少なくなって、そのうちに、辺りを見回しても道を歩いてるのは僕一人だけになってた。

 ……そんなときだ。

 気がつくと、僕の前を人が一人、歩いてた。

 僕が歩いてたその道は、細いとはいえ真っすぐで、見通しの悪くない一本道だった。僕と前を歩くその人との間には、曲がり角もなかった。だから変だと思ったよ。一体、いつの間にその人がそこに現れたのか、わからなかった。

 でも、そんなことはすぐにどうでもよくなった。

 目の前を歩くその人は傘を差してた。それはまあ、当然だ。雨の日だったんだから。だけどその傘――。

 その人が差してる傘は、その前の日になくなった、僕の傘だったんだ。


 僕は、僕の傘を差したその人のあとを追って、歩いていった。追いついて声を掛けようかとも思ったんだけど、足を速めてみても、不思議とその人との距離は縮まる気配がなくて、離れた所から声を掛けたら、もしかすると逃げられてしまうかもしれないからと、仕方なく、ただその人についていった。

 そうしたら、だんだんと辺りの景色が林のような場所になってきた。あれだけしか歩いてないのに西の林に着くはずなんてないから、さすがに、これはおかしい、って怖くなった。でも、引き返そうにも、そのときには帰り道が全然わからなくなってた。こんな場所に一人残されるよりはと、そのまま、前を歩いている人に付いていくしかなかったんだ。


 そうして、僕はこの国にたどり着いた。おまえが僕を追ってここに来たようにね。

 国の人たちは僕を歓迎してくれて、僕はすぐに理土さまの屋敷へ連れていかれた。そこで理土さまに部屋を貸してもらって休んでると、しばらくして広庭に呼ばれた。広庭で、その夕方、集まった国中の人たちが、僕のために宴を開いてくれた。

 国の人たちはみんな親切だったけど、僕は得体の知れない世界にいるのが不安で、宴なんかいいから早く家に帰りたいと言った。でも、みんなに強く誘われて。みんな優しいから、余計に断れなくて。それなら少しだけ、と宴に出たんだ。そこで出された料理を……僕は、何も知らずに、いくらか食べた。

 日が沈む前に料理はあらかた片付いて、宴は終わった。僕が遅くならないうちに帰りたいと言ったら、国の人たちはもう引き止めなった。林の中の道を案内して、僕を町まで送ってくれた。そうして、その日は家に帰ったんだ。


 その日の夜にはもう、異変があった。

 僕は家での夕食を食べられなかった。夕食前に宴で出された料理を食べたからね。

 でも、それだけじゃなかった。なんだか、腹の具合がおかしかったんだ。

 トイレに行けば治るだろうと、そのときは、その程度にしか思ってなかった。でも――。

 いざを出してみると、何か、感触がいつもと違う。

 は硬く、弾力があって、やけにぬるぬるして――かすかにびくびくと動いてた。

 びたん、と重たい音を立てて、それが便器の中に落ちると同時に、血生臭いにおいが鼻先まで昇ってきた。それがなんなのか……自分の体から何が出てきたのか……見たくなかった。確かめたくなかった。でも、そんなわけにいかない。

 思い切って、便器の中を覗き込んでみた。そしたら……。やっぱり、それは、糞便なんかじゃなかった。


 肉、だったんだ。


 生肉の塊。スーパーの肉売り場で売られてるようなきれいな肉じゃない。ぬるぬると血にまみれて、便器にたまった水が、その血で赤く染まってた。肉の中には、無数の赤黒い筋が走ってた。血管だ。ところどころ黄色っぽい白いものが混じってたのは、脂肪だろう。血管は肉の中に埋もれてるのも、表面に浮き出てるのもあって、浮き出てるやつ見ると、それはまだゆっくりと脈を打ってるのがわかった。よく見れば肉自体も、脈に合わせて、全体が伸び縮みするように動いてた。けど、じっと見てるうちに、その脈もだんだん遅くなっていって、しばらくして、完全に止まった。脈が止まったら、肉ももう動くことはなかった。


 ぐったりとなった肉の塊を見つめて、考えてた。どういうことなんだろうと。この肉は、一体何なんだろうと。

 だいぶ長い間そうしていたんだろう。気がつくと、肉の色が変色し始めてた。生臭いにおいが、さっきまでよりもいっそうひどくなって、トイレの中に充満してて、息が詰まりそうだった。

 とにかく、この肉を何とかしなきゃいけない。誰にも見つからないうちに始末しないと。こんなもの……こんなこと……人に知られちゃ、絶対にだめだ。そう思った。かといって、そのままトイレに流すわけにもいかない。僕はトイレを出て、急いでスーパーのビニール袋を持って戻ってくると、何重にもしたそのビニール袋に肉を入れて、固く口を縛った。……それをどうしていいかわからずに、とにかく家には置いておきたくなくて、結局、家の近くの用水路に袋ごと捨てた。


 それでとりあえず、少しは、ホッとした。

 ――でも、それで終わりじゃ、なかった。

 それはただ、「最初の一回目」ってだけだった。

 そのあとも何度も何度もトイレに行った。そのたびに肉の塊が出てきた。そして――途中で気がついたけど、肉の塊が出てきた分だけ、僕の体がどんどん痩せていくんだ。だから、僕の体から出てきたその肉は、まぎれもない僕自身の肉だった。


 このままだと、そのうち体の肉を全部失って、死んでしまうって思った。これ以上痩せ細ってしまわないためには、何か食べないと。安易にそう考えて、家族が寝静まったあと台所へ行って。食べなかった僕の分の夕食が、ラップをかけて冷蔵庫に入れてあったから、それを食べようとした。けど……だめだった。どうしてもだめだった。何を食べても、どれだけしっかり呑み込んでも、飲み物で流し込んでも……全部吐き出してしまう。

 何も食べられないのに、肉だけは出続けた。怖かったよ。吐くのはまだいい。体がもう食べ物を受け付けなくなったっていうだけなら、まだ……。それよりはるかに怖かったのは、体から肉が出ていくことだ。それが普通はありえないことだから怖い、っていうだけじゃない。――たぶん、肉が糞便みたいに出てきたから。糞便って、要するに体に必要のないものだろう? それが出てくるみたいにして肉が出てくるってことは、僕の体の肉が、僕の体にとって、もう「いらないもの」になった……そういうことなんだと思って。それが、何より怖かった。


 次の日になっても相変わらず肉は出続けた。家族の目を避けてトイレに行って、トイレのとき以外はずっと部屋に閉じこもってた。出した肉は、とりあえずビニール袋に入れて自分の部屋に持って行って、ある程度の量が溜まるたびに、まとめて川に捨てにいった。一回一回が、持ち運ぶのも大変な量だった。それだけの肉を失って、僕の体は当然……。

 土曜日になってから、鏡は一度も見れなかった。見ないようにしてた。でも、ついつい自分の二の腕やふくらはぎを掴むと、一回トイレに行くたび、確実に肉がなくなっていってるのが、嫌でもわかった。土曜日の夕方頃には、もう骨と皮だけの、ほとんど骸骨みたいな姿になってたと思うよ。

 こんなことになったのは、きっと、あの傘の国で食べた料理が原因なんだろう。なんとなくそう察しはついた。あの国で宴を開かれて、料理を振る舞われて、そうして帰ってきてからおかしなことが起こり始めたんだから、他に原因は考えられなかった。

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