第十五話

「本当のこと」其の一

 その翌日。

 朝起きると、いつも外つ国の話を聞きに一道の部屋に押しかけてきていた、人々の姿が、いつまで経っても見られなかった。

 その代わり、屋敷の広間に、何やら大勢の人々が集まっているようであった。

(なんだろ。今日は屋敷で宴会か? それにしちゃ騒がしくもないけど……。何か話し合いでもしてんのかな)

 天跳と仄美も、屋敷に来ているのだろうか。その可能性に気づくと同時に、昨日のことが思い出されて、一道は決まりの悪さを覚えた。

 何もあそこで二人に怒鳴ることはなかったな、と、一道は今になって反省する。そりゃあ、天跳も仄美もこの国の民であって、言ってみれば理土の手先のようなものかもしれない。けれど、あの二人に悪意はなかった。天跳も仄美も、一道がこの国の民となって、ここに留まるのだと思い込み、それを単純に喜んでくれていただけだった。

 昨夜、里哉が屋敷に水と食料を届けにきて「仄美も天跳も、別に一道のこと怒ってないから」と言ったが、それでも――。

 二人と顔を合わせたくないという思いから、また、得体の知れない集会が恐ろしくもあり、一道は、いくらかの菓子を口にしたあと、早々にリュックを負って屋敷を出た。


 屋敷の門の前まできて、傘の天井を見上げると、そこに一道の青い傘はなかった。例によって、里哉があの傘を持って町に向かったのだろう。もう国の外に出たあとだろうか。それともまだ国の中か。

 もしかしたら追いつけるかもしれない。頼りない期待を抱いて、一道は、門前からの道を真っすぐ林へと向かった。

 栄養不足の体を必死に走らせて行くと、しばらくして、畳んだ青い傘を持った、里哉の後ろ姿が見えた。

 間に合った、と心の中で叫んだ次の瞬間、一道は思わず、

「里哉!」

 と大声で呼んで、慌てて口を押さえた。

 里哉に付いて国の外に出ようとしているところを、誰かに見つけられたら、また邪魔されてしまう。一道はおそるおそる辺りを見回した。――幸い、近くに人はいないようだ。そういえば、ここまで来る途中も、平原に全然人影を見なかった。一道の大声を聞いて、家の窓から顔を覗かせる者すらないということは、周りの民家ももぬけの殻なのか。ひょっとして、今日は国中の人々が、みんな理土の屋敷に集まっているのかもしれない。これはチャンスだ。

 呼びかけに立ち止まった里哉のもとへ、一道は慌てて駆け寄った。

「里哉。これから国の外に出るなら、俺も付いていかせてくれ」

「……好きにすればいいよ」

 息を切らせて頼む一道に、里哉は無感情な声でそう返した。

 そのあとも邪魔が入ることなく、一道はいともあっさり、里哉と共に林にたどり着いた。


 林の中に入ると、里哉は一道に言った。

「付いてくるのは勝手だけど、たぶん一緒には出られないと思うよ」

「それでも、一応やるだけやってみる」

 そう答えながら、一道は内心怪訝に思った。天跳は「里哉さんに付いていってもおまえは道に迷ってしまう」と言っていたが、いくらなんでもこうして一緒に歩いているのだから、里哉とはぐれて自分だけ道に迷うなどということは、ありえないのではないか?

 一道は、里哉との間に距離が開かないようにして、前を行く里哉の背中から片時も目を離さぬよう、注意して歩き続けた。

 ところが、そうしていたにもかかわらず、突然、里哉の姿が視界から消え失せた。

 まるで、その瞬時、目の盲点がふっと里哉のいる位置に移動したかのように、見失ってしまったのだ。

 急いで辺りを捜し回ったが、もう里哉を見つけることはできなかった。一道はなすすべなく、林の中で一人立ち尽くす。

(ちくしょう、こういうことか……。やっぱり、俺は里哉と同じ道をたどれないようになってるのか)

 一道はあきらめて、里哉を見失ったその場所に戻り、そこに座り込んで、里哉の帰りを待つことにした。

 疲れた……お腹がすいた……喉が渇いた……。

 新しい水を汲んできてもらうために、ペットボトルをさっき二本とも里哉に渡してしまったため、今、手元に水はない。昨日の水はまだ残っていたのに。こんなことなら、里哉と別れる前に全部飲んでおけばよかった。飲み物がないと、カラカラの喉に菓子を通す気にもなれない。

 一道は、膝を抱えた腕の中に顔をうずめ、なるべく余計なことを考えないようにして、時間をやり過ごそうと思った。


 しばらくの間そうしていた。

 気がつくと、いつの間にか、眠ってしまっていたようだった。

 意識を取り戻した一道は、顔を上げ、何気なく周囲の景色を見回した。

 と、そのとき。

 一道の目に、そこだけやけに明るい、一筋の道が伸びているのが見えた。

(あれは……?)

 なんだか、無性に懐かしい明るさだった。その明るさに、思い当たるものがある。一道はそこへ行ってみたい衝動に駆られたが、下手に動くと、このあと里哉と会えなくなるかもしれないので、耐えてその場でじっとしていた。


 いくらかの時間が経ったのち、林の奥から足音が聞こえ、里哉が戻ってきた。

 里哉と顔を合わせるやいなや、一道は、明るい道を指差して言った。

「なあ、里哉。見ろよあの道。あれ、外の世界の明るさみたいだと思わないか? あの道を通っていけば、もしかしたら、国の外に出られるんじゃないか?」

 興奮気味の口調で喋り、一緒に行ってみよう、と一道は里哉を促した。

 里哉は一瞬、ためらうように顔をしかめた。そして、うつむき、少し迷う様子を見せてから、小さくうなずいた。

 二人は明るいその道を、今度は一道が先立って、進んでいった。


 それは奇妙な道であった。

 地面は、晴天の日の光に照らされているかのように明るいのに、周りの風景は、それとは不釣合いに薄暗く、木漏れ日も射していなければ、地面に木々の影も落ちていない。地面に近い木の幹は、多少の光を浴びていて鮮明に見え、高い所は、薄闇にぼやけているのである。見たことのない不思議な眺めだった。


「これは……たぶん、太陽の光の沈み灯がこの下にあるんだな。その光が地上まで漏れてきてるんだ。おまえ、面白い道を見つけるね」

 後ろを歩く里哉が、感心したようにそう言った。

「地面だけでも明るい道って、ほっとするな。外の世界もずっと梅雨だったから、こんな明るい道見るのは久しぶり――」

 と、一道は、話しかけながら、里哉を振り返った。

 その途端、里哉はびくりと体を震わせ、表情をこわばらせた。

 大げさなその反応の意味がわからず、一道は眉を寄せる。

(なんなんだ、一体。やっぱり里哉、様子が変だ……)

 それは今に始まったことではない。

 だが――。

 そのとき目にした里哉に、一道は、何か違和感を覚えた。

 なんだろう、何が違うのだろう?

 一道は少し考えたものの、今はこの道をたどることのほうが重要だった。


 さらに道を進むと、雨音が近くに聞こえてきた。

 ぱらぱらと、木々の葉や地面に落ちる雨の音が、すぐそばで響く。音だけで雨そのものの姿は見えないが、雨が天高くで遮られてしまうこの国では、こんなにも至近距離で雨音を聞くことはない。

 やはり、この道は外の世界に近いのだ。

 一道は確信を得て、道を、先へ先へと突き進んだ。

 しかし、雨音のするほうへ向かって歩いているはずなのに、いつの間にか、音は遠ざかってしまう。何度やり直しても同じだった。雨音がいちばんよく聞こえる地点から、どの方向へ進んでも、音はそれ以上近くならないのだ。

「無理……みたいだね。帰ろう、一道」

「え、でも……」

 一道はもう少しこの明るい道にいたかったが、里哉がさっさと歩き出してしまったので、仕方なくあとを追った。どうせ国の外に出られないのなら、いくらここにいたってあまり意味はない。


 林の出口近くまで来て、一道は、里哉の持ち帰った果物と水で昼食を取った。

 果物を齧りながら、幾度も溜め息が漏れた。

 先ほどの道は、確かに、外の世界に近づく道だった。帰りたいと欲してやまない外の世界が、あんなにもすぐそばにあったのに、そこにどうしてもたどり着くことができないなんて。


 それにしても……。

 里哉は、本当に、これっぽっちも外の世界が恋しいとは思わないのだろうか。かつて自分が暮らしていた町へ出て行くことは、この国のために傘を盗ってくるという、ただそれだけの目的による行為で、そこにはなんの感慨もないのであろうか。

(里哉はこの国の料理を食べたから。……本当に、それだけなのかな)

 そのことに関して、一道は、薄っすらと疑問を抱いていた。

 あまり考えたくないそのことを、今まで深く突き詰めようとはしなかった。里哉は、外の世界に帰らない理由を、いくら尋ねてもはぐらかし続けてきたが、自分もまた、気づかぬうちに核心に触れることを避けていたのだ。

 いや、それが果たして核心なのかどうかは、わからない。

 だからこそ、聞いておかなければと、一道は思った。

 どうしても知りたかった。

 里哉の母に聞いた、あの話の真相が。

「里哉。おまえさ」

 鼓動が速まる。

 深く息を吸おうとするが、それさえも上手くできない。

 一道は、指を組んだ両手を強く握り、顔を上げて、里哉を見た。


「おまえ、ここに来る前、自殺しようとしたのか?」

 舌がもつれてしまいそうな、たどたどしい口調で発せられたその問いに、里哉は目を見開いた。

 一道は、胸の奥深くまで吸い込めない空気を、それでも何度か吸い込んで、言葉を続ける。

「おばさん……おまえの母さんが、言ってたんだ。おまえがいなくなる前、家のトイレが、なんか、血なまぐさいにおいがしたって。それって……もしかして、おまえが、手首とか切った、その、血のにおいなのか?」

「…………」

 里哉は何も答えない。

 代わりに、その顔に、ゆっくりと薄笑みが浮かんだ。

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