第3話 緋水と鈴

「少しは落ち着いた?」

「ハー、ハー、落ち着けるわけないじゃん! 記憶喪失? この馬鹿! 頭蒸し焼きにすんぞ!」


 怒り狂った少女は柔らかな布団で何度も何度も青年を殴打し、それでもまだ収まりがついていない。

 息を乱しながら、それでもなお青年を責め続けている。


「嘘ならもっとマシな嘘つけってのよ! 何が記憶がありません、何がわかりません知りませんだオイ!!!」


 ――何だかさっきまでと全然印象が違うような……


 青年がそう思うのも無理はない。

 さっきまであんなに甲斐甲斐しく自分を介抱してくれていた少女が、まさかここまで荒れ狂うなんて思ってもみなかったからだ。


「……ごめん」


 謝って済むような話ではない。でも、青年にはそういうやり方をするしかなかった。


 ――こういうのは嫌いだ。僕のせいで誰かが怒り狂うなんて、そんなのは見たくない。


「……卑怯。そういうところだけは変わってないんだから」


 少女にはその姿に思うところがあったようで、ようやくそこで罵倒の言葉を収めていく。だが、その言葉にはどこか寂しさが滲み出ていて、青年はなおさら胸を締め付けられる様な感覚を覚えた。


「まあ、そういう所も君らしいといえば君らしいか。……よしっ!」


 少女は自分の頬を両手で景気よく張りつけると、仕切り直しと言わんばかりに声を張り上げる。


「ひとつずつ整理していこう。じゃあまずは…………何が知りたい?」


 勢いよくそうは言ったものの、後半は尻すぼみになり、むしろ少女の方が疑問符を浮かべるはめになってしまう。


 ――私、馬鹿みたいじゃない!?

 

「ははっ」


 なぜだかその姿が青年には眩しいものに見え、思わず笑い声が口からこぼれ落ちていく。

 

「……ちょっと、何を笑ってるのよ」


 ジト目でそう睨みつけられても、その姿はどこか滑稽で、青年の目にはそれがなおさら可笑しく映りこんでいた。


「ごめん、笑ったりして。それじゃあ、よかったら名前を教えてもらえるかな」


 少女の顔が訝しげなものになる。


「それは私の? それとも君の?」

「両方、お願い出来ると嬉しいな」


 その笑顔が少女にとってどれほどの意味を持ったのかはわからない。けど……


 ――そっか、その笑顔は変わらないんだね。


 そして一息、少女は心を落ち着かせ、そしてこう口にする。


「私の名前は鈴(りん)、そして君の名前は緋水(ひすい)。この名前に聞き覚えは?」

  

 少女の懇切丁寧な言葉にも、青年はわずかに首を傾けるだけ。

 それもそのはず、やはり青年の記憶の中にはその名前が存在していない。


 ――緋水、それが僕の名前で、彼女が鈴。


「何よ、その顔は?」

「いや……うん。その、やっぱり覚えてないみたいだよ」


 青年は申し訳なさそうな声でそう言うものの、その言い方はまたしても少女をイライラさせてしまう。

 

「……呆れた。百歩譲って記憶喪失っていうのは認めてあげるわ。けどねえ、これは君の事なんだよ。もうちょっと真剣に……」


 またしも説教じみた言葉が延々と少女の口からこぼれ落ちていく。

 だが、それさえも青年には心地よく聞こえていた。何故なら――それは記憶を持たない青年にとって、とても心に響く優しい言葉だったから。


「また笑ってる。……そろそろ怒るよ?」


 少女が拳を握り締めたのを見て、これはマズイと思ったのか、青年は慌てて次の質問を模索し始める。


 ――ええっと……そうだ!


「この景色! この景色っていったい……」


 青年が目を覚ましてからずっと、彼の目にはモノクロの世界が映し出されていた。

 いくら記憶を失くそうとも、これが平常であるわけがない。

 だが、その質問を口にしたとたん、少女の顔がこれまでにないほど曇り出す。


 ――やっぱり、それを失くしたわけじゃあないんだね。


 そうして少女はこう口にする。


「それは代償だよ。君が持つ、君だけの、とても救われない代償」と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る