第三話
「お隠しさま」其の一
その日の夜。家族四人で夕食の卓を囲んでいるときに、祖父が言った。
「そういえば、一道。おまえの傘が、傘立てになかったみてぇだが」
一道はぎくりとし、ご飯粒を喉に詰まらせそうになりながら呑み込んだ。
「ああ……なくなっちゃたんだよ」
「なくなった?」
祖父は声を大きくして問い返した。
一道は慌てて事情を述べる。
「言っとくけど、忘れて帰ったわけじゃないからな。誰かに盗られたんだよ、俺のせいじゃない」
「盗られた?」
ますます表情を険しくした祖父を見て、一道は、その弁解がむしろ逆効果であったらしいことを悟った。
戸惑いつつも、しかしこれはちょうどいい機会ではないか、と思う。どうせだから祖父に聞いてみよう。今日疑問に思ったあのことを。
「なあ、じいちゃんさ。俺が傘持って家を出るとき、いつも『傘を忘れるな』じゃなくて、『傘をなくすな』って言うよね。……なんで?」
「んん?」
祖父は眉をひそめて、皺の刻まれた眉間へ、さらにたるんだ皮膚を寄せ集めた。
「なんでって、なんだよ。傘をなくすなは傘をなくすなだ。言葉通りの意味じゃねぇか」
「だってさ、忘れるなって言われたら注意もできるけど、傘を盗まれてなくすときなんてどうしようもないじゃん」
「それでも、傘はなくしちゃなんねぇんだ」
「……本当に、盗られるのもだめ、って意味で言ってたの?」
意外な答えだった。一道は祖父の言葉の理不尽さに困惑を覚えながらも、
「どういうこと? じいちゃん」
と身を乗り出し、その瞳に好奇の色を滲ませて尋ねた。
「……まあ、聞きたいなら話してやってもいいけどよ」
祖父は愛想なくそう返し、なぜかしかめ面になる。
「もったいぶるなよ、気になるじゃん」
「そうか。そうだな……。けど、面白い話じゃねぇぞ。おまえにとっちゃ」
祖父は、口の中に入っていたものを完全に呑み込んでから、手に持っていた茶碗と箸を静かに卓の上に置いた。
「天狗さま、お狐さま――っつっても、おまえにゃなんのことだかわかんねぇだろうな」
「天狗……狐……?」
一道は首をかしげた。
天狗も狐も、もちろん、知っているといえば知っている。その姿をとりあえず頭の中に思い浮かべてみた。黄色い毛でふさふさした尻尾の狐。真っ赤な顔で鼻が長くて羽団扇を持った天狗。
天狗のイメージは、以前遊んだテレビゲームでステージのボスだった天狗のものだ。そのステージでは、旅の途中とある村にたどり着いた主人公が、村の子どもを
そのゲームを思い出して、一道はぴんときた。
「天狗って……子どもを攫う妖怪なの?」
一道に問われ、祖父は「ほう」と意外そうに息をついた。
「そんとおりだ。狐もな、そうなんだよ。……神隠し、って言葉をよ、聞いたことくらいはあんだろ」
「……かみかくし」
その言葉を、一道はゆっくりと口の中で呟いた。
「ある日突然、人が消えちゃうことだよね。その人がどこに行ったのかも、なんでいなくなったのかも、何もわからない。そういう不思議な消え方したときに、『まるで神隠しだ』って――」
言いながら、一道は、なぜ祖父がこの話をするのに気乗りでなかったのかを理解した。
『まるで神隠しだ』
その台詞を、一道はつい最近、何度か耳にしていた。
そう、里哉のことだ。
「神隠しって、天狗が子どもを攫うことなの? そんで、狐も、神隠しするの?」
「そういうことになってる」
うなずく祖父は、先ほどから眉間に皺を寄せっぱなしだ。
「神隠しってのは、ただの昔話じゃねぇんだ。けっこうありふれたことでな、どんな土地にも、たいてぇ一つや二つ、神隠しの話ってのは伝わってる。本当にあった話としてだ。そんでもって、神隠しをするモノを『お隠しさま』っつってな。お隠しさまの正体は、よく、天狗やら狐やらって言われてんだ。わけもわからず人が消えて、どこを捜しても見つかんねぇ、帰ってこねぇ。そういうことがありゃあ、人はそれを、天狗さまのしわざ、お狐さまのしわざって、そんなふうに言うわけよ。
……この町にも、昔っから神隠しの話はあってな。けど、この町に伝わるお隠しさまには、また特別な呼び名があるんだ」
「天狗でも、狐でも、ないの?」
「天狗なのか、狐なのか、そのどっちでもねぇのか、それはわかんねぇ。この町のお隠しさまの正体がなんなのかは、いろんなふうに言われてるさ。ただ、その呼び名だけは決まってる。――
その名を聞いて、一道は一瞬息を呑んだ。
祖父の口から出た名前は、一道も知っている耳慣れた単語だった。しかし、この話の中でその名を聞くことになろうとは思わなかった。
学校の七不思議。
誰にも見つかることなく生徒の傘を盗んでいく正体不明の傘泥棒。
それが、一道の知っている「傘盗りさま」である。
小学校の頃、学校で傘がなくなると、生徒たちはまことしやかに「傘盗りさまが出た」と囁き交わしたものだった。中学になっても冗談混じりにその呼び名を使うものはたまにいる。いや、必ずしも冗談とは限らないかもしれない。決して姿を見せず捕まることのない傘泥棒の存在は、単なる「傘泥棒」ではなく、もっとそれらしい特別な呼び名をつけたくなるほど不可解なのである。
ともあれ、一道は今まで、その「傘盗りさま」という呼称は、姿を見せない傘泥棒から怪人や妖怪のような正体をイメージした子どもたちがそれっぽく名づけたものだろう、という程度に思っていた。まさか、天狗やなんかと同列に語られるほど古くからある呼び名だったとは。
「それで――じいちゃん」
一道は、まだろくに物を通していない渇いた喉に、一つごくりと唾を流し込んだ。
「傘盗りさまって呼ばれるくらいだから、そのお隠しさまは、傘を盗むんだよね」
「ああ、もちろん。普段はよ、店先や、学校の昇降口なんかの傘立てにある傘を盗んでいくんだが、そいつがたまぁに、子どもも攫っていく」
「それが天狗か狐か、他の何かわからないってことは、誰も傘盗りさまの姿を見た人はいないんだ?」
「まあ、そういうこったな」
「じゃあ……なんで、傘を盗むモノと、子どもを攫っていくモノが、おんなじモノだってわかるの?」
誰もその正体を知らないはずの「傘盗りさま」と「お隠しさま」とを結びつけるものはなんなのだろう。
一道の疑問に、祖父は、
「それはな、傘を盗られた子どもが神隠しに遭うからさ。傘を盗られた子どもが必ず消えちまうわけじゃねぇが、神隠しで消えちまう子どもは、必ずその前に傘を盗られるらしい。この町で傘を盗られるってことは、傘盗りさまに攫われるってシルシ――兆候なんだよ。だから……」
「だから、じいちゃんは、俺に傘をなくさないようにってあんなに念を押してたんだね」
祖父の忠告の理由は納得できたが、やはりあまり意味をなさない忠告だなと、一道は思った。
それにしても。
傘を盗られた子どもが、攫われる――。
それを聞いて、一道の頭には、またしてもいやおうなく里哉のことが浮かんだ。
「一道。あんたも気ぃつけなさいよ」
不安げな声で、祖母が言った。気を遣ってかあえて名前は出さないが、あんたもという言い方には、暗に行方不明になった里哉のことが含まれているのだろう。
祖母はさらに続けた。
「町外れの、西の林になんか、行っちゃいけないよ。天狗や狐っていうのは、山とか森とか林とか、そういう、あんまり人の近づかない所にいるもんだからねぇ。傘盗りさまの正体がなんなのかはわからないけど、天狗や狐と同じように子どもを攫うお隠しさまなんだから、傘盗りさまも、そういう所にいるものかもしれないからね」
すると、母が口を挟む。
「あら、でも西の林なら、今はまんざら人が近づかない場所ってわけでもありませんよ。この春、整備が終わって、林の奥のほうまで道ができてハイキングコースになったって話ですから」
「へぇ、あの大きな林がかい」
祖母は驚いた声を出し、感慨深げに溜め息をついた。
「この町もどんどん変わっていくんだねぇ」
「ふん、ハイキングコースなんか造ってなんになるってんだ。近頃のやつらは、人間の利用できない土地はあるだけ無駄だとでも思ってんのかねぇ。ああいう所は自然のまんま残しておくもんだ。むやみに人がいじり回していいもんじゃねぇってのによ」
祖父はそう言って、苦々しく顔をしかめた。
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