「雨を忌む国の民」其の二

 一道は無意識に足を止め、寸刻ふつりと表情をからにした。

「……土人形?」

 呑み込めないそれを喉から吐き出し、繰り返す。

 里哉はうなずいた。

「土人形っていっても、焼かれてはいないんだよ。生土なまつち、つまり粘土だ。体が乾くと動けなくなっちゃうからね。ここに住む土人形たちの体は粘土でできている。だから、雨に濡れれば体が溶ける。それで、あんなふうに空一面に傘を張って、国を守ってるんだ」

 続く里哉の声は、ほとんど一道の意識を上滑りしていった。

 今までだって何もかもおかしかった。行方不明になった里哉が傘を盗んでいたことも。この国に来るまでにたどった道のりも。空を覆う無数の傘も。数年前と姿形の変わらない理土も。土のにおいがする料理も。だからこそ、もうこれ以上は、という思いがあった。その「これ以上」のことが告げられたのだ。

 一道の中で、とうにひび割れていたであろう何かが決壊した。そこから「現実」が流れ出していく。代わりに、本来交わってはならないものが入り込んでくる。そんな感覚に囚われた。


「逃げよう」

 うわごとのように、一道は呟く。

「だめだ。逃げよう。早くここから出ないと……」

 一道はふらふらと歩き出した。里哉は黙ってそれに従う。目指していた林らしき木々の帯は、もう目の前だった。

 道は林の手前で途切れていた。道の脇の明かりもそこでなくなっており、林の中は真っ暗だった。手元に釣燈篭の明かりがあるとはいっても、こんな道のない夜の林などに入ったら、方向がわからなくなりそうだ。しかし、だからといって、一道は、夜が明けるまでこの国からの脱出を見送ろうという気にはなれなかった。

 一道はとりあえず、どこかに林の中へ続く道がないか調べることにして、林の輪郭をなぞるように、ひたすら歩いた。かなりの長い時間がかかった。が、その結果は、一周してもとの場所に戻ってきただけだった。探し求めるような道はどこにも見つからなかった。

 どうやら、理土の屋敷や広庭や民家のある平原は、途切れることのない林にぐるりと囲まれているらしい。林によって隔絶されたその空間が、おそらくこの「国」の領土なのだろう。

 仕方がないので、一道は、道がないのも構わず、里哉と共に林の中に踏み入った。とにかく一歩一歩注意してまっすぐ進んでいけば、いずれ林の向こうへ突き抜けることができるかもしれない、と思ったのだ。


 そうしてしばらく歩いていくと、二人の前に林の出口が開けた。

 しかし、林を抜けた先にあったのは、一道たちの住んでいた町ではなく、土の道の脇や民家の窓に、石の明かりが灯る、夜の平原の景色だった。


「おかしいな、まっすぐ歩いてきたつもりだったのに……」

 一道は首を傾げた。やはり、夜の林を方向感覚を失わずに進むのは、困難なことなのだろうか。

「そうだ」

 と、一道は思いついて、道の脇に並ぶ石の中から、手の平に収まるほどの小さな物を二つ、選んで拾った。それを持って再び林に入る。

 一道は、まず光る小石の一つを林の入口付近に置き、そこから少し進んだ所にもう一つの小石を置いた。さらに、二つの小石を結んだ延長線上に釣燈篭を置く。そして最初に置いた小石を回収し、それを燈篭と置き換え、また二つの小石を結んだ延長線上に燈篭を置く。こうすることで、進行方向は常に林の入口とは反対方向に伸びていくはずだ。本当なら小石を回収せずに置きっ放しにしていたほうがよいのだが、それほど大量の光る小石を即座に集めることはできそうにないので、この方法が精一杯だった。完璧にまっすぐ進むのは難しいかもしれないけれど、それでも、これならそんなに的外れな方向へ進んでしまうことはあるまい。


 そう考えたのだが、二度目に林を抜けた先も、やはりもとの平原であった。


 その後も一道は、いろんな場所から林に入り、あきらめず小石の目印を使って、何度も何度も林の向こうへ出ようと試した。しかし、果たしてどこでどう間違うのか、いくらやっても、どうしても林の向こう側へは抜けられず、必ずもとの平原のどこかへと戻ってきてしまうのだ。

「どうなってるんだ……」

 空腹を抱えて散々歩き回った一道は、何度目かに林を出たところで、ついに力尽き、その場にへたり込んだまま一歩も動けなくなった。

 その横に、自分も腰を下ろして、里哉が言った。

「無駄だよ、あきらめろ」

「うるさい……」

「だって、もう疲れたろ? 今日はとりあえず、帰って休みなよ」

「だから、こうして帰ろうとしてるんじゃないか」

 一道が苛立った声で言い返すと、里哉は手を伸ばして、ある方角を指差した。指し示した先は、平原の中央、理土の屋敷のあるほうだった。

「あそこに帰れってのか? バカ言え。なんのために、俺がこうやって逃げてきたと思ってんだ。あの屋敷で休むなんて、わざわざ捕まりに戻るようなもんじゃないか」

「おまえを捕まえておくつもりなら、広庭を出ようとしたときに誰かがそうしてるさ」

 もっともな理屈を返され、一道は言葉に詰まる。

「おまえはこの『国』から出られない。さっきのことで、それは充分わかっただろう? この国の者はみんなそのことを知ってるから、誰も、あえておまえを捕まえようとはしなかったんだよ」

「…………」

 一道はうつむいて眉を寄せ、不満を露わに唇を曲げた。

「だからって……。理土の屋敷になんて。あんなとこ、言ってみりゃ、敵の大将の本拠地みたいなもんじゃないか。行ったら何されるかわかったもんじゃない」

「どうして、理土さまがおまえの敵なんだよ。理土さまが、今までおまえに何か危害を加えたか?」

 理土さま。

 里哉がそう呼んだのを聞いて、一道の胸の中を、針の玉が転がったようなちくちくとした不快感が走った。

 里哉がなんと言おうと、一道にしてみれば理土は敵だった。一道は里哉を連れて帰りたい。なのに里哉がこのまま家に帰ろうとせず、その原因がこの国にあるというのなら、この国を治める理土は、一道にとって敵の大将に違いなかった。

「くそ……。この、バカやろっ」

 一道は軽く拳を振り上げて里哉を叩くまねをした。

 すると、里哉は顔を引きつらせ、立ち上がる余裕もないほど慌てた様子で、一道のそばから飛び退いた。

 その反応に驚いたのは一道のほうだった。本気で殴るつもりなんかない。ただふざけただけだったのに。以前の里哉であれば、それがわかったはずなのに。

 以前の里哉であれば……。そんなふうに考えることも、一道はもうむなしくなってきていた。

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