「仄美と天跳」其の二

「天跳って?」

「もう少ししたらここに来る」

 里哉の言葉どおり、それからしばらくして、屋敷の門の前に一人の若い男が走ってきた。

 二十歳前後ほどに見えるその青年は、上下揃いの色をした簡素な仕立ての服を着ていた。上衣は、袖の短い和服の型をしたもので、腰の周りをぐるりと紐で縛って留めており、その紐には何枚もの布と、鉤の付いた縄とが巻きつけてある。ズボン型の下衣は膝までしかなく、足は裸足で、動きやすそうな服装だ。

 一道の目に見えていた間だけでも、結構な距離を足速く駆けてきた、その男は、二人の前で立ち止まってからわずか二、三呼吸で息の乱れを整え、にっと笑った。


「よおっ、お待たせ。俺を呼んだのは、里哉さんだな?」

「ああ」

「マレビトも一緒かい。そういやこいつ、里哉さんの友達なんだって?」

 男は一道を振り向いた。

「一道っていったっけか。話をするのは初めてだな。俺も、おまえさんのとこに外つ国の話を聞きに行きたいとは思ってたんだが、手が空かなくてよ。また暇ができたら、そんときはみんなと一緒に邪魔するぜ。あ、俺は、天跳ってんだ。よろしくな!」

 威勢よく喋る男に圧倒されて、一道はただ無言でうなずいた。

「さて、と。そんじゃあ」

 天跳は、再び里哉のほうに向き直る。

「いつもの傘を取ってくりゃいいのか? 里哉さん」

「うん、頼むよ」

 里哉が答えると、天跳は「よおし、待ってろ」と言うが早いか走り出した。


 屋敷の庭に駆け込んだ天跳は、どこからか梯子を持ってきて、それを屋根に立てかけ、屋敷の屋根の上に登った。そして腰の紐から鉤縄をはずし、縄の先をひゅんひゅんと回して勢いをつけると、天を覆う傘に向かって縄を投げた。

 よく見れば、傘の天井は、それぞれの傘が複雑に紐で結ばれ固定されている。縄に付いた鉤は、どうやらその紐のどこかに上手く引っかかったらしく、天跳は、縄をするすると登っていった。やがて上まで登り切ってしまうと、天跳は、傘を組み縛る紐に掴まりながら移動して、あっという間に一道と里哉のいる真上の、青い傘へとたどり着いた。

 天跳は、鮮やかな手際で傘に絡んだ紐をほどき、無数の傘の中に組み込まれた青い傘を、一つだけはずした。それによって周りの傘が崩れることはない。

 傘の天井に、欠けた傘一つぶんの穴が開く。そこから灰色の曇り空が小さな点となって覗き、一道たちのいる地上に雨粒が降り込んだ。里哉は数歩退いて雨を避けたが、一道はその場から動かず、懐かしい外の世界の空を、じっと見上げた。


 天跳は、腰元に身に付けていた布を、傘をはずした箇所に張って、穴を塞いだ。そしてまた屋敷の屋根の上に戻り、青い傘を持って一道たちの所に帰ってきた。

「はいよっ」

 と、天跳は里哉に青い傘を渡した。

 それを受け取りながら、里哉は一道に言った。

「天跳はね、天組てんぐみ職人なんだ。この国ではすごく大切な仕事なんだよ」

「天組……」

 一道は天跳の顔を見つめる。

 天跳は目を合わせ、人懐っこい笑みを一道に向けた。

「じゃあ、僕は行ってくるね。ありがとう、天跳」

「おう、気をつけてな」

「え? 行ってくるって、おいっ……」

 歩き出そうとした里哉を、一道は慌てて呼び止めた。

「待てよ、里哉。もしかして、これからまた、町に傘を盗りに行くのか?」

「うん、そうだよ」

「国の外に出るんだな? だったら、俺も一緒に行く!」

 一道のその言葉に、里哉は無言でただ一瞥を返し、歩き出した。

 一道は構わず追おうと里哉に駆け寄った。しかしそのとき、天跳が、後ろから一道の両腕を掴まえた。

「なんだよ、放せよ!」

「そうはいかねえ。さ、今のうちに、行きな、里哉さん」

「……ああ」


 里哉は林のある方角へと向かう。

 一道は、天跳の手を振りほどこうと暴れたが、天跳との力の差はあまりにも歴然で、どうすることもできなかった。

「天跳、頼むよ。俺は外に出たいんだ。里哉と一緒に帰らなくちゃいけないんだ!」

 一道は振り向いて、天跳の顔を見上げ訴えたが、天跳は硬い表情で首を横に振った。

「だめだ。一度この国に足を踏み入れたマレビトは、そのまま国に留まって国の民になる。それがこの国のしきたりだ。一旦国の民になってしまえば、里哉さんのように用事を持って外つ国に出向くこともできるが……一道、おまえは、まだマレビトだからな。おまえが外に出て行こうとしてるのを見たら止めるようにと、理土さまにも言われてんだ。悪く思うな」

「理土の……命令なのか、やっぱり」

「しきたりを守ろうとしてるだけさ。理土さまも、俺たちも。この国と外つ国とはさ、やたらに混じり合っちゃあいけないもんなんだそうだ。それに、どうせ無駄だぜ、里哉さんを追いかけても。里哉さんが外へ出るときに使う道は、おまえのための道じゃないからな。里哉さんに付いてったところで、おまえはたぶん、途中で道に迷っちまうだけだ」

「そんな……」


 そうこうしているうちに、里哉の姿はどんどん遠く離れていき、やがて一道たちのいる所からは見えなくなくなってしまった。

 それからさらにしばらくして、天跳は、ようやく一道の腕を放した。

 掴まれていた箇所に痛みが残る。一道は悔しさで泣きそうになり、ぐっと奥歯を噛んでうつむいた。

 そんな一道の様子を見て、天跳はうろたえた声を出した。

「あー、そんな顔すんなよぉ……」

 天跳は、かがみ込んで一道の肩を掴み、もう片方の手でわしゃわしゃと頭を撫でた。やや乱暴な仕草ではあったが、一道は、不思議とそれを嫌だとは感じなかった。

 溢れる直前でどうにか持ちこたえた涙が引いてから、一道は、一回深呼吸して顔を上げた。

 天跳が安堵したように息をつく。


 そのとき、一道はふと気づいた。

 この天跳という男に、自分は、以前どこかで会ったことはないだろうか。

 なんとなく、初めて会って話した気がしないのだ。ずっと前から、自分はこの人を知っているように思えてならない。――いや。正確には、たぶん天跳本人に会ったことがあるのではなく、天跳に似ている誰かを、知っているのだ。

 それが誰なのか。思い出そうと、一道は天跳の顔を見つめたが、どういうわけか、見れば見るほど余計にわからなくなってくる。

(……あとでゆっくり考えてみよう)

 疑問を胸に引っかけたまま、一道は天跳から目をそらした。

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