「色とりどりの、薄暗い空」其の二


 一道は、屋敷の門前から伸びる道を歩き出した。

 そのときであった。

 ふと、周囲に響いている音が、一道の意識の中に割り入った。

 気づいたのは、今のことである。しかしそれまでも絶えず聞こえ続けていた。

 いつからだ? と一道は記憶をたどる。座敷の外へ出たとき? 座敷の畳の上で目覚めたとき? いや、もっと前……? いつからかはわからない。ともかくも、今はじめて、一道はその音を耳に留めた。

 音は、どこから響いてくるというものでもなかった。どこまでか定かでない、この辺りの空間全体を、ぼおっとやわらかく包み込んでいる。


 奇妙なのはそれだけではない。

 もう一つ、一道は気づいたことがあった。

 座敷の外に出てからというもの、周りの景色が、やけに薄暗いのである。

 ただ薄暗いというだけなら、自分が倒れて気を失っているうちに日が暮れたのだろうと解釈するところだ。だが、違う。単に光の量が少ないというだけではなく、もっと、何かが違う。


 ――色。


 そうだ。景色の色合いに、なんとなく違和感があるのだ。今まではっきりわからなかったほど微妙なものではあるが、確かに、こんな色の景色はこれまで見たことがなかった。日が暮れただけでは、夕焼けでもそうでなくても、こんな色合いにはならない。

 なぜこんなふうに見えるのか。めまいのせいか?

 一道は何度か強く瞬きして、瞼の縁をこすった。そうして目を開けてみたが、景色の色合いの違和感は依然として変わらない。

 自分の目のせいでないのなら。

 夕陽で町がオレンジ色に染まるように、空にある何かが景色をこんな色にしているのかもしれない。

 一道は空を見上げた。

 その瞬間、足が止まった。


 空は。

 空ではなかった。


 晴れ渡った青一色でも、曇りの灰色でもない。雲が浮いているわけでもなければ、西から東へと徐々に色を変えていく、明け方、夕方のそれでもない。

 その空は、様々な色の粒がもろもろと混ざり合って、まるで、ぎっしり色とりどりのプリントが入った巨大な包装紙を、天いっぱいに広げたかのようであった。色の粒の一つ一つを透かした光が地上に降り注ぐため、景色の色が、これまで目にしたことのないような不思議な色合いに見えたのだ。普通の目線の高さで見える遠い空は、色が細かく混ざりすぎていてわからなかった。真上を見上げてみて、はじめてそのことが知れたのである。


 そんな空でない空に、一ヶ所だけぽつんと青い点が滲んでいるのを、一道は見つけた。 

 あそこだけ「空を覆っているもの」に穴が開いている。その穴から、空本来の青色が覗いている。一道は反射的な思考でそう思った。しかしほどなくして、自分がその色を、ここ最近では青空以上に見慣れていることに気づく。

 それは、一道が持っていた傘の色だった。

 盗まれたあの青い傘が、空に貼りついているのだ。

 よく見ればその青色の周りの色の粒も、すべて、残らず、傘であった。天を埋め尽くす、見渡す限りの、傘、傘、傘。その上にあるはずの空を覗く、一条の隙間さえ、どこにもありはしない。

 周囲に絶えず響いているこのぼおっという音は、おそらく、頭上を覆う無数の傘を雨が打つ音であろう。


「一道」


 背後から声をかけられ、一道は振り返った。

 理土だった。理土は、ついと顎を上へ向けて、先ほどまで一道がしていたように空を、いや、傘の天井を仰ぐ。

「あの青い傘は、一道の傘ね? ……じゃあ、あなたは、やっぱり里哉についてここに来たのかしら。マレビト一人ではこの国には入ってこられないはずだもの。きっと、里哉が寂しがって、友達のあなたを勝手に連れてきてしまったのね」

「里哉を知ってるのか?」

 一道が思わず尋ねると、理土は、目を細めてくすりと笑った。

「もちろん知ってるわ。昔、里哉とあなたと、三人で一緒に遊んだじゃないの。あなたは土遊びはしなかったけれど、でも、あのとき二人とも名前は聞いたわ。だからあなたの名前も覚えていたのよ」

「そうじゃなくて、里哉の居場所を、おまえは知ってるんじゃないのか? 俺がここに来たのは……おまえの言うとおりだよ。里哉が俺を連れてきたのかどうかは知らないけど、とにかく里哉を追いかけてきたら、この……『国』に、たどり着いてたんだ。里哉もここにいるんだろう? おまえは、ここを自分の国だって言ったよな。だったら何か知ってるはずだ。里哉は今、どこにいる?」

 一道は理土に掴みかからんばかりの形相で睨みつけるが、理土の表情は薄笑みのまま、微動だにしない。

「慌てることはないわ。里哉には、じきに会える。わたしも邪魔をするつもりはないわ」

 理土はゆっくりと片腕を上げた。着物の上を絹の光沢が滑る。肩の高さまで上げられた腕が真っすぐに伸ばされて、袖に描かれた金色の大輪が開く。その袖から出された、生白くほっそりした手の先の指が、屋敷の方へと向けられた。

「今夜、わたしの屋敷の横にある広庭(ひろにわ)で、あなたを歓迎するための宴が開かれるの。里哉なら、今、あそこで宴の準備に加わっているはずよ」


 行ってみる? と、理土は一道を見つめた。

 一道は寸刻答えに窮した。

 果たして、理土の――この正体不明の女の子の言葉を信用していいものか。ひょっとしたら、何かの罠ではないのか。そんな疑念が一道の頭をよぎった。けれども、里哉の居場所についての手がかりはどんなことでも逃したくなかった。

 不安はあるが、今は他に頼れる情報もない。

 一道は理土に向かってうなずいた。

 理土はうなずき返しながら屋敷へと足先を向け、歩き出す。一道もそのあとについていく。


 歩きながら、一道は、ふと目の前の地面を見やった。

 光の帯がうねる長い黒髪の先も、絹織りの着物の裾も、理土は、垂れ落ちるに任せたまま土の上を引きずって歩いていた。地面に触れないよう持ち上げたりなどはしようともしていない。こんなお姫様のような格好をしているのに、この子は、髪や着物が汚れるのが気にならないのだろうか。

 そんなことを考えた直後、一道は、はっと目を凝らした。

 髪の毛の先にまとわりつく、砂埃。着物の裾に滲む、土の汚れ。それらはしかし、次の瞬間には、髪や着物の色の中にすっかり溶けて、消えていたのだ。

 そのあといくら見つめていても、地面に擦れて汚れた理土の髪と着物は、理土が数歩進むたびに、砂や土を残らず溶かしてもとの美しさを取り戻していくのだった。

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