「里哉がいなくなった日の話」其の二

「え……」

 寸刻、一道は混乱して声を失う。それから眼差しに疑問符を乗せて問い返した。

「……吐いたあとのにおいじゃ、なかったんですか?」

「わからないのよ。変なにおいがしたから、それで場所がトイレだから、何か吐いたにおいだと最初は思ってた。でも、どっちかっていうと、そのにおい、血なまぐさいような感じがしたの。けど気のせいかもしれない……わからない。だって、いくらなんでも、あの子が血を吐いたなんて。……ううん、吐いたものかもわからないものね。血のにおいが残るようなことっていったら……たとえば、あのトイレで……自分の体を切るとか。動物の死体を、きざんでトイレに流すとか」

「里哉が、そんなこと」

 一道が思わず語気を強めると、里哉の母は大きく瞬きして、我に返ったようにうなずいた。


「そうね。あの子がそんなことするはずないわよね。……ごめんなさい。いろいろ考えてると、変なことばかり頭に浮かんじゃって。……だけど、本当……どういうことなのかしら。なんで、あの子、いなくなっちゃったんだろう。わからないの……どう考えたらいいのか、わからない。わからない……」

 うわごとのような涙声が、かすれ、ひきつれ、消えていく。

 何がなんだかわからないのは一道も同じだった。今日ここに来て、里哉の母から話を聞いたことで、むしろ余計にこんがらがってしまった。


 一度簡単に整理してみよう、と一道は思う。

 とにかく、今わかっていることといえば、

「土曜日の、昼二時過ぎから夜になるまでの間に、里哉はいなくなった。……その時間に里哉を見た人は、誰もいないんですよね」

「ええ。この辺りの道、休日は本当に人が通らないから」

 答えたその言葉の語尾が、しかし、不自然に弱まり消え入った。

 里哉の母は、何か言いたそうに、唇の隙間を開けたまま沈黙する。


「……何か、まだ気になることがあるんですか?」

 一道が尋ねると、里哉の母は迷うように首をかしげ、少ししてから、ためらいがちに唇を動かした。

「土曜日の、夕方頃……。家の近くで、里哉のものと同じような服を着た……子供を、見かけたの。雨の中、傘も差さずに歩いてて、変な子だなって……」

「里哉じゃなかったんですか?」

「少し遠目だったし、顔は見なかったけど、違うわ」

 ゆっくりと首を横へ振って、里哉の母は言った。

「だって、その子、骸骨みたいに痩せてたんだもの」



          +



 まったく不可解としか言いようがない。

 里哉の家を出た一道は、眉間に深くしわを寄せ、リュックの肩ベルトの位置を直しながら鼻で息をついた。

 里哉の母が話したことの、一体どこまでが、実際に里哉の行方不明に関わっているのだろう。話を聞いた限りでは、里哉が体調を崩すほどの悩み事を抱えていてその悩み事が原因で家を出た、というのが妥当な線に思えるが。トイレの異臭を血なまぐさいと感じたのは里哉の母の気のせいで、里哉のものと同じような服を着た痩せた子供を見たのは、単なる偶然。とりわけ不可解なその二点をそうやって片付ければ、とりあえず辻褄は合う。特に痩せた子供のことは、さすがに里哉には関係あるまい。里哉が食事を抜いたり本当にトイレで吐いたりしていたのだとしても、人間が一日二日やそこらで骸骨のように痩せ細るなんてことはありえないのだから。


 考えながら歩いているうちに、いつも里哉の家からの帰りに通る近道の前まで来た。

 一道は、その道に入る手前で足を止めた。

 左右を民家の庭の塀に挟まれた、ちょうど人一人が通れるほどの細い隙間路地。

 その道の入口から出口までは、「く」の字を左へ横倒したのちに端っこを引っぱり左右に伸ばして作ったような、窪みのある地形になっている。道の傾斜は、普段通るときはさして意識しないで歩ける程度のものだ。しかし、昨日からの激しい雨のせいで道に水が溜まって、今日はちょっとした川かと思うようなありさまになっていた。昨日まではまだなんとか、水深が靴底より浅い箇所が切れ切れの筋となって残っており、そこを爪先立ちで歩いていき、窪みの一番深い所を飛び越えれば、向こう側へ渡ることができたのに。今や、道が道としての役割を果たせそうなのは、せいぜい入口から二、三歩の部分だけ。そこから先はすっかり水の底に沈んでいる。ここを渡るのは本当に川の中を歩くようなものだ。


 ついていない。

 これだから雨は嫌なのだ。


 仕方なく、一道は近道をあきらめ、違う道を通って帰ることにした。

 途中、ゴミや粘った泡の浮いた用水路の横を通ったとき、一道はかすかに血なまぐさい、何か腐ったようなにおいを嗅いだ気がした。もしかしたら捨てられた犬の死体でもあるのだろうか、などと想像したが、そんなものはあっても見たくないので、確認はしない。ただの気のせいかもしれなかった。きっと、さっきの里哉の母の話が頭に残っているせいでそんな気がするだけだろうと、一道は思った。

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