「剥がれた傘」其の二

「あそこの傘、どうしたの?」

「剥がれちまったのさ」

「剥がれたって……なんで?」

 先ほど見た限りでは、傘の天井は、大人の天跳がぶら下がっても崩れないほど頑丈に固定されているはずだ。

「天跳の仕事……えっと、天組職人、だっけ? それって、あの天井の傘を組んだりはずしたりする仕事?」

「ああ、そうだ」

「じゃあ、傘が剥がれるのって、天跳の腕が悪いから?」

「そうじゃねえ。……って、理土さまは言ってたが」

 強い口調で否定するも、天跳は、その顔に多少不安の色を滲ませて、目を伏せた。


「俺も詳しい原因は知らねえが、ああやって天井の傘が剥がれるのには、なんでも外つ国の力が関わってるらしいんだ。さっき開いたあの穴は、まだ幸いにも傘一つ分みてえだが、五、六本分の大穴が開いたり、一気に数箇所で傘が剥がれちまうこともある。以前はこんなことはなかったぜ。傘が剥がれるようになったのは、この春になってからなんだ。それで、天井を直すために、里哉さんが毎日傘を盗ってきてくれるんだが、盗ってきても盗ってきても間に合わねえ。そんな調子だからよ、予備の傘なんてものもありゃしねえで、里哉さんが外つ国に出かけるときには、天井から傘を一つ、はずさなきゃならねえんだ」

「ああ、それでさっきわざわざ……。そういえば、俺が持ってきたビニール傘は? あれも、もう天井に組み込んだの?」

「いや、ああいう透明な傘は使えなくてな。天井の傘はさ、単に雨を防ぐだけじゃなく、この国を外から隠す役割を果たしてんだそうだ。それで、透明な傘だと具合が悪いらしい」

「ふうん」

 だったら、里哉があのビニール傘で出かければいいのにと一道は思った。わざわざ天跳に手間をかけさせてまであの青い傘を使って、里哉らしくないことだ。やっぱりここに来て変わってしまったからなのか。それとも、里哉が外に差していく傘も、何らかの理由で色付き不透明なものでなければならないのだろうか。


「とりあえず、布で穴塞いでおかなけりゃあな。誰かが近づいて雨に降られたら大変だ。まったく、穴の開いた場所が、下に家も人もない所でよかったぜ」

 天跳はそう言って、ほうっと肩が下がるほどの息を吐いた。

 一道は、ふと気になって天跳を見上げた。

「天跳。穴を塞ぐって、さっきみたいに天井に登って、穴のそばまで行くの?」

「ん。そうだが?」

「じゃあ……気をつけてね。濡れないように」

「おう」

 一道の掛けた気遣いの言葉に、天跳はうれしそうに笑みを返した。

 天跳はすぐに林へと駆け込んだ。そして、林の中でもとりわけ背の高い木の上に登ると、縄をかけて天井に登り、腰の紐に巻いていた布を取って、それを使って、手早く天井の穴を塞いだ。


 一道の所に戻ってきて、天跳は言った。

「俺もここで里哉さんの帰りを待つぜ。傘が届いたら、すぐにあの布を傘に張り替えなけりゃあ」

 天跳は、再び一道の隣に座り込む。

 布張りになった天井の一部を眺めながら、一道は、天跳に尋ねた。

「ねえ。思うんだけどさ、国中を覆う天井に傘を使うのって、面倒くさくない? 何か他の物で代用したほうが楽なんじゃないの?」

「いやいや。傘ってのは、雨に濡れないようにするための道具だからな。その目的のために作られた物だから、雨を防ぐ力が、他の物よりもずっと強いんだよ。石よりも、木よりも、鉄よりも。この国が雨を凌ぐためには傘を使うのがいちばんなんだ」

 そういうもの、なのか。

 わかるようなわからないような理屈だが、「雨を防ぐ力」が「強い」というのはなんだか妙な言い回しである。ひょっとすると、天井の傘は物理的な力だけで雨を防いでいるわけではないのだろうか。外の世界における「力」と、この異世の国における「力」とは、少し違うものなのかもしれない。


 そんなことを考えつつ、一道は天跳のほうへと視線を移した。

 天跳の目は、ぼんやりと遠くを見ているようだった。心ここにあらずといった感じで、口を開く気配がない。

 なまじ今までよく喋る相手だと思っていただけに、ここにきて訪れた沈黙は、一道を必要以上に落ち着かない気持ちにさせた。

 居心地の悪さに耐えかねて、一道は自分から天跳に話しかけた。

「天跳はさ……天組職人の仕事、いやじゃないの?」

「ん?」

 天跳は振り向き、眉を高くした。

「だって、天跳も土人形なんだろ? 穴の開いた天井に近づいたり、天井から傘をはずしたり、そんなことしてたら、いつか雨に濡れちまうかもしれないじゃないか。……怖くないの?」

「……うーん」

 天跳は腕を組み、横髪で顔が隠れるほど、首を深々と前にかしげる。


 少し間を置いてから、天跳は、下を向いたまま口を開いた。

「まあ、怖いさ、正直。おまえの言うとおり、俺の体は生土なまつちでできてるから、水に濡れると溶けちまうんだ。少々の雨ならなんてこたあねえが、雨脚の強いときなんか、情けねえ話、腰が引けちまうな」

「だったら、なんで、そんな仕事やってるの?」

「俺はそれを任された。俺くらい上手く天井に登って自由自在に動き回れるやつは、他にいねえのさ」

 確かに、青い傘を取ってきたり、さっき天井の穴を塞いだりしたときに見た天跳の運動能力はたいしたものだった。

「誰かがやらなきゃならねえことだしな……。穴の開いた天井や、古くなって破れそうな傘を放っておいたら、国の中に水が入り込む。この国にとって、それは許しちゃならねえことだ。……さっき穴の開いた場所は、下に家もなけりゃ人もいなかった。けど、こないだ同じように天井の傘が剥がれたとき、ちょうどその真下に家があったんだ。悪いことに、降りの激しい日でな。下にあった家は、あっという間に溶けて崩れて、そのとき家の中にいたやつも、家と一緒に溶けて死んじまった」


 それを聞いて、一道は小さく目を見開いた。

 天跳は顔を上げ、胸の底から押し出すように、息をついた。

「傘や紐が古くなってたわけじゃねえ。あれも外つ国からの影響で、いきなり開いた穴だった。そんなふうに外つ国の力で天井が破られるのは、俺にはどうしようもねえなんことだが……。けど、ならせめて、それ以外の原因で天井が破れることや、破れた天井から降り込んだ雨でまた誰かが死んじまうようなことは、なんとしてでも防ぎたい。そのために、古くなった傘は壊れないうちに新しいものと交換して、天井に開いた穴はすぐさま塞いで――天組は、この国にとって大事な仕事なんだ。雨が怖いからって、俺がこの仕事から逃げるわけにはいかねえよ」

 そう言うと、天跳は、また常のように、笑み上げた唇の間から歯を覗かせた。


 その横顔を見つめて、一道は思う。

 さっき、雨に溶けて死んだ者がいたと話したとき、下を向いていた天跳がどんな顔をしていたのかは、わからない。けれどたぶん、横髪に隠れたその表情は、苦しげなものだったのではないだろうか。そんな気がする。この国に住む仲間の死は、天跳にとって、きっとつらいことだったのだ。

 この国の住人たちは土人形だ。

 しかしこの国では、本来魂などないはずの土人形が、心を持っている。単に姿形が人間と同じというだけではない。天跳と話して、一道はそのことをはっきりと感じた。

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