「里哉がいなくなった日の話」其の三
家に着く頃にはリュックが水浸しになって、中まで水が染みていた。こんな大降りの日に回り道をして長く外を歩いたせいだ。
けれど、いつもの傘ならこんなに濡れはしなかった。
一道が中学生には不似合いな大きな傘を使っていたのは、そもそも背負ったリュックが雨で濡れないようにするためだった。たくさん物が入るどっかりとしたリュックを背負うと、今日差して帰ったビニール傘のような普通のサイズの傘を使うのは、具合が悪い。特に今日のような土砂降りのときは、リュックの膨らんだ後ろの部分が傘からはみ出して、ずぶ濡れになってしまうのだ。
ビニール傘を巻き留めず玄関の傘立てに突っ込み、一道は雨の染み込んだ靴と、同じくじゅくじゅくと水を含んだ靴下を脱いで、廊下に上がった。
なんとはなしに、仏間のほうへと足が向いた。
ふすまを開けて、仏間をそっと覗く。中には誰もいなかった。
一道は部屋に入り、リュックを背中から下ろして仏壇の前に正座した。
仏壇に手を合わせながら、一道は思う。
いつの間にかこれが当たり前になってしまったんだな、と。
立ち上がり、壁の天井近くに並べ掛けられている遺影を見上げた。その一番端の写真には、一道のよく知る優しい面立ちが写っている。
もう会うことのできない人の、写真だけがこうしてここに残っているというのは、なんだか変な感じだ。ここに来ればいつでも顔を見ることができる。でも、もう二度と会えない、なんて。
一道は再び座り込んで、意味もなく畳の目に爪を這わせた。
こんな平面の写真などではない、ちゃんと人の形があって、さわると温かくて、動いて、喋っていたこの人が、あの頃は自分たちのそばにいたのに。
朝起きたときはたいてい頭の左側に寝癖をつけていた、とか。お酒を少し飲むとすぐに顔が赤くなった、とか。よく首を掻いて首筋に赤い引っ掻き傷を作っていた、とか。埃だらけの物置にある本棚から古い本を取ってきたあと、睫毛に細い小さな糸埃が絡んでいた、とか――どうでもいいことばかりが次々に思い浮かぶ。
どうでもいいこと、だった。あの人がここにいた頃は。けれど。
今、写真の中にしかいないその人は、もう二度と何一つ変化することはない。
一道にとって、生まれたときから日常の一部だった存在。それを剥ぎ取られたとき、胸の辺りに浮かんでいる、肉体とはまた違うものである自分自身に、ぽっかりと穴が開いたような感じがした。
でも、その穴は、学校に行ったり、友達と遊んだり、家族と笑ったりけんかをしたり、なんでもない色んなことをして過ごしているうちに、いつの間にかなんとなく塞がってしまった。
里哉のことも。
このまま里哉が戻ってこなければ、里哉がいない日常も、いつしか当たり前のことになるのだろうか。
今はそんなこと信じられないけれど、たぶんそうなってしまうのだろう。そうなったあとには、里哉のことを考えてもめったに涙なんて出ないのだろうけど――でも、そのことをこうして考えている今このとき、目の奥がつんと痛くなった。
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