「傘の下の顔」其の二

 一道は焦った。

 このままでは本当に自力で家に帰れなくなりそうだ。今ならまだ、ここから適当な方向へ進んで、どこか大きな道路や知っている建物の見える場所に出さえすれば、どうにかなるだろう。とにかくこれ以上学校から離れるのはまずい。ただ、問題は。

 一道は、目の前を行く青い傘を睨みつけた。

 あの傘泥棒をどうするか。

 学校をさぼってまでこんなことをして、思惑通りこうして傘泥棒が現れたというのに、ここまできて、その正体も見極めずに引き返すのか? ――それとも。

 決断のときは今しかないと感じた。

 何をためらうことがある、と、一道の胸の内で、まだいくらか保たれている冷静な自身が呟く。

 あいつは泥棒だ。窃盗犯だ。捕まえて警察に突き出せばいい。あいつに傘を盗まれて迷惑をこうむっている人が大勢いる。自分のお気に入りの青い傘も、今、あの盗っ人が堂々と差して歩いている。腹立たしいことではないか。


 そして何より、あいつは、里哉の傘を盗んだ。


 そのことを思い出した途端、腹の底から湧いた怒りが、一旦は萎えかけた一道の心を再び奮い立たせた。

 傘を握る手に力を込める。

 直後、一道は意を決して、走り出した。


 ばしゃ、ばしゃと、道路に敷かれた雨水を勢いよく踏み跳ねさす音が響く。雨音よりも大きなその足音に気づいたらしき相手は、振り向きもせず、すぐに自分も駆け出した。相手の足はさほど速くなかった。相手との間の距離はおおよそ民家二軒分はあったが、一道はたちまち追いつき、手を伸ばして相手の腕を捕まえようとした。

 しかし、それより一瞬早く、その人物は一道を振り返った。


 その顔を見て、一道は目を見開いた。

 里哉だった。

 行方不明になっていたはずの、それは確かに里哉に違いなかった。


 里哉は、一道に対して口を開くでもなく、ただ無表情に一道の視線を受け止める。

 一道は呆然として声を漏らした。

「おまえが、『傘盗りさま』……? どういう、ことだ」

 わけが、わからない。

 行方不明の里哉。傘の盗難事件。不可解な傘盗りさまの噂。盗まれた里哉の傘……。様々な情報の断片が、ぶつかり合いつつも決して噛み合うことなく、一道の頭の中をぐるぐると回る。

「どうして」

 一道は重ねて尋ねた。そうする以外にどうしようもなかった。

 けれど、里哉は一道の問いに答える気配も見せず、沈黙し続ける。

「里哉……」

 一道はもう一度、里哉に向かって手を伸ばした。

 その瞬間、里哉はすばやく身を翻して走り出した。

「おい、待て、里哉!」

 一道も慌ててそのあとを追う。

 しかし、先ほどと違い、今度はなかなか追いつくことができない。

 妙だった。全力疾走している一道に対し、里哉の足の動きは軽いジョギングくらいのペースで走っているように見える。雨を踏む足元にもほとんど跳ねが上がっていない。いや、それ以前に、そもそも一道は里哉よりもずっと足が速いはずだった。仮に里哉が力いっぱい走っていようとも、一道の足で追いつけないはずがないのだ。

 それなのに、いくら走り続けても、一向に里哉に近づけない。まるで、里哉と一道との間の道が、一道の走ったぶんだけ引っぱられて伸びてしまうかのようだ。


 一道は走った。

 息が切れ、足がもつれそうになりながらも、ひたすら目の前の青い傘を追い続けた。

 いつしか、一道の周囲の景色は街の中のものではなくなっていた。踏みしめる地面もアスファルトの道路ではなく、濡れた落ち葉の散った土の道になっており、道の両脇は生い茂る木々や草群に囲まれていた。

 朦朧としてきた意識がおぼろげにその変化を認識する。鈍る頭で、一道はぼんやり考える。

 こんな風景のある場所は、この辺りでは、町の西区の端に広がるあの林しかないはずだ。だが、中学校から西区の端まではかなりの距離がある。走り始めたのがいくらか学校を離れてからだとはいっても、自転車でも使うならともかく、自分の足では、とても休みなく走って来られるような場所ではない。


 では、ここは一体どこなのか?

 西の林なのか? そうでないのか?

 おかしい。何がおかしい? 今いるこの場所が? それともたどってきた道のりが――。


 頭の中がぐらぐらと揺れる。

 一歩ごとに背中に負ったリュックが跳ね、リュックの動きに引きずられて足がふらつく。

 リュックが重い。足が重い。限界が近づいていた。単に体力を消耗したことによるものではない、経験したことのない肉体の不自由さに襲われていた。

気がつけば、いつの間にか里哉の姿も見失っている。青い傘がもうどこにも見えない。

 それでも、一道は無我夢中で、足を止めようとはしなかった。


 不意に、前方に景色が開けた。

 一道は目を凝らそうとするが、もはやどうしようもないほどに目がかすんで、そこがどんな場所であるのか、よくわからない。

 どうにか道の脇の木々が途切れる所までたどり着いた一道は、そこで木の根に軽くつまずいた拍子に膝を崩し、そのまま地面に倒れ込んだ。

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