第二章 コトヨノクニ

第五話

「色とりどりの、薄暗い空」其の一

 気づいたとき、一道の周りを何人かの者が取り囲んでいる気配があった。どうやら気を失っていたらしい。それがどのくらいの時間のことなのかはわからなかった。一道はまだ土の上に倒れていた。地面からほど近くにある細い視界に、周りにいる人々の履物がぼんやり映る。つるんとした丸っこい革靴やら、刺繍飾りの施された布靴やら、藁草履やら下駄やら……そんなふうに見えた。

 かろうじて意識はあるものの、体を動かすことも口を利くこともできない一道の耳に、人々が囁き合う声が聞こえた。


 ――客人マレビトだ。

 ――マレビト、だけ? 

 ―― 一人でここまで来たのかな。

 ――いや、そんなはずは。

 ――とにかく、マレビトなら、姫さまの所へ連れていかなくては。

 ――体が雨で濡れている。

 ――誰か、この子をくるむ布を……。


 言い交わされるその言葉の意味を考える時間もなく、一道の意識はまた薄れていった。



          +



 再び目を覚ましたとき、一道は、仰向けで横になっていた。

 薄く瞼を開く。まだ目の前がぼやけている。

 段々と目の焦点が定まってくると、視界の中に、板張りの高い天井が見えた。

 頭の下には硬めの枕が敷かれているようだ。指に触れる床の感触は、ざらざらしていて浅い凹凸がある。どうやら畳らしい。

「あら、気がついた?」

 不意に響いたその声は、女の子――子どものものだった。

 一道はとっさに上半身を起こした。途端にひどいめまいに襲われた。ばね仕掛けのように、思わず瞼がきつく閉じ合わされる。一道はうつむいて、目頭を指で押さえた。

 めまいが治まってから、一道は、先ほど声がしたほうを振り向いた。

 部屋は広々とした座敷だった。


 少し離れた所に、一人の女の子が座っていた。

 長い黒髪と、色とりどりの着物。髪は、毛先が畳の上に波模様をうねらせるほど長い。着物は左右が色違いになっており、右の袖には金色の花が、左の袖には銀色の花が、それぞれ大きく描かれている。日本的な「お姫様」を思わせるその格好は、一道の感覚では、本やゲームの中にしか存在しない極めて非現実的なものであった。

 だが、現実世界では馴染みのない装いをまとったこの女の子の顔に、一道は確かに見覚えがあった。

 それは、小学生のとき、一道と里哉を西の林の奥に連れていった、そこで里哉と一緒に土遊びをした、あの女の子の顔だった。


 一道は背骨の髄に冷や水を流し込まれたような心地になった。以前この女の子に会ったのは、もう三年も四年も前のことなのだ。そのとき女の子は自分たちと同じくらいの歳だった。それなのに、今目の前にいるこの子は、あの頃とまったく姿が変わっていない。

「おまえは……一体……」

 かすれた声で問うと、女の子は、にこりとその頬を笑み上げた。

「わたしの名前は、理土りづち。ようこそ、異世ことよの国へ」

「コトヨノクニ?」

 一道は眉をひそめて聞き返した。

 女の子――理土は、表情を微塵も変えることなく、瞬きさえせずに、その唇だけを動かして言葉を継いだ。

「この異世の国は、わたしの国。一道。あなたもこれからこの国の民になるのよ」

「な……」

 頭の中で混乱が膨らむ。

 国? 国の民? この子は一体何を言っているのだ。自分は里哉のあとを追いかけて、自分の足でここにやってきたのだ。だから。 

 生まれ育った町にある、通い慣れた中学校から、さほど離れてもいないはずの、ここは。


(ここは――どこだ?)


 一道は立ち上がった。が、立ちくらみで足がふらつき、あえなく畳に尻餅をつく。

 そんな一道を見て、理土は、着物の袖で口元を隠しながらくすぐるような笑い声を立てた。

「ゆっくり休んでおいきなさいな。つ国の者がこの国にやってくると、そんなふうに、気分が悪くなって倒れてしまうことがあるの。休んでいれば、じきに落ち着くわ。今、みんなに、あなたの歓迎の宴を用意させているから。準備が整うまでここで待っているといいわ」

「冗談じゃない、俺は……」

 一道はもう一度立ち上がり、足元に目を落とした。そしてそばに置いてあったリュックを見つけると、それを掴み上げて理土に背を向けた。部屋の襖は四方にあって、どこが出口かわからなかったが、一道は、とりあえず理土がいるのと反対の方向に逃げることにした。

 一道が襖に向かって歩き出しても、理土はそれ以上引き止めようとはしなかった。

 一道はリュックを背負い、よろけつつ走って部屋を飛び出した。


 部屋の外は広い庭に面した回廊だった。壁がなく手すりだけがめぐらされた見晴らしのよいその廊下から、一道は庭を見渡した。庭は高い塀に囲まれていたが、一ヶ所に、開いている門が見えた。門のある方向を目指して廊下を進んでいくと、やがて庭へ下りる階段にたどり着いた。短い階段を下りればそこから門へは一直線だった。

 ここへ来てもなお、行く手を阻むものは一切ない。でも、まだ油断はできない。

 一道は警戒を怠らず、周囲に気を配りながら門をくぐったが、門の外に誰かが待ち伏せているということもなく、あっさり庭の外に出ることができた。

一道はそこでようやく立ち止まり、膝に手をついて体を折った。まだ少しめまいが残っている。体がだるい。呼吸が苦しい。それでもすぐさま後ろを振り返って、理土も誰も追ってきていないことを確認した。周りに人の気配がないことがわかると、一道は安堵の息をついた。


 息を整えながら、一道は門の向こうの建物を見つめた。それは漫画か何かで見たことのある、平安だか鎌倉だか、そのくらいの時代の、貴族が住んでいるような屋敷を思わせる外観だった。昔見た土手本家のお屋敷にも似ているが、それよりもずっと非現代的だ。こういうのを御殿というのだろうか。


 ――そんなことはどうでもいい。


 一道は建物から目をそむけた。

 自分は里哉を追ってここに来たのだ。

 里哉を、捜さなくては。


 屋敷に背を向けた一道の前方には、平原と、その中を曲がりくねり、枝分かれしながら伸びる土の道が、ずっとずっと先まで続いていた。民家らしき建物もたくさんあって、その向こうに林か何か、木々の帯が広がっているのが見える。

 林――。あれを抜ければ、もといた町に帰れるかもしれない。ここからあそこまで、遠いといえば遠いが、それでも歩くのが面倒という程度で、決して目指すのに躊躇するような距離ではない。

 でも、町に戻るより里哉を見つけるのが先だ。里哉は近くにいるのだろうか。どこかわからない、ここ。理土というあの女の子が、コトヨノクニと呼んだ、この場所に。

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