第十四話

「足りないもの」其の一

 仄美の家は、大きな楠のそばに建っていた。家屋は洋風で、庭がないために見通しがよく、楠のある方面以外からであれば建物の姿が一望できる。家の壁の色は、夏の日暮れあとの空を思わせる、穏やかな青だった。

 家にいた仄美は、一道が訪ねてきたことを知ると、その顔いっぱいに喜びを浮かべて微笑んだ。

「一道さんがうちに来てくださるなんて、うれしいです……! さあ、一道さんも里哉さんも、どうぞ、お上がりになってください」

「お、おじゃまします……」

 仄美の歓迎と、女の子の家に上がることに少し照れながら、一道は促されるまま中に入った。

 家の一階は吹き抜けのリビング・ルームになっていた。部屋のあちこちにはあの光る石が、やわらかい木の枝や鈍色の針金で巻かれ、家具の上に置かれたり、壁から吊るされたりしていた。部屋の真ん中には、木でできた椅子とテーブルがある。椅子の脚と背もたれ、テーブルの脚と縁の部分には、木を削った彫り跡が大きく残されていて、そのでこぼこした感じが、なんだか砂糖細工でできているみたいにも見えた。テーブルの上には、中に布を敷いたバスケット。麻か何かで編まれた素朴なその籠の中には、パンとクッキーがどっさり入っている。そしてバスケットの周りには、バターの瓶、数種類のジャムの瓶、色とりどりのまん丸いキャンディーを入れた瓶。それと、花びらのお茶が底に積もった、硝子のティーポットが並んでいた。


 パンとクッキーの良い香りに、一道の腹が鳴る。

「一道さん、おなかすいてらっしゃるんですか? よろしければ、そこのパンやお菓子、召し上がります?」

「あ、いや……」

 一道は慌てて首を横に振った。

「そうですか? それじゃ、お茶を淹れますね」

「いや、お茶もいいから。ほんと、おかまいなく。それより、えっと……二階も、見せてもらっていいかな」

 一道がそう言うと、仄美は、小さく笑みを浮かべたまま、一道の顔をじっと見つめた。

 一道はひやりとした。もしかして、怒らせてしまったのだろうか。確かに、家に来た客が好意のもてなしをことごとく拒めば、その家の主としていい気持はしないに違いない。でも、この国の食べ物に口を付けるわけには、絶対にいかないのだ。


 しかし、次の瞬間、仄美はにっこり笑ってうなずいていた。

「二階に置いてあるのは本棚くらいで、何もたいしたものはありませんけど、それでもよければ……。あ、そうだ。一道さん、うちの沈み灯はご覧になります?」

「ああ。今日は、一道がそれを見たいって言ったから来たんだよ」

「そうだったんですか。二階と、どちらを先にご案内しましょう?」

「うーんと……じゃあ、とりあえず二階のほうを」

 一道はそう答え、仄美と里哉と一緒に、二階へ上がった。

 二階は、左右の壁が斜めになった、三角形の空間だった。明かり採りの窓が付いた斜めの壁は、屋根の裏側らしい。

 二階は一階のリビングよりもずっと狭く、仄美の言うとおり、本棚と、小さな丸いテーブルと、一人掛けのソファ―が置いてあるだけだった。仄美が一人で本を読んだり、ちょっとお茶を飲んだり、お菓子をつまんだりして、くつろぐための空間なのだろう。


 この国にも本なんかあるのかと、一道は興味を引かれた。

 仄美の了解を得て、何冊かの本をちょっと開いてみる。

 一番目に手に取った本は、ページごとに挿絵の入った、小さな詩集だった。装丁も挿絵も、ふんわりとした優しい線と色遣いの絵で、それにぴったりな作風の、短い詩が綴られている。一道は二、三編の詩に目を通して、あとは、終わりまでぱらぱらとページをめくって、本を閉じた。

 二番目に手に取った本は、クリーム色の表紙に淡い色遣いで天使の女の子のイラストが描かれた、短編集だった。本に収められた短編は、夢の中の幻想的な光景や、空想の国に住む不思議な動物のことを書いた、ストーリーらしいストーリーのない、抽象的な小説ばかりだった。一道はやはり、少し読んだだけですぐに本を閉じた。

 三番目に手に取った本は、ヒツジやネコやキツネなどの動物たちが、パッチワークキルトで描かれた絵本だった。物語は、仲の良い動物たちがお茶会をするために、街へ買い物に行ったり、森に木の実を採りに行ったりするという、ただそれだけの平和なお話だった。一道は一応最後まで読んだが、どうにも物足りなさが残った。


 この本棚には、一道の好きな、孤島で連続殺人事件が起こるミステリとか、おどろおどろしい妖怪と討魔師の対決を描いたバトルとか、そういった内容の本が置かれることは、決してないのだろう。


 そのあと、三人は沈み灯を見に、地下室に下りた。

 仄美の家の地下室は、里哉の家のそれよりも、ずっと暗かった。

 月明りも星明かりもない暗闇。沢のせせらぎも聞こえない静寂。その中に蛍たちの小さな光が飛び交う光景は、外の世界でも見られそうでいて、やっぱり非現実的なものだった。

 しばらくの間、三人で沈み灯を眺めたあと、一道と里哉は仄美も連れて、今度は天跳の家へと向かった。

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