「本当のこと」其の二


 一道は、胸が凍りつくような感覚に晒された。

「それじゃあ……おまえは。もともと、外の世界にいたくなかった……そういうことか? だからこの国に来たのか? だから、ここから帰ろうとしないのか?」

 里哉は表情を変えることなく、口をつぐみ続ける。

 一道の頭の中は、混乱で埋め尽くされた。どうして。何がそんなに。だって里哉には、外の世界に、一緒に遊ぶ友達がいて、里哉のことを大事に思う家族がいた。自殺……なんてしようとするのは、そういうものを持たない、不幸な人間なんじゃないのか。それとも、そんな普通の幸せを打ち消すくらいにつらいことが、何か外の世界にあったというのか。

 わからない。

 いくら考えても、何も思い当たることがない。ずっと近くにいたのに。あれだけたくさんの時間を、一緒に過ごしていたのに。


「どうして」

 耐え切れず、一道は口にした。

「何が、あった?」

 震えを抑えようとして、低くなった声が、押し出される。

 いつの間にか、里哉の顔からは笑みが消えていた。

 つまらなそうな面持ちで、里哉は、呟くように口を開いた。

「別に、何もない。ただ、僕は、薄まりたくなかっただけ」

「……うすまる?」

 不可解なその答えに、一道は思わず聞き返した。

 里哉はうなずいた。


「薄まっちゃうんだよ。外の世界にいると、どうしたって。人は本来、原液のままの状態があるべき姿なのにね。本当に大切なものにだけ触れるようにして生きていけば、原液のままの濃度を保てるのにね。外の世界の人たちはそのことを知らない。いや、知ってても、どうしようもないってあきらめてるのかもしれない。外の世界では、ほとんどの人間は、自分を薄めなきゃ生きていけないんだ。外の世界では、人が生きていくのに必要なものと、その人の原液と同じ濃度を持つものとの間に、ずれがありすぎる。だからみんな、自分を薄めるものをどんどん自分の中に取り込んでいかなきゃならない。僕はそういう生き方が、いやになったんだ」

「…………」

 話を聞いていても、一道には、なんのことだかさっぱり呑み込めなかった。

 「おまえにはわからないだろうな」と、里哉はいくらかの嘲りが混じった笑いを洩らす。


「『薄めるもの』っていうのはね。まあ……大雑把に言えば、この国には存在しないもの。この国から消え失せてしまうものだよ。たとえば、おまえみたいなマレビトがこの国に持ってくる、外つ国の物語の大半だ。異世の国の民たちは、この国にやって来たマレビトには必ず外つ国語りをせがむけど……でもね、そうして語られた物語のほとんどは、書き留められることもなく、語り継がれることもなく、たちまちのうちに忘れ去られて、この国から消え失せてしまうんだ。わずかにこの国に残るのは、汚さも醜さもない、きれいで優しくて純粋な物語だけ。そういうものは外つ国には数少ない。向こうにある、小説も、漫画も、アニメも、ドラマも、映画も、世間話も――多くの物語は、人を『薄めるもの』でしかない。物語だけじゃなく、テレビのバラエティ番組だって、コンピューターゲームだって、他のいろんな子どもの遊び、大人の遊びだってそうだ。外つ国にあって、この異世の国にはないものが、いっぱいあるだろう? 一道はたぶん、それを、異世の国に足りないものだと思ってるだろう? でも、違うんだ。異世の国の民は、自分を薄めるものが何か、そうでないものが何か、わかってるんだ。だから民たちは、自分が原液のまま、薄まらず生きていくのに必要なものだけを残して、作り出して、そういうものだけに囲まれて暮らしてる。……もっとも、すぐに忘れるものとはいえ、外つ国の話を聞くのは楽しみなようだけどね。まあ、それを持ってくるマレビトは、稀に来る人だから。外つ国の物語は、民たちにとってはたまのお祭りみたいなもんだ。お祭りってのは、普段のあるべき日常に対する非日常で……日常と非日常は裏表で……どちらかが欠ければ、どちらも存在しなくなるものだから……たまにそれを裏返さないと、いつか表のほうまで消えてしまうのかもしれない。さすがにそこは、人と、人の手によって作られた者に課せられた、限界なのかな。

 でも、それでも、この国の民たちは、外の世界の人間みたいに心が汚れてないだろう? この国では犯罪なんて起きない。仲違いすら存在しない。みんな満たされてるから。薄まっていないから」

 里哉は、陶然としたように微笑んだ。


「土手の本家のさ、陶芸家の先生。一道も知ってるよね。あの人は、この国の民たちに似てるよ。家柄と才能に恵まれて、外の世界に居ながら、自分をあまり薄めずに生きてきた人だ。――でも、外の世界でそんな生き方のできる人なんて、ほんとにごくわずかでしかない。ほとんどの人間は、好きでもない勉強、さほど打ち込めるわけでもない仕事に、人生の中の膨大な時間と労力を費やして……それでほんの少しの、本当に大切なものを手に入れたって、結果的には、原液の色も味もわからないくらい、薄まった自分になるだけなんだから。うちの両親なんか、まさにそうだね。先生とは全然違う。うちは貧乏だから、両親ともよくお金のことでイライラしてて、しょっちゅう妬みや愚痴をこぼしてる。いつかは本家の悪口を言ってたこともあったよ。……大人もそんなだけど、子どもだって大差ない。クラスメートたちだって、ゲームやって、漫画読んで、したくもない勉強して、けんかして、人を蔑んで、妬んで、憎んで、くだらないバカ話で盛り上がって……そんな世界で、そんなやつらのそばでずっと生きてきた僕も、やっぱりだいぶ薄まって、どうしようもない混ざりものになってた。先生みたいな生き方ができれば、きっとこんなふうに苦しむことはなかったんだろう。けど、あの人とは生まれも育ちも全然違う僕じゃ、そんなの最初から無理な話だ。

 このまま生きていたって、僕はいつまでも薄まった、混ざりものでしかない。両親を見て、友達を見て、自分自身の日常を思えば思うほど……薄まった混ざりものに、生きてる価値なんてあるとは思えなくなった。だから、もしあのとき、この異世の国を見つけなければ――自分を薄められず生きられるこの場所に、出会えなければ。僕は、あそこで自分の人生を終わらせてたよ」

 そこまで喋って、里哉は唇を閉じた。


 話を聞き終わった一道は、しばしの間、里哉を見つめ。

 そして、言った。

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