第九話
「仄美と天跳」其の一
屋敷の建物を出た一道は、反射的に頭上を見上げた。
空は相変わらず、無数の傘によって、目の慣れ難い色合いに染まっており、傘を叩く、輪郭のぼやけた雨音が天を包んでいる。まだ梅雨は明けないようだ。そういえば、理土が昨日、 梅雨が明けたら……どうとかと言っていたが。なんだっただろう?
一道は屋敷の門をくぐって外に出た。
と、そこで、思いがけず見知った顔と鉢合わせた。
「あ、一道さん」
「おっと」
二人はお互い声を上げて立ち止まった。
相手は、昨日広庭で里哉の居場所を教えてくれた、あの少女だった。
少女はここまで走ってきたらしく、軽く息を弾ませながら、一道の顔を見て微笑んだ。
「ああ、よかった、まだいらしてくれて」
「え……何? 俺に用?」
「はい、あの……。今朝、一道さんの所へ大勢お邪魔したでしょう? 本当は、わたしもみなさんと一緒に朝いちばんで来たかったんですけど、食事の準備があって、遅れてしまって。それであの……もしよろしければ、私にも、みなさんに話した外つ国の話を、聞かせてはもらえないでしょうか」
「ああ、なんだ。そんなことか」
一瞬、少女が理土の命令で、自分を食事に呼びにでも来たのかと思った。用事というのが少女の個人的な頼みだとわかって、一道は胸を撫で下ろした。
「お話していただけますか?」
少女は、体の前で下ろした手の指を組み、瞳を輝かせて一道を見つめた。
一道はうなずいて、
「いいよ。でも、その代わり、俺も聞きたいことがあるんだ。いいかな」
「はい。なんでしょう?」
一道は、一つ唾を飲み込んで、一呼吸のためらいのあと、少女に尋ねた。
「この国の人たちは――本当にみんな、人間じゃなくて、土人形なの?」
「はい。そうですよ」
こともなげに少女は答えた。
あまりにあっさりしたその反応に、一道の気負いは行き場を失う。
しかし、考えようによってはむしろ都合がいい。このぶんなら、いまだにわからないことだらけであるこの「コトヨノクニ」について、もっといろいろなことが聞き出せるかもしれない。そう思い、一道は重ねて質問した。
「どうして、土人形がこんなふうに国を造って暮らしてるの?」
「どうして……と、言われましても」
少女は、困った顔になって言葉を濁した。
「わたしは、生まれたときからここでこうしてみなさんと暮らしていますし、ここにこの国があることも、自分が土人形だということも、当たり前のことだと思っていましたから……。それがどうしてかというのは、わたしには、よくわからないんです。ごめんなさい」
少女は申しわけなさそうに頭を下げた。そして、ふと思い出したように顔を上げ、
「そうだ。林のそばに住んでいるフタリメさまなら、とても物知りな方ですから、そういったことも知ってらっしゃるかもしれません。フタリメさまの所へ話を聞きに行きますか? これからでも、ご案内しますけど」
「あ、いや」
一道は首を横に振った。気になるといえば気になるが、ここにこの国が存在する理由などは、別に、どうしても今すぐ知らなければならないということでもない。知る必要が生まれれば、そのときこの子に頼んで、その「フタリメさま」とやらに会いに行けばいいだろう。当面はそれよりも優先すべきことがある。
「今日はいいよ。どうもありがとう。……えっと」
一道は、そこで初めて、まだこの少女の名前も聞いていないことに気がついた。
「そういえば、君の名前、なんていうの?」
一道が尋ねると、少女は一つ瞬きし、笑みを取り戻して答えた。
「はい。
その名を聞いた瞬間、一道は思わず息を詰まらせた。
ほのみ。
聞き覚えのある名前の響き。
それは――。そうだ。昔、西の林で理土と出会ったとき、理土と一緒に土遊びをした里哉が作った、土人形の名前だ。
この少女は、あのときの土人形だったのだ。
言われてみれば、この少女の表情や仕草などは、どことなく里哉に似ているところがある。昨夜の宴の席で話したときも、なぜか初めて会った気がせず、この少女が最初から気心知れた相手のように思えたのは、彼女に里哉の面影を感じていたからだったのだ。この国の土人形というものは、それを作った人間と近しい性質を持つのであろうか。
「どうかしました? 一道さん」
「いや……」
一道は、頭の中がねじれるような感覚に襲われた。
やはり、この国の人たちは、土人形なのだ。人の作った土人形。でも、目の前にいる仄美はどう見ても人間にしか見えないのに。やわらかな髪の毛も、睫毛も、瞳の光も、人間の少女そのものだ。
けれど――確かに何か、違っている気がする。はっきりとはわからないほどの、かすかな違和感。それが、人と変わらぬ形をして、動き、喋り、微笑む、この少女が、本人の言うとおり人ならぬものなのだということを、一道に信じさせた。
ともあれ、一道は仄美の頼みに応え、今朝屋敷を訪れた人々に語ったように、外の世界のいろいろなことを語って聞かせた。仄美がそれをうれしそうに聞くので、一道もうれしくなって、夢中で話した。
そうしていくらかの時間が経ったとき、屋敷の門の前に人がやってきた。
里哉であった。
門柱に背をもたれて座っていた一道は、里哉の姿を目にするなり、跳ねるように立ち上がった。昨夜と違って、里哉は洋服姿だった。学校に傘を盗りに来ていたときと同じ服だ。
「おはよう、一道。仄美に外の話を聞かせてやってるのか?」
「うん……」
一道は、地面に腰を下ろしたままの仄美へ、遠慮がちに目を落とした。
仄美にはまだ、今朝大勢の人々の前で語ったほどたくさんのことは、話していない。しかし、こうして里哉に会えたのだから、できればすぐにでも里哉と話をしたかった。
仄美はそんな一道の心情を汲み取ったらしく、すぐに腰を上げて、一道に深々と頭を下げた。
「どうもありがとうございました、一道さん。じゃあ、わたしはこれで。また、いろんな楽しいお話を聞かせてくださいね」
不満げな顔一つ見せずそう述べると、仄美は里哉にも会釈して、小走りで去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、いい子だなあ、さすが里哉の作った人形だ、と、一道は胸の中が温かくなるのを感じた。
しかし、今、当の里哉はというと……。
一道はあらためて里哉に視線を向けた。
「何しに来たんだ?」
「言っておくけど、別におまえに会いに来たわけじゃない」
里哉はなんでもないようにそう返した。
一道は里哉を睨みつけた。やっぱり、今ここにいる里哉は里哉じゃない。昨日の夜、林の外で二人で話をしたときは、違っていたのに。
「何しに来たかって聞いてるだけだろ。理土に用か?」
「いや、違うよ。ここに、あの傘があるんでね」
里哉は頭上を指差した。
一道が見上げると、二人のいるちょうど真上くらいの位置に、空を覆う傘の天井の中に組み込まれた、一道の青い傘があった。
あの傘がここにあるからなんだというのか。それを、里哉に尋ねようとしたとき。
里哉は唐突に、屋敷に背を向け、大きく息を吸い込んで、両手を筒のように口元に寄せたかと思うと、
「
と、大声で叫んだ。
一道が呆気に取られていると、屋敷の近くにある民家の、いくつかの窓から家人が顔を出し、それぞれ同じように「天跳ー!」と叫んだ。それを受けて、少し遠くにある家からも、同じ叫びが繰り返される。叫び声はどんどん数を増しながら、こだまのように広がり、遠のいていった。
「なんだ? 今の」
一道は怪訝な顔で里哉に聞いた。
「だから、天跳を呼んだんだよ」
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