第八話

「座敷迷路」其の一

 翌日の朝、一道は、どやどやと部屋に近づいてくる、たくさんの足音と騒ぎ声で目を覚ました。

 何事かと身を起こし、一道はその場でじっと様子をうかがった。すると、部屋の障子が開け放たれ、大勢の人々――国の民たちが、室内になだれ込んできた。

 たちまち部屋は、四隅の角までぎっちりと人に埋め尽くされ、それでも部屋に入りきらなかった民たちが廊下にまで溢れた。

 民たちは、まだ半身が布団の中にある一道を取り囲んで座り、高揚した眼差しを一道へ向ける。

 唖然としている一道に、民たちは次々言った。


「おはよう、一道」

「昨日の話の続きを聞きに来た」

「昨日話していた『てれびあにめ』、あれからどうなるの?」

「一道は、まだ他にもいろんな外つ国の話を知ってるのか?」

「あたし、昨日の話も聞いてないわ。また話してくれる?」


 民たちは、昨夜の宴のときと同じく、一道に外の世界の話をせがみに来たのだった。

 何もこんな朝っぱらから、こんな大勢で押しかけてこなくても。内心そう思った一道だが、熱っぽく期待に満ちた民たちの表情を見ると、文句を言うのも憚られた。

 一道は、昨日話した連続テレビアニメの話をもう一度、最初から語り、その続きを区切りのいいところまで話した。さらにそのあとも、民たちからもっともっととせがまれて、最近読んだ漫画のストーリー、好きなロールプレイングゲームの内容、記憶に残っている面白いニュースや、以前身近で起きたちょっとした事件のことなどを、その場で思いついた端から語っていった。


 喋りに喋って喉が嗄れ、声を出すのがつらくなってきた頃、鐘の音が響いた。

「あ、もう朝食の時間よ」と誰かが言って、それを合図に民たちは、そうか、そうか、と口々に残念そうな声を漏らし、腰を上げた。

「じゃあ、一道。一緒に広庭に行こう」

 そばにいた者にそう誘われた一道は、首をかしげて聞き返した。

「広庭? 朝食を、広庭に食べに行くの?」

「ああ。今日は宴というわけじゃないけれど、ここでは食事は毎日三食、国の者全員が、広庭に集まって食べるんだ」

 さあ行こう、と、民たちは一道を促す。

 友好的な態度の彼らを前にして、一道は寸刻反応に困った。しかし、すぐに彼らから目をそむけ、敷布団をぎゅうと握りしめた。

「俺は行かない」

「なぜ?」

「お腹がすいてしまうよ?」

 民たちは不思議そうに一道を見た。

 一道は無言でうつむき、身を固くする。

 やがて、民たちは、一道がどうやってもそこから動く気のないことを悟ったらしく、あきらめてぞろぞろと引き上げていった。彼らの表情には落胆や心配こそあれ、誘いを断った一道に対する怒りなり不愉快なりといった色は、見られなかった。


 民たちが去ったのち、一道はおもむろに布団から這い出し、さて、これからどうしようかと考える。

 とりあえず里哉に会いに行きたい。

 里哉は、昨夜の宴のときのように調理舎で料理をしているのだろうか。今から広庭に行けば会えるかもしれない。

(いや、でも……。料理をしてる間は、また「忙しい」って言ってまともに相手してくれないかもしれないな。国のやつら――土人形が集まってる場所にわざわざ行くのもいやだし……。それに、食えもしない料理を見るのも、目の毒だ)

 やっぱり、朝食が終わる頃まで待ってから、里哉を捜しに行くことにしよう。一道はそう思い直し、リュックの中から菓子を取り出して少し食べ、朝食を終えたことにした。

(そういえば、トイレに行きたい)

 いつからか体内にあった尿意を、一道はにわかに意識する。

 便所がどこにあるかは聞いていない。一道は部屋を出て、自力でその場所を探すことにした。

 とりあえず、部屋の前を通る回廊を、まだ行ったことのない奥の方へと進んだ。そうして、折れ曲がりながら続く廊下の角を何度か曲がったとき、回廊から少し離れた場所に、一つの小部屋が見えた。


 その小部屋は、回廊の角から出た短い廊下の先にあり、電話ボックスよりも一回り大きいくらいの木箱に、屋根を付けただけのような、素っ気ない建物だった。板戸を開けると、部屋の床は剥き出しの土の地面で、その中央には一つ穴が開いていた。

 近寄って覗き込んでみるも、穴は深々と暗く、中の様子はわからない。穴の周りは地面に敷かれた板で四角く囲まれており、板に足を乗せることで、穴を跨ぎやすいようにはなっている。和式便所の形状に、近いといえば近い。

 普段使っているトイレとは全然違うけれど、たぶんこれは汲み取り式の便所なのだろうと、一道は推測する。

 しかし、その割にはまったく糞尿のにおいがないのが、妙だった。小部屋の中には、ただひんやりとした土のにおいが充満している。

(土人形の使うトイレだからかな……)

 ただ、穴の底から、ほんのかすかに生臭い、腐ったようなにおいが感じられる気がした。

(あれ……? このにおい……)

 何か、一瞬浮き上がった嗅覚の記憶の端が、脳裏に引っかかった。

 それがなんなのか、一道は考えようとしたが、今体内に抱えている生理的欲求が思考の邪魔をして、充分に記憶を引き出す間もなく、意識は再び目下の問題へと向けられた。すなわち、果たしてこの穴がトイレであるかどうか、という問題だ。

 しばらくその場で迷ったものの、そうしているうちにいよいよ尿意が大きくなってきたので、一道は結局そこで用を足した。


 そのあと、ついでに屋敷を一周することにした。敵陣の偵察といったところである。

 理土はおそらく広庭に食事に行っているのだろうし、理土以外の誰かが屋敷内にいる様子もなかった。そのため一道は遠慮なく、部屋を片端から開けて調べてみた。敵の本拠地で礼儀も何も知ったことではない。もし自分にとって役立つ物や情報でも見つかれば、儲けものだ。

 中庭を挟んで、屋敷の裏側にある建物の中は、広さも形も同じ造りの部屋がいくつも並んでいた。そのうちの一つが一道の泊まった寝間なのだが、他の部屋もそこと同様に、家具も何もなく、布団も敷かれていないので、空き箱のようにがらんとしていた。どの部屋を見ても、人の生活している気配は全く感じられない。これらは「マレビト」を寝泊りさせるための専用の部屋なのかもしれなかった。


 回廊をぐるりと回って、屋敷の表側、門の見える広い庭園を向いた建物のほうへとやってきた一道は、回廊に面した襖を、端から順番に開けていった。

 その表側の建物の中の様子は、裏側の建物のそれとはだいぶ勝手が違っていた。こちらの間取りは部屋によって広さがまちまちで、室内は、基本的にやはり家具のない簡素な内装ではあるのだが、ほとんどの部屋に床の間があって、そこに掛け軸や、生け花や、置物などが飾られていた。香炉が置かれており、香を焚いた日本的な花や木の匂いが、襖を開けた途端、ふわりと香ってきた部屋もあった。また、屋敷の裏側の部屋は、どれも部屋に入って左右が壁、部屋の奥に押入れの襖、という造りであったのに対し、表側の部屋では、入口を除く三方にある壁や襖の位置が、これも部屋によってばらばらだった。奥の一面だけが襖で左右が壁の部屋もあれば、右側が襖で奥側と左側は壁だったり、その逆に左側に襖があって右と奥は壁だったり、あるいは左右が襖で奥側だけ壁になっていたり、中には奥も左右も襖という部屋もあった。四方すべてが襖で壁のないその座敷は、おそらく、一道がこの「国」来て倒れたあと運び込まれた、あの広間だった。


 一道は広間に入って、入口以外の三方の襖を全部開けてみた。

 襖の向こうはすべて隣の座敷につながっていた。とりあえず、屋敷の奥へ進んでみようと奥隣の部屋に入る。隣合う部屋であるのに、奥隣のその座敷は、先ほどの広間とは広さが異なっており、広間に比べてずいぶん小さな部屋だった。その座敷の襖は奥と右にあった。右の襖を開けてみる。襖の向こうはやはり座敷だ。今度は広間よりもやや狭く、広間の次の座敷よりはいくらか広いくらいの部屋であろうか。襖は左右にある。左へと進んだ。

 そうして一道は、次々と襖を開けて、いくつもの座敷を通り抜けた。

 屋敷の表側の建物の中にあるこれらの座敷には、一道が泊まったような押入れのある部屋は、ないようであった。部屋の四面は襖か壁のいずれかで、襖の向こうは必ず隣の部屋につながっている。

 座敷が全部でいくつあるのかは見当もつかない。最初は、たどった経路を頭の中に描きながら進んでいた一道だったが、次第に建物の正面がどちらの方向なのか、わからなくなってきた。帰るときのために、通ってきた襖だけを開けっぱなしにしてきたから、帰り道を失うようなことはないであろうものの、そうでなければ相当迷ってしまうに違いなかった。まるで、たくさんの座敷を縦横につなげて造った迷路のようだ。この建物の間取り図を描いたならば、面積が不揃いなたくさんの四角形を、隙間ができないよう配置した、パズルにも似たものになるだろう。


 やがて、一道は、入口以外の三方がすべて壁になっている部屋に行き着いた。

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