第七話

「雨を忌む国の民」其の一

 広庭から伸びる道をいくらか進み、庭からだいぶ遠ざかった頃、一道はようやく走るのをやめて里哉の服を放した。けれどもまだ立ち止まらずに、さらに先へと道を歩む。道が、このままだいたい真っすぐの方向に伸びていれば、やがては林であろうあの木々の帯にたどり着くはずだ。

 辺りはすっかり暗くなっていた。

 周りには、外の町にあるような電気の街灯こそないが、土の道の脇にところどころ、ぼんやりとした明かりが灯って、足元の地面をやわらかく照らしていた。それは広庭にもあった明かりだった。明かりの源は石だった。半透明で、歪だが丸みのある形をした石が、道に沿って地面に置かれており、その内部から、淡い光が不規則に揺れつつ溢れ出しているのだ。この明かりがなければ、晴れた夜でも星月の光がろくに差さないここは、真っ暗になってしまうだろう。

 地面ではなく、明かりが空中に灯っている場所もあった。近づいてみると、道の横に一本の木が生えていた。その木の枝に、石の入った釣燈篭がいくつかぶら下げられている。

 一道は手の届く高さにあった釣燈篭を一つ、拝借した。

「きれいだな、これ」

 一道は、釣燈篭を持つ手を里哉のほうへ伸ばして言った。それ自体はどうでもいい、長い沈黙の気まずさに耐えかねて発しただけの台詞だった。

「なあ、里哉」

「うん」

 里哉は、一道のほうを見ずに無感情な声で返す。釣燈篭の明かりを浴びて、闇の中に浮かぶその横顔が、一道の目には、やはりなんだか以前の里哉とは別人のように映った。

 一道はうつむいて、再び口をつぐんだ。

 信じられない。里哉に話しかけるのに躊躇しなければならないなんて。長い付き合いだから、これまでにも何度かけんかはしたし、そのたびに気まずい思いもしたが、けんかであれば、自分も里哉と話したくない間だけ互いに距離を置いて、仲直りしたいと思って近づけば受け入れてもらえた。いつでも元の仲に戻れる。そう確信できる間柄だった。なのに。


 ――悪魔の鏡のかけら。


 そんな言葉が、ふと頭の中に浮かんだ。

 小さい頃読んだ童話、アンデルセンの『雪の女王』だ。童話にはカイという名の男の子が出てくる。カイは心の優しい子だったが、ある日、空から降ってきた悪魔の鏡のかけらが心臓に刺さって、その心臓は氷の塊のようになり、カイは冷たく意地悪な心の持ち主になってしまう。そんなカイのもとに雪の女王が現れ、カイを氷でできた自分の城へと連れ去る。カイと仲のよかった幼なじみのゲルダはカイを捜す旅に出て……。

 今思えば、あの童話も、一種の神隠し物語と呼べるものかもしれない。

 『雪の女王』では、ゲルダと再会したカイはもとの温かな心を取り戻し、ゲルダと一緒に二人が住んでいた町に帰ってきて、物語は終わる。

 傘盗りさまの神隠しの話ではどうなのだろう。傘盗りさまに攫われて、再び家に帰ってきた人間はいるのだろうか。祖父はそこのところについては何も語らなかった。

わからないが、どちらにしても。

 自分も里哉を連れ戻しにここへ来た。その目的は変わらない。いや、変えるものか。

 怯んでいる場合ではない。もしも今、里哉の心臓に悪魔の鏡のかけらが刺さっているのだとしたら、そのかけらを抜き取らなければならない。そうでないと、きっと里哉をもとの世界へ連れて帰ることはできないのだ。


 一道は、一つ深く息をした。

「里哉……家に帰らないか?」

「帰らない」

 意を決しての問いかけは、あえなく跳ね返された。

 一道は、苦しいほどに打つ動悸を感じながら里哉を睨む。

「なんでだよ、どういうことだよ! おまえが帰らなきゃ、家の人が心配するだろ? 家族だけじゃない。学校の友達も、先生も……。おばさんやおじさんが、おまえがいなくなって、毎日どれだけつらい思いして過ごしてるかわかってんのか? ずっと待ってんだよ。おまえが死んだかどうかもわからないから、あきらめることもできなくて、でもおまえは何日経っても帰ってこなくて……。昨日、俺、おまえのうちに行った。おばさんに会った。おばさん、当たり前だけど元気なくて、一緒におまえのこと話してたら、泣き出して……。おばさん、おまえがこのまま帰ってこなかったら、そのうち倒れるかもしれないぞ。昨日会ったときだって、もう倒れそうだったんだ」


 最初怒りを含んでいたはずの一道の声は、いつの間にか涙声混じりのものになっていた。

「なあ、おまえ、平気なのか? おばさん、絶対、俺が知らないときにもっともっといっぱい泣いてるよ。おじさんだってきっとそうだ。なのにおまえ、帰るつもりはないっていうのか?」

 一道の問いに、里哉は無言でうなずいた。

「なんで……」

 一道は、かすれる声を無理やり押し出し、唾を飲み込んだ。喉の奥が、乾いた石にでもなったかのように痛かった。

「じゃあ……ちゃんと、説明しろ。なんで家に帰らないのか。なんで、そんなにここにいたいのか。俺に納得できるように、教えろよ」

 しかし、里哉は何も言わない。固く唇を結んだままだ。

「だいたい、ここ、なんなんだよ。コトヨノクニってなんだ? なんでこんな所にこんな場所があるんだよ。……こんな所ってどこだよ。ここ、どこにあるんだよ!」

 もはや、里哉に問うているのか、自問しているのか、一道自身にもわからなかった。里哉に伝えたい言葉も、ただ自分が叫びたいだけの言葉も、先ほどとはうって変わって、里哉の沈黙に引きずられるように溢れ出てくる。

「なあ……里哉。一緒に帰ろう。こんなとこに、いつまでもいちゃいけない。ここがどういう所なのか、俺にはよくわからないけど、でも、きっと、俺たちが来ちゃいけない場所だ。だって、こんな……料理が土のにおいで……空を傘が覆ってて……」

 一道は思わず頭上を見上げた。だが、空はただただ真っ暗で、傘も何も見えなかった。雨の音は依然として止まない。

「おまえが学校の傘を盗んでたのは、あれのためか? 空のあの傘は、一体なんだ? あんなものあったら……もうじき梅雨が明けて、せっかくいい天気になっても、もう太陽も見られないじゃないか」

 すると、里哉がぽつりと言った。

「太陽なんて、この国には必要ないんだよ」

 その言葉に、そして里哉がようやく言葉を返したことに、一道は目を見開く。

「どういうことだ?」

「空を覆う傘は、この国に雨が降るのを防ぐためのもの。それが日の光まで遮ってしまうのは仕方ない。日の光も、雨も、同じ空から降ってくるものだからね。この国の民はあえて太陽を望みはしない。この国の民にとっては、太陽を捨ててでも、雨を防ぐことが何よりも重要なんだよ。――ここは」

 里哉は一道を振り向き、広庭を出てから初めて一道と目を合わせた。

「ここは、土人形の国なんだから」

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