「雨を忌む国の民」其の三

 抱えた膝に顔をうずめ、一道は力なく吐き捨てる。

「理土のとこに行くくらいなら、この国から出られなくても、この辺で野宿したほうがましだ」

「一道……」

 里哉は、たしなめるような、困った口調になった。

「そう言うなよ。大丈夫だって。理土さまも、他のこの国の人たちも、おまえのこと悪いようにはしないから。マレビトは大切にもてなすのがしきたりだからさ。安心して屋敷に戻りなよ」

「その……マレビト、ってのは、一体なんのことだ?」

 耳慣れない言葉の意味が、一道はずっと気になっていた。

「マレビトはね、お客さんって意味だよ。この国では、外つ国から来た人を特にそう呼ぶんだ」

「トツクニ、ってのは?」

「外つ国は、この国の外の世界……僕たちが住んでた世界のことだ」

 住んでた、という過去形の言い方が気に入らなかったが、一道はとりあえず「そうか」とうなずいた。


「なあ、一道」

 里哉は、一道の脇に置かれたリュックに目をやって言った。

「そのリュックの中、いつもみたいにお菓子が入ってるの?」

「え? ああ」

 不意にそんなことを聞かれた一道は、多少戸惑いつつ、リュックの口を開けて、その中に詰まっている菓子類の箱や袋を里哉に見せた。チョコレート、ビスケット、飴やガム、スナック菓子、ペットボトルのジュース。色とりどりのパッケージが、リュックの上にかざした釣燈篭の光に照らし出される。

「すごい量だな」

 リュックを覗き込んだ里哉は、驚きと呆れの混じった声で呟いた。

「気合い入れてきたんだよ。傘泥棒をふんづかまえてやろうと思ってさ」

「気合いの入れ方がこれ、か。相変わらずだなあ、おまえは……」

 里哉の頬がほころび、ほんの少し歯を覗かせたその唇の隙間から、くっく、と笑い声がこぼれる。

 一道は思わず目を見張った。

 昔から、いつもリュックやポケットにお気に入りのお菓子を忍ばせ、何か普段やらないようなことをしたり、普段行かない所へ行ったりするとなれば、こんなふうにリュックいっぱいにお菓子を詰め込む癖のある一道のことを、里哉はよく「子どもだな。一人で遠足にでも行くみたいだ」と笑った。馬鹿にするふうではなく、ただおかしそうに笑うのだ。

 今、目の前にある里哉の笑顔は、一道の記憶の中にあるものと同じ、見慣れた里哉の顔だった。


 一道は、息を詰まらせて里哉を見つめる。

 その視線に気づいた里哉は、途端に顔から笑みを消し、直後にまたあらためて笑顔を浮かべた。その明らかな作り笑みからは、もはや感情らしい感情は読み取れなかった。

 里哉は言った。

「まあ、ちょうどいいや。とりあえず、このお菓子で腹ごしらえしなよ」

「ん……。ああ、そうだな。食べ物持ってきてたの、すっかり忘れてたよ」

 一道は、さっそくリュックの中をごそごそと物色する。選んで取り出したのは、いろいろある菓子類の中でも特に腹持ちしそうな、ミニチョコ大福の大袋。それと、一本だけ持ってきたペットボトルのジュースだった。

 一道は大袋を開けて、個別包装されているチョコ大福を二つ取り出し、一つを里哉のほうへ差し出した。

 しかし、里哉はそれを受け取ろうとはしなかった。

「おまえ、食わねえの?」

「僕はいいよ。それはおまえの食糧だから、全部おまえが食べればいい」

「……そうか?」

 一道が少しためらいつつ大福を持つ手を引っ込めると、里哉はぽつりと低い声で、

「くれぐれも大切にな」

 と付け加えた。

 一道は、端にギザギザのある大福の小袋を破りかけて、手を止める。

 一道と里哉は互いに視線を合わせた。

 里哉は目を細めた。その顔に、もう先ほどまでの作り笑みはない。

「一道。ここはおまえにとって危険な場所じゃあない。さっき言ったように、この国の人たちはおまえに危害は加えない。でも――この国の食べ物や飲み物には絶対に口を付けるな。いいな? 絶対にだぞ」

 その忠告に、一道は無言でうなずいた。忠告自体は、今さら言われるまでもないことであったが。


 それから一道は、ミニチョコ大福五つとペットボトルのジュースを腹に入れた。もっと食べたかったけれど、ここでは限りのある大事な食糧なので我慢する。ただ、五〇〇ミリリットル入りのジュースは丸々一本飲み干した。本当は半分くらい残しておこうとしたのだが、里哉が、全部飲んで空いた容器を渡すようにと言ったからだ。明日、そのペットボトルにきれいな水を汲んできてくれるという。

 空腹が治まって人心地つくと、一道は、理土の屋敷へ行ってもいいかなという気になってきた。それなりに腹が満たされたことで、いくらか強気になり、もし理土たちに何かされそうになったらそのときは反撃してやるぞ、という闘志が湧いた。土や草の上でなく、ちゃんと布団で眠りたくもあった。外つ国から来た客を大切にもてなすのがここのしきたりであれば、寝床に布団くらいは用意してくれるだろう。体も頭も疲れきったこんなとき、やわらかい布団にくるまって眠れたら、たまらなく気持ちいいに違いない。

 それに、「危険はない」という里哉の言葉を信じたくもあった。


「理土の屋敷に行く」

 一道がそう告げると、里哉は「それがいいよ」とうなずいた。

 一道は、里哉と共に理土の屋敷に向かった。

 道を行く途中、一道は、里哉になぜこの国に来ることになったのか、なぜ家に帰ろうとしないのか、懲りずにしつこく問い詰めたが、里哉はまともに答えようとはせず、はぐらかし続けるばかりだった。

 里哉は一道を屋敷の門の前まで送り届けると、一道から空のペットボトルを受け取って、

「じゃあな」

 と手を振り、石の明かりが灯る土の道を引き返していった。

 一道はしばらく里哉の後ろ姿を見つめていたが、里哉は振り返ることなく、やがて、その姿は闇に埋もれて見えなくなった。

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