「荒れ梅雨と、傘泥棒」其の二

 雨はひとときも止むことなく、下校時刻になっても朝の勢いのままに降り続いていた。

 登校するときまたひどく雨の染みてしまった靴を履いて、足先の不快感に眉を寄せつつ、一道は、下駄箱の横に置かれた傘立てに歩み寄った。

「……あれ」

 一目で違和感に気づき、思わず声を漏らす。

 一道は傘立てを真上から覗き込み、金枠の中に雑然と突っ込まれた数十本の傘の上で、視線をさまよわせた。

 一本一本、傘立ての端から端まで余さず確かめ、それを二度三度と繰り返す。


 ――やはり、ない。

 自分の傘が、どこにもない。


 焦りと苛立ちに顔をしかめながら、一道は、隣のクラスの傘立てに駆け寄った。そこにも一道の傘はなかった。さらに、他のすべてのクラスの傘立ても注意深く見て回ったが、一道の青い傘は見つからない。

 信じられない思いで、一道は肩を落とした。

 これ以上捜し直すのは無駄だ、とあきらめが胸に広がる。なぜなら、そもそもこんなに注意して捜さずとも、あの傘は、ちらとでも目に入れば、すぐにそれとわかるはすだから。ここにあれば見逃すはずがない。

 一道の傘は、中学生ではなかなか持っている者がないような、大きな傘だった。真っ青な色も目立つ、他の生徒たちのものに比べて一つ丈の飛び抜けた一道の傘は、傘立てにどれだけたくさんの傘がひしめいていようとも、いつも簡単に見つけることができたのだ。そのように特徴のある傘なので、誰かがうっかり自分のものと間違えて持って帰った、ということも、まず考えられない。


「そんなあ……」

 一道は、悲愴な溜め息を吐き出した。

 と、そこへ、

「なあ」

 誰やら聞き慣れぬ声が、話しかけてきた。

 振り向くと、同じ学年の、よそのクラスの男子生徒だった。男子生徒は傘立てに目を落とし、苦笑しながら言った。

「おまえも、傘、やられたの?」

「……そうみたいだ」

 一道は力なくうなずいた。

「俺もだよ。こう毎日のことだから、いつかはやられるかな、と思ってたけど、いざ自分のが盗られるとショックだよなあ」

「ああ、ほんと」

「な。職員室、一緒に行こうよ。先生に報告しなくちゃ」

「うん」

 一道は、その生徒のあとについて職員室に向かった。


 このところ、一道の通う中学校やその近くにある小学校、高校で、生徒の傘が盗まれる「傘泥棒事件」が頻発している。梅雨に入ってからというもの、ほぼ毎日、一日に何人もの生徒が傘をなくしているのだ。ときには一気に十何本の傘が盗まれるらしい。傘を忘れた生徒が他の人の傘を勝手に使ったり、あるいは、自分のものに似た傘を間違えて持って帰ってしまったりと、そういうことはあるだろうが、いくらなんでもなくなる傘の量が異常だった。これはもう、誰かが故意に盗んでいるとしか考えられなかった。しかし。


 誰が。どうやって。なんのために。

 その三つのことが不明である。要するに、今のところ、犯人については何一つわかっていないのだ。


 学校というこれだけ人の集まる場所で、これだけ幾度にも渡って傘泥棒という行為を重ねているにもかかわらず、犯人はいまだに姿を目撃されていない。授業中などの、下駄箱付近や校庭にひと気のない時間帯を狙って、相当に手際よくやっているのだろうか。けれどそれにしたって、たまたま窓の外を覗いたとき犯人の姿を見た、などという生徒が一人くらいいてもよさそうなものだ。もしかしたら、絶対に人目につくことのない特別な逃げ道があるのかもしれない。


 だが、犯人は一体なぜ傘を盗むのだろうか。

 透明なビニール傘や、あまりにも使い古されたボロ傘などは盗まれないというが、かといって、特別高価な傘がおもに狙われているというわけでもない。盗まれる傘の多くは、ごく普通のものだ。そんな傘ばかりを盗んで、それをどうするというのだろう。


 ――七不思議だ、これは。

 そう。すでに学校の七不思議として定着している怪事件だった。

 いつからかはわからない。少なくとも、一道が通っていた小学校にも同じ話はあった。これ自体は、最近になって始まったことではないのである。

 ただ――。

 今年の梅雨は、異常だ。

「何考えてんだろうなあ、傘泥棒のやつ」

「さあねえ」

 一道の呟きに、クラスの違う男子は首を捻った。さあねえ、とでも答えるしかないだろう。正体もわかっていない犯人の考えていることなどわかるはずがない。

 職員室へ行き、担任の先生に傘を盗まれたことを報告したあと、一道は代わりのビニール傘を借り受けて、ようやく雨中の帰路につくことができた。



          +



 頭上に広げた、くすんだ無色透明のビニール傘を見上げ、一道は多少不安になっていた。

(どうしたもんだろ、俺の傘……じいちゃんに怒られるかなあ)

 一道の祖父は、一道が傘を持って家を出るとき、毎回必ず忠告してから送り出すのだ。今朝のように。おかげで、今まで傘を忘れて帰ることは一度もなかったが……。

(にしても、じいちゃんて、なんで傘のことになるとあそこまでしつっこく言ってくるんだろ。傘一本がそこまで大事かねえ。まあ、物を大事にしなきゃってのはわかるし、俺だって、お気に入りの傘なくしたくはないけどさ)

 盗まれた青い傘は、機能性といい、色といい、とても気に入っていたものだった。今まで使った傘の中でいちばんと言っていい。あの傘があったからこそ、とにかく億劫でしかない雨の日でも、どうにか学校へ行く気力を保ち続けていられたのに。あれだけは、絶対になくしたくなかったのに。


 一道の胸に、むかむかと傘泥棒に対する怒りが湧く。お気に入りの傘をなくして、この上祖父に怒られたのではかなわない。

(うう、ちっくしょう……。仕方ないって、この場合。だって、俺のせいじゃねえもん。盗られちゃったんだから。俺が忘れて帰ったってわけじゃねえもん)

 やけっぱちに胸の中で吐き捨てる。

 そうだ。もし祖父に何か言われたって、そのように反論すればいいだけだ。至極まっとうな理屈じゃないか。自分が悪いわけではない。自分が怒られる理由はない。

 そう思ったとき、一道は、ふと引っかかるものを覚えた。

(あれ……? そういえば)

 無意識に目線を上げる。一道の瞳を、ビニールをぼんやり透かして垂れ流れていく雨の像が、滑り落ちる。

(じいちゃん、いつも「傘を忘れるな」って言ってたっけ?)

 いや。――違う。

 そうではない。

 何度となく、繰り返し記憶に重ねられている祖父の言葉は、確か。

(うん。――「傘を忘れるな」じゃなく、「傘をなくすな」だ)

 一道は一人うなずいた。


 些細な違い。単に言い方の問題にすぎないといえば、そうかもしれない。「傘をなくす」という言葉に「傘を盗まれる」という場合まで含まれてしまったら、そんなものは注意のしようがないのだから、祖父の忠告は、常識的に考えれば「持っていった傘を忘れて帰るな」という意味に捉えていいはずだ。――が、一道はなんだかやけに気になった。

(そうだ。そういや、里哉も)

 一道はふと思い出した。

 この前の雨の日、といってもここ最近の天気はずっと雨だが。その日、里哉と一緒に帰ろうとしたとき、里哉の傘がどこを捜しても見つからなかった。

 里哉が忽然と姿を消す、二、三日前の出来事であった。

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