「お隠しさま」其の二

 そんな大人たちの会話の横で、一道もまた、自分なりに西の林へと思いを馳せていた。

 林がハイキングコースになったということは知っていた。いつだったか、町の西区にある友達の家へ遊びに行ったとき、道を歩いていた小学生くらいの女の子たちが話していたのだ。なんでも林の奥に珍しい花の咲いている場所があるらしい。道が整備されたため、子どもが林の奥まで踏み入るのも、もう難しいことではなくなったのだろう。なんだかもったいないような気がした。その理由をうまく説明することはできないし、祖父の言う「ああいう所はむやみに人がいじり回していいもんじゃねぇ」というのもよくわからなかったが、それでも一道は漠然と、人工的な整備によって、かつての西の林にあった「何か」が壊されてしまうように感じたのだ。


 「かつての西の林」に、一道は多少の思い出を持っていた。


 小学生のときの、ある年の夏休み。

 一道は里哉と一緒に遠出して(当時の自分たちにとって、町の西区へ行くのは充分に「遠出」だった)、西の林に遊びに行った。危ないから入ってはいけないと親にも学校の先生にも言われていた場所だったが、その手の大人の言いつけを重視する子どもなど、たぶんあんまりいないのではなかろうか。少なくとも、当時の一道も里哉も、何かが危険かそうでないかということを、大人の言葉からではなく、割に自分の目で見て判断していた。その判断にどれほどの正確性があるかはともかくとして、一道と里哉は、西の林を「入ってはいけない」というほど危険な場所だとはみなさなかった。   


 林の中には草群(くさむら)を裂いた細い土の道が伸びていた。その道は、途中でところどころ茂った草に覆われて途切れ、草を分けてしばらく行けばまた細い道が現れ、どこまで奥に進めば本当に道がなくなるのかわからなかった。そんな具合であったから、林に入るには、服が草の露で濡れたり泥で汚れたり、もしくはひっつきむしと呼ばれる何種類かの植物がしこたま服に貼りついたりすることを覚悟しなければならなかった。そういったものに煩わされることに耐えられない人間を拒む場所。それがかつての西の林だった。一道や里哉は、子どもなら珍しくもないかもしれないが、むしろそういう場所は好きなほうだった。よく遊んでいた学校の裏山(こちらも本当は立入禁止だった)にしても似たようなものだったせいもあり、二人とも、西の林に入ることにさしてためらいを抱きはしなかったのである。


 西の林に入った直接の目的は、虫捕り。今までに踏み入ったことのない未知の空間には、今までに見たことのない未知の昆虫が生息しているのではないかと思ったのだ。

 林の中では、草群以外にも、低木や、まるで侵入者の足を引っ掛けるためのように半輪状に地面から出た木の根、朽葉の下のぬかるみなどがたびたび歩みを阻んだ。人の気配がないので、ひっそりしているといえばひっそりしているし、人はいなくとも蝉や鳥の声、葉擦れの音は絶えないので、騒がしいといえば騒がしい。奥に進むにつれ日常の世界から遠ざかるようでドキドキしたが、林の中は案外よく陽が差し込んで明るく、怖いとか不気味とか、そんなふうには思わなかった。


 二人は適当な所まで進むと、その辺りでしばらく虫捕りに興じた。

 そして――。

 そうだ、と、一道は思い出した。

 虫捕りをしているところに、一人の女の子がやってきたのだ。

 その女の子は、当時の一道たちと同じくらいの年齢――十歳くらいに見えた。かわいらしい顔立ちの子だったが、きらきら輝く夏の木漏れ日の下で、その子の顔色はやけに色彩を欠いて見えた。体の具合が悪くてそんな顔色になっているのかと、最初は思ったが、女の子はいたって元気な様子だった。


 女の子は一道たちを林のさらに奥へと誘った。

 わたしに付いてくれば迷うことはないから、とその子は言った。

 そうして連れてこられた場所には、草も木もなく土が剥き出しになっている一ヶ所があった。

 ――ここの土はとてもいい粘土なの。この土をこねて遊びましょう――

 女の子はそう促し、そこらに落ちていた木の枝を拾って土をほじり始めた。ほぐれた土をすくい取って、少しずつ盛っていき、ある程度土が集まるとそれをこねていく。

 里哉は女の子の隣にしゃがみ込んで、女の子のやり方に倣い一緒に土遊びを始めた。

 一方一道は、土遊びにはそれほど興味が湧かず、近くで一人虫捕りを続けていた。

 一道が虫捕りから帰ってくると、地面に里哉の作った作品が並んでいた。土団子と、土人形。どちらもとても見事な出来だった。それを見つめる女の子の顔はうれしそうだった。

 里哉は土手の本家にある工房で屑土をもらってくることがよくあり、紙粘土や油粘土の代わりにそれを使って遊ぶことが多かったため、土の扱いには慣れていたのだ。


 里哉の土団子はきれいな真ん丸で、表面に小さな草の実がまぶしてあった。団子を割ると、みちっと粘(ねば)い音がして、割れた断面にはそわそわと柔らかな土の糸が毛羽立ち、そこに舌の先を触れれば甘い味を残して溶けてしまうのではないかと思われた。土だとわかっていても思わず食べてしまいたくなるような、おいしそうな団子であった。


 土人形のほうは、髪の毛を肩より少し上で切りそろえた、優しげな表情で笑っている少女の姿をした人形だった。


(いや……まてよ?)

 一道は、そこでふと、記憶にあるその光景を訝しむ。

(里哉の人形は……男の人形だったっけ?)

 一瞬、そんな気がした。

 しかし一道は、すぐに、いや違う、と心の中で否定した。

 そうだ。確か、里哉は土人形に「ほのみ」という名前を付けていた。ほのみ、という響きはやはり女の子の名前っぽい。それを思い出した途端、一瞬揺らいだ記憶の光景が再び固まって、あの少女の形をした土人形の姿が先程よりもくっきりと頭に浮かんだ。間違いない。あれは少女の人形だった。なぜ、さっき、里哉が作ったのが男の人形だったような気がしたのだろう。一道は不思議に思った。


 土遊びのあと、女の子は、一道たちを林の出口の近くまで送ってくれた。そこで別れて、それきりだ。名前も聞かなかったあの女の子がどこの誰だったのか、今となっては知る術もない。



          +



 夕食の席で祖父のあんな話を聞いたせいか。里哉と遊んだ昔のことを思い出してしまったせいか。布団に入ってからも、一道はなかなか寝つけずにいた。雨の音がやけに耳について余計に眠気の訪れを邪魔していた。

 雨音と闇の中、鈍く思考のめぐる一道の頭に浮かぶのは、祖父が語った「傘盗りさま」の伝説だった。


 一道は、さすがにもう中学生であるから、小学生が噂するような傘盗りさまの存在など信じてはいない。けれど今日祖父の話を聞いてから、理屈ではない部分で知らず知らずのうちに、盗まれた里哉の傘と、里哉の失踪とを、おぼろげに結びつけて考えていた。

 その二つの出来事の間にある「結びつき」というのは、理屈ではないから、一道自身にもよくわからない。しいて説明できそうな言葉を探せば、それは「縁起」だとか「不吉」だとか、そういうことになるだろうか。


 誰かがいたずらで里哉の傘を盗んだ。

 里哉が行方不明になった。

 二つの出来事が、それぞれ原因と結果である、などと思うわけではない。それでも、傘盗りさまの神隠しの話が伝わるこの町で、人の傘を盗むという「縁起の悪い」「不吉な」ことをした犯人に、無性に腹が立った。

(……捕まえてやる)

 声を出さずに唇だけ動かして、一道は呟いた。

 里哉の、そして、自分のお気に入りの傘を盗んだ傘泥棒を、捕まえる。傘盗りさまの名を借りたその犯人の正体を、この手で暴いてやる。


 そんなことを考えている間に、いつしか眠気が訪れて、一道の思考をぼんやりと霞ませていった。

 やわらかに溶けて沈んでいく意識の中。傘泥棒を捕まえる。その決意だけが、頭の中に固く張られた一本の糸となっていた。

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