第二話

「里哉がいなくなった日の話」其の一

 帰り道の途中、一道は里哉の家の近くに寄った。

 月曜日から毎日、回り道してこの辺りを通ってから家に帰ることにしている。回り道といってもさほどの労ではない。一道と里哉の家は近く、近道を通って帰れば真っすぐ家に帰るのとほとんど時間に違いはないのだ。

 ただ、寄り道といっても、里哉の家に寄るわけではない。その近所の道を歩くだけである。もしかしたら、里哉がひょっこり帰ってきていて、家の周りをうろうろしているところに出くわすかもしれない……そんな淡すぎる期待を抱いて。


 傍から見れば不審者かと疑われかねないほど、きょろきょろ辺りを見回しながらゆっくりと歩き、一道は里哉の家の前までたどり着いた。

 住宅地の中でもとりわけ大通りから離れている奥まった場所。そこに里哉の家はある。それは、人通りの乏しい裏路地に面した、庭のない小さな一戸建てだった。質素なものだ、と一道はこの家を見るたび思っている。その感想は、別に一道自身の家と比べてのものではない。


 この町には、里哉の家の他にも「土手」という姓の家がいくつかあって、それらは遠かれ近かれすべて縁続きの家らしいのだが、その土手の、いわゆる本家というやつは、何百年も昔から有名な陶芸家を輩出し続けている工房付きのお屋敷なのだ。

 里哉の家族は遠縁なのか、本家とは交流が少なく、法事や葬式で一族が集められるときくらいしか本家の者と顔を合わせる機会はないと聞いた。ただ、里哉自身は、個人的に本家に仲の良い人間がいた。その人は有名な陶芸家らしいのだが、一道はよく知らない。町民会館のロビーにあるガラスの展示ケースや、そのほか、この町のいろんな施設にその人の作品が、土手の先祖代々が焼いた花瓶だの皿だのと一緒に飾られているのを見たことがあるくらいだ。里哉はその人に気に入られていて、時々は工房にも立ち入りを許されていた。


 一道は、工房の中に入れてもらったことはなかったが、何度か里哉と一緒にその本家を訪れたことがあった。幼い一道の心に、初めて見るお屋敷なるものはほとんどお城のように映った。こんな家に住んでたらお小遣いがいくらもらえるんだろう……などと考えながら「おんなじ『土手』なのに、この家の人だけこんな金持ちなんて、なんか不公平だな」と里哉に言った。土手の本家は、家屋が大きいだけでなく確かに金銭面でも潤っている家だった。しかし本家がそうだからといって、里哉の家には関係のないことらしい。里哉の家は、一道のそれと同じくまごうかたなき中流家庭である。いや、里哉のほうは、こう言うのもなんだが中の下くらいかもしれない。ともあれ、「不公平だな」という一道の言葉に対し、里哉は「そうか?」と笑っただけだった。


 一道は立ち止まり、里哉の家の周りを少し見渡して、また歩き出した。

 と。曲がり角を曲がったところで、思いがけず、里哉の母親と鉢合わせした。

「あ。どうも……」

 一道は、内心多少の気まずさを感じながら会釈した。

 里哉の母は買い物帰りらしく、スーパーの袋を二つ、片手に提げていた。もう片方の手は傘で塞がっている。

「あ。おかえり、一道くん」

 里哉の母は、疲れた顔にかすかな笑みを浮かべた。袋を持つ手が疲れたのか、傘と袋を持ち替える。

「あの、それ、一つ持ちましょうか」

 今にも倒れてしまいそうに力ない様子の里哉の母を見て、一道は思わず言った。別に荷物が重くてそうなっているわけではないと、わかってはいるけれど。

 里哉の母は一瞬迷うそぶりを見せたが、一道が袋に手を伸ばすと、抵抗せずそのうちの一つを渡した。

「ありがとう。よかったら、ちょっと寄って、ジュースでも飲んでいく?」

 里哉の母は、自分が持っているほうの袋の中からオレンジジュースのパックの頭を覗かせた。断る理由も特になかったので、一道は素直にうなずいた。


 里哉の家まで荷物を運んだあと、一道はリビングに通され、ソファーに腰掛けて、所在なく雨だれで歪んだ窓の外の景色を眺めていた。

 しばらく待ったところで、里哉の母がストローを差したジュースのグラスをお盆に乗せて持ってきた。テーブルの上にお盆を置いて、里哉の母は自分も向かいのソファーに座った。

 里哉の母は一道に何か話しかけるでもなく、ぼんやり視線をテーブルに落とす。

 やがて、その目が糸に引かれるように、ゆっくりと窓のほうへ向けられた。

「……ねえ、一道くん。あの子の居場所に、何か心当たりないかしら」

 かすれた声は、雨音に消されそうになりながらもかろうじて聞き取れた。

 一道はうつむいて、小さく「いいえ」と答える。里哉がいなくなった日の夜も散々聞かれたことだが、自分にはこう答えるしかない。


 逆に、一道は尋ねてみた。

「いなくなる前……里哉に、何か変わった様子はありませんでしたか」

 一道も、あれからずっと考えていた。

 里哉が姿を消した原因は、里哉自身にあるのだろうか。それとも、事故や第三者が関わっているのだろうか。

 一道が最後に里哉と会った先週の金曜日、学校での里哉はいつもと変わりなく見えた。だから「なんの前触れもなくいなくなった」と思っていたのだけれど、家ではどうだったのだろう。


 一道の問いに、里哉の母は少しの沈黙のあと、

「関係あるかわからないけど」

 と切り出した。気になることはあるらしい。

「あの子がいなくなった日と、その前の日ね。家のトイレが……なんだか変なにおいだったの」

「トイレが?」

 思ってもみなかった答えだ。関係あるかわからないと前置きされたとはいえ、そんなことが果たして里哉の失踪に繋がる可能性があるのだろうか。

 怪訝な面持ちで、一道はとりあえず続きを聞くことにした。

「そう、トイレがね。生臭いような、嫌なにおいが残ってて。誰かトイレで吐いたんじゃないかと思ったんだけど、私じゃあないし、主人に聞いても里哉に聞いても知らないって言うから、なんだかわからなくて。でも、里哉がいなくなってから気になって、もう一度主人に確認してみても、やっぱり何も吐いたりしてないって言ってた。それは嘘じゃないと思うのよ。だから、わたしでも主人でもないなら、里哉かもしれない」

「里哉、体の具合が悪かったんですか?」


「……それまでは、全然そんな様子はなかったのよ。金曜の夜までは。金曜日、あの子、いつもよりだいぶ遅く帰ってきて、食欲がないからって夕食を食べなかったの。それでその日……金曜日、家に帰ってきてからと、次の日の休日は、部屋に閉じこもりがちだったわ。特に、いなくなった土曜日は、朝から全然姿を見なかった。確かにそのときあの子は家にいたんだけど、今思えば、まるで、私たちのこと避けてたみたい。土曜日は朝ごはんも食べなかったわ。あの子、休日はいつも昼前に起きるから、朝食を抜くのは珍しいことじゃないんだけど。でも、昼の二時を過ぎてもお昼も食べにこなくて。それにその前の日の夕食も抜いてたし。ちょっと心配になって、部屋の前に行って声をかけたら、『今本を読んでるから、もうちょっとしたら食べに降りる』って。それも、あの子にはたまにあることだったから、そこまで気にしてはなかったのよ。だけど、結局昼ごはんは食べないまま、その日の夜、いつの間にかあの子がいなくなってるのに気づいて……」


 里哉の母は、口元を押さえて小さく嗚咽を漏らした。

「やっぱり、あの子、何か悩んでたのかしら……。食べたものを吐くほど、食事が喉を通らないほど、具合が悪くなるくらいに……」

 里哉の母は目の縁を拭う。その指先から手首へと、涙が伝い落ちた。

 なるほどそういうことか、と、一道は、里哉の母がトイレのにおいのことなど持ち出した理由を呑み込んだ。

 体調を悪くするほどの深刻な悩み事。それゆえの家出。結果の行方不明。そう考えれば、一応は繋がる。しかし――。


 一道はじっとうつむいて思考を巡らせる。

 里哉が家出をしたとして、その原因となった肝心の悩み事とは、なんだ。金曜日まで、里哉の様子に特に変わったところはなかったはずだ。それとも自分が気づけなかっただけなのだろうか。――そうでないとしたら、金曜日、放課後自分と別れたあと、それから里哉がいなくなるまでのごく短い間に里哉に何かがあったということになる。その日は里哉が図書室に寄ってから帰るというので、自分は一緒には帰らず、一人で帰宅したのだが……。そのあとで、里哉に、重大な悩みを抱えさせる「何か」が起こったのであろうか。


 一道は顔を上げた。

 里哉の母が、ぽつりと言葉を発したのが聞こえた気がしたからだった。雨音のせいでよくわからなかったので、一道は聞き返した。

「すいません。今、なんて?」

「……ち」

「え?」

「……血なまぐさかったのよ、トイレ」

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