「遠ざかっていく世界」其の二
その次の日、一道は林へは行かなかった。
この国へ来てから日増しに募ってきた、空腹と徒労感が、一道の気力をすっかり削いでいた。昨日はまだなんとか頑張れたが、今日はもう、何もしたくない。連日、少量の菓子と果物しか食べずに散々林の中を歩き回って、体力もひどく消耗しているし、国の出口を探すにしても、ずっと同じ方法を繰り返しているばかりでは、同じ結果にしかならない気がする。
外つ国の話を聞きに屋敷にやってきた人々が去ったあと、一道は動く気が起きず、リュックから少し菓子を出して口にし、布団から出ることもせずに、しばらくぼんやりしていた。
時折うつらうつら眠りに落ち、また目覚め、どのくらいの時間、そうしていたかわからない。
ふと―― 一道は違和感を覚えた。
自分は、何をこんなに落ち着いているのだろう。まるで自分の家にいるように、緊張が解けている。ここは自分のいるべき世界ではないのに。異様な場所なのに。なんの警戒心もなく、こうしてうたた寝できるなんて。
それに気づき、一道は跳ね起きた。
いけない。ここに慣れてしまってはだめだ。自分の世界はこの国の外の世界なのであって、ここは自分にとってあくまで「異界」なのだから。
そう自身に言い聞かせた。だが。
一道は、自分の心に起こっているある変化を自覚し、愕然とした。
外の世界が、自分の中で、なんとなく、どこか現実味を失ってきている。
家族と過ごしていた日々。学校に通って、勉強したり、友達と遊んだりしていた日常。クラスメートと貸し借りして読んだ漫画。毎週楽しみに観ていたテレビの連続アニメ。苦戦しながら敵を倒していったテレビゲーム……。それらが、なんだかまるで、なかば夢か空想の中で経験したことのように感じられる。
自分はここへ来てから、国の民たちにせがまれるまま、自分がかつていた外つ国の話を、たくさん語った。
物語る、とはどういうことか。この国の民たちは、外つ国の話を、この国の日常には存在し得ない、異界の出来事として聞いている。それを語る自分もまた、無意識に聞き手の民たちに合わせて、本来の自分の世界である外つ国のことを、別世界の話として語っていたのではなかろうか。そうしているうちに、かつていたその世界が、少しずつ自分から遠ざかっていった。そうではないだろうか。
(いや、でも、大丈夫だ。俺はこの国の料理を食べてない。この国に心を奪われたりはしない。今もちゃんと外の世界に帰りたいと思ってる。この気持ちを、絶対に忘れやしない)
とはいえ、やはり、これから出口探しをする気力は湧かなかった。
(今日はとりあえず、少し休もう……。今日一日気分転換したら、きっとまた気合いを入れ直せる。そしたらまた明日から、この国を脱出する方法を考えればいいんだ)
よし、と、一道は布団を出て立ち上がった。
屋敷を出た一道は、特に目的もなく、その辺を散歩してみることにした。
時折、道行く人や民家の中から呼び止められたが、そのたびにそそくさと逃げ出して、どこの家にも寄らず、一人で歩いた。
こうして景色などを眺めながら平原を散策してみると、この国の民家も、外の世界のそれのように、いろいろな形のものがあるのに気づく。藁葺きだか茅葺きだかの屋根の家、土壁の家、板壁の家、縁側のある瓦屋根の家。全体的には和風建築が多く、外の世界ではもう滅多に見かけないような、古い建築様式の家もたくさんある。一方で、数は少ないが、洋風の民家も存在している。庭にレンガの花壇が似合う、出窓のある白い壁の家。絵本の中に出てくるような、ぽってりと丸みのある木の窓枠や、煙突の付いた家。そんなものもあった。
それにしても、これらの建物も全部土でできているのかと、この前の天跳の話を思い出して、一道は長い息を漏らした。
平原の風景は実にのどかだ。
人々は家の中で、外で、それぞれいろいろなことをして遊んでいる。鬼ごっこやかくれんぼ。大きな木の下ではだるまさんが転んだ。メンコ。独楽回し。羽根つき。鞠つき。木登り。太い木の枝から下がったブランコをこぐ者。紙飛行機の飛ばしっこ。ボールの投げ合いっこ。民家の縁側で、女の子たちがおはじきや人形遊びをしている姿もあった。遊んでいるのは子どもだけではない。しばしば大人も子どもに混じって、それらの遊戯に興じていた。
しばらく歩いたところで、一道は立ち止まった。
そこには、里哉と天跳と仄美がいた。
三人は、一緒に紙風船で遊んでいるようだった。みんな、葉を広げた木の枝を手に持ち、それを使って、紙風船を地面に落とさないように打ち合っている。
天跳が一道の姿に気づき、声をかけた。
「よお、一道。おまえも入るか?」
「いや、俺は……」
今、みんなと元気に遊ぶほどの体力は、一道にはなかった。
一道はそこで休憩がてら、近くにあった切株に腰を掛けて、三人の遊ぶ様子を傍観した。紙風船を打ち合うだけの単純な遊びだが、三人とも楽しそうに熱中している。
ひとしきり紙風船で遊んだあと、天跳が、飛んできた紙風船を手元に留めて言った。
「なあ、次は蹴鞠でもやらねえか?」
それに対し、里哉と仄美は溜め息混じりに答えた。
「いや、天跳と蹴鞠はやめておくよ」
「天跳さん、いつも、ものすごく遠くまで鞠を飛ばすんですもの……。この前だってたくさん失くしましたし、いくつ鞠を用意しても足りないんですから」
天跳はつまらなそうに、チッと舌を打つ。
「じゃあ、一道にまた、外つ国語りでもしてもらうかね。誰かの家で茶でも飲みながらよ」
と、天跳は一道を振り返った。
一道は慌てて首を横に振る。
「あ、いや、その……。ごめん、今、ちょっと。えっと……俺、そう、里哉に話があって」
「なんだ、そうだったのか」
天跳と仄美は顔を見合わせ、それから、同時に一道のほうに向き直って、笑みを浮かべた。
「それじゃ……わたしたちは、これで。ごめんなさい、お邪魔してしまって」
「またな、一道。今度は一緒に遊ぼうぜ」
二人は一道に手を振った。一道も、手を振り返しながら、去っていく二人を見送った。
その場には、一道と里哉の二人だけが残る。
しばしの沈黙のあと、里哉がおもむろに口を開いた。
「何? 話って」
「……なんでもない」
さっきはとっさにああ言ったが、本当は、里哉と話をしに来たわけではない。もちろん、里哉といろいろなことを話すのは重要なのであるが。でも今は、ただこれ以上、外つ国の話を語りたくなかっただけだ。
このあとどうしようかと、一道は考えた。
屋敷の外を歩いていると、外つ国の話を望んでいる土人形たちに声をかけられて、面倒だ。かといって、屋敷に戻っても、死ぬほど退屈である。
「里哉……。おまえの『家』に行っちゃだめか?」
聞くところによれば、里哉もこの国に自分の家を持っているはずだ。それを口に出せば、里哉がこの国の民になったことを認めるようで抵抗があり、また、里哉がどのような答えを返すか不安で、一道は我知らず顔をしかめた。
里哉はにこりと笑みを作って、
「別に、かまわないけど」
と言った。
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