「足りないもの」其の三
こんな国で暮らしてたまるか。こんな国で暮らしてたまるか。こんな国で暮らしてたまるか。屋敷へたどり着くまでの道中、一道は、頭の中で何度も何度もそう繰り返した。
この国には、沈み灯のように、外の世界では見られない、美しいものもある。国の人々が興じている素朴な遊びも、やったことのないものや、今の一道には縁遠くなってしまったものばかりで、新鮮といえば新鮮だ。しかし――。
里哉の家にしても、仄美の家にしても、天跳の家にしても。
なんでテレビがないのだ。
なんで殺人ミステリや妖怪バトルの本がないのだ。
なんでゲーム機の一つも置いていないのだ。
つまらない不満だと、一道は自分でも思った。どんな家でも、どんな服でも、どんな食べ物でも手に入る、いじめも自殺も泥棒も殺人もない、心優しい人々ばかりが暮らすこの国にいて、こんな不満を抱いているのは、たぶん、自分一人なんだろう。それでも。
どうしようもなく、無性に苛々した。テレビ番組。好きな本。ゲーム対戦。この国に来てからというもの、外の世界では当たり前のようにそばにあった、それらの娯楽から引き離されて。 そのことによる鬱憤が、日が経つにつれ、自分の中でどんどん大きくなってきているのは、紛れもない事実だった。
+
屋敷に戻ってから、そこにひと気のないのを確認して、一道は、屋敷の奥にある例の部屋へ行くことにした。
沈み灯は、きっとあの部屋の床下にある。
この国の民が、理土の屋敷の沈み灯を、誰も見たことがないというのなら。この国の民ではない、そして、この先も決して民になるつもりなどない自分は、その沈み灯をこの目で見てやろう。そんな気持ちが高まって、部屋を訪れずにはいられなかったのだ。
しかし、いざ座敷の迷路を再訪してみると、なんだか様子が変だった。それぞれの座敷に置かれている装飾品が、どうも、前に見たのと違っているようなのだ。あるはずの花瓶や掛け軸がなかったり、部屋ごとに柄の違う襖が、他の部屋のものと入れ替わったりしている。
(理土の仕業か……?)
先日、一道が屋敷を探り、いちばん奥の部屋までたどり着いたことに気づいて、理土が、道順の手がかりとなる各座敷の特徴を変えてしまったのだろうか。考えられることだ。
それでも一道は、冷静に、このまえたどった道順を思い出しながら進んだ。部屋の装飾や襖の柄という目印がなくても、どの方向へ行けば先に進めるか、それはだいたい記憶している。道を覚えるのは、昔からけっこう得意なのだ。
そうして、さすがに何度か迷いはしたが、さほど余計な時間もかからず、一道は、迷路の最奥となるその部屋を見つけ出した。
色とりどりの和傘を散らした襖を開けて、玩具の散らかった部屋の中に入る。
部屋には誰もいない。
一道は胸を撫で下ろした。人が来ないうちに、急いで用事を済ませよう。
部屋の奥へと進み、床の扉の前にしゃがみ込んで、一道は、扉の中にある薄闇を想像しつつ、扉板をそっと持ち上げた。
その途端、一道の瞳を、焼けつくような緋色の光が襲った。
扉の中は、一面炎の海であった。
地下室の床も壁も――いや、壁などどこにもない。燃え盛る火は、果てしなく遠くまで続いているように見える。ひょっとすると、この広い屋敷の下は、屋敷と同じだけの広さがある、一つの地下室になっているのではないか。
おそるおそる、扉の中に手を差し込んでみた。が、熱は感じられない。本当に炎がそこにあるわけではなく、やはりこれも沈み灯らしい。
しかし妙だ。里哉は、沈み灯のことをこう言っていた。地上でずっとそこにある明かりや、繰り返し同じ場所に現れる光が、やがて地中に沈んできて、それが沈み灯になるのだと。
だとしたら、この火はどういうことだ? これだけの大量の炎、火事か何かとしか思えないが、火事ならいつまでもそこで燃え続けることはないだろうし、同じ場所で何度も何度も火事が起こるというのも考えにくい。そんな性質の火が、果たして沈み灯になるのだろうか。もしかすると、理土の屋敷の沈み灯は、他の家のものとは違って何か特別な――。
「一道」
突然、背後から理土の声が響いた。
一道は、扉の中を覗き込んだ姿勢のまま固まった。振り返ることができなかった。
「どうしたの? こんな所へ来て。勝手に女の子の部屋に入って、しかも寝間を覗くなんて、不行儀なことよ」
そうたしなめる理土の声から、怒りや不愉快な感情は読み取れなかった。今振り返って見れば、理土の顔には、おそらくいつも通りの微笑が浮かんでいるのだろう。
だが、勢いよく立ち上がった一道は、理土を見ないよう下を向いて、部屋から走り出た。出口に着くまでの間に、爪先でいくつかの玩具を蹴飛ばし、何か尖った物を踏みつけたが、玩具の安否や足の痛みに構ってはいられなかった。
理土の寝間の沈み灯は、見てはならないものだったのではと思う。少なくとも、理土はあれを誰にも見せたくないがために、屋敷にあんな座敷の迷路を作ったのではないか。そんなふうに思えてならないほどに、火の粉を舞わせながらあかあかと燃える炎は、一道に、言い知れぬ禍々しいものを感じさせたのだった。
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