第11話 残骸ー4
影は中空で霧散すると、瞬く間にその姿を闇へと化していく。
緋水は咄嗟に手を伸ばすも、その手は何ひとつ、掴む事は出来なかった。
「くそっ……!」
緋水にしては珍しい悪態が響きわたる。
何しろ彼は弄ばれるだけ弄ばれ、最後にはまたしても意味の分からない言葉に翻弄されたのだ。
――悪意の塊? 欠け落ちた人間? あいつはいったい何が言いたい!?
緋水は額を押さえながら木製の窓枠へと肘をつく。
そもそも緋水は何も知らない。何も覚えていないからこそ、それを問いただそうとしたのだ。
知識は武器となり、無知は死に直結する。
緋水が懸念していたのは、この先も続くだろうこの旅路において、どこまで自分が危険性を孕んでいるのかという事だ。
あの影が緋水に付き纏っている限り、自分と一緒にいる鈴にまで危害が及ぶ可能性がある。それと同様に、緋水にはある予感があった。
あの影と魔物の間には、何らかの繋がりがある。
これは直感といっても差し支えはない。
同一でなくても異質ではない。
頭の奥で微かに残る記憶の欠片が、緋水にそれを警鐘し続けていた。
だからこそ、緋水はわざわざあの影と接触を図ろうとしたのに、これじゃあ何の意味もない。
――モノクロの世界には慣れることが出来る。自分の力についても折り合いを付ける事は出来る。でも、それでは彼女の事を守れない。
緋水は自分の至らなさに足をよろつかせ、寝台へと腰を下ろす。
――僕は、あの子のことだけは不幸にしたくない。
それは、恋だの愛だのといった感情からくるものではない。緋水はただ、鈴を自分の事情に巻き込みたくはなかったのだ。そして、その為ならば、自分の命すら厭わないと考えていた。
しかし、緋水は気付いていない。その自分を蔑ろにするような考え方こそが、鈴を酷く悲しませているのだということを。
喉の渇きを覚えた緋水は、極力足音を立てないように階下へと向かう。
すると、そこには意外な人物の姿があった。
月明かりしか差し込まない部屋の中、ただ一つの灯りも灯さずに、女性はその場で静かに腰を下ろしている。
「……お客様、どうかなさいましたか?」
その女性は緋水の方へと体を向け、優艶に微笑む。
「すいません、こんな夜分に。少し、水でも貰えないかと……」
咄嗟にそうは言ったものの。緋水は驚きを隠せなかった。
何故なら――その女性は目が見えていないはずなのだ。
それなのに、どうやって緋水の存在を認識したというのだろうか。
「ふふっ、そう驚かないでください。これでも視界を失ってから、それなりの年月を生き抜いてきたのです。これぐらいは出来るようになりますよ」
緋水の顔には困惑の色が浮かび上がる。
それは、そんな簡単な言葉で言い表せるものではないはずだ。
その笑顔の裏には、いったいどれだけの苦労と苦悩があったというのだろうか。
――でも、それは一介の客ごときが聞いていいような話じゃない。
緋水は自分にそう言い聞かせ、水差しの方へと歩み寄る。
コップへと継いだ水も、彼にとっては透明ですらない。
モノクロの世界というものは、それ以外のすべてを否定してしまうのだから。
「……少し、驚きました」
女性から感嘆の声が聞こえてくる。
幸か不幸か、この場にいるのは緋水と彼女だけなのだ。
その声が誰に向けられたものなのかなんて、考えるまでもない。
「よく、水差しの場所が分かりましたね」
緋水には女性の言っていることが理解できなかった。
水差しの置かれていた位置は、女性の手の届く範疇なのだ。
女性の存在に気付いた緋水が、それに気付かないわけがない。
「でも、お客様、恐らく、今この部屋の中には、灯りの類はないものと思われますが……」
女性には長年の経験から、それが分かっているのだろう。
そして、緋水もようやくそのことに気付く。
常人が闇の中で探し物をしようものなら、すぐさま灯りを灯そうとするはずだ。
しかし、緋水はそうはしなかった。否、そうする必要がなかった。
何故なら、彼の視界にはその闇でさえ、色を持っていなかったのだから。
二人の間に沈黙の時が流れる。
緋水には説明のしようが無かった。これは、彼だけの特別な歪み。これにいったいどれほどの意味があるのかは分からないが、最悪の場合、全てを告げれば、彼女まで巻き込んでしまうかもしれない。
「あの、お客様……?」
沈黙を破ったのは、女性の方だった。
「よろしければ、少しお話に付き合っては頂けませんか?」
女性は虚空を見つめながら、緋水に向かって問い掛ける。
そして、緋水にはそれを断る理由がない。
「僕で、よければ……」
女性は穏やかな笑みを浮かべると、ゆっくりと話し出す。
「ありがとうございます。それではまず、自己紹介からさせて頂こうかしら。これは、少し前のお話。―――― 一人の女が、視力と仲間を、失うお話です」
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