8 最高にダサい
期末試験が直前に迫った日曜日の朝、澄子から電話がかかってきて、五○四号室で一緒に勉強をしようと誘われた。
一緒に勉強をすると言うより、テストに向けて講義をすると言う方が合っている、と軽口を叩きながら夏帆は行くと答えた。
九時を過ぎているのに薄暗かったのでベランダに出て外の様子を見ると、雨が降っていた。
二人の将来が心配で、勉強を手伝ってやらないといけないと思ってはいた。自ら勉強すると言ってきたことは喜ばしいことだ。やる気があると、澄子と大樹の成績はとてもよくなる。夏帆はそのことをよく知っていた。
そもそも今通っている高校には三人の中では夏帆だけが受験するつもりでいたのだ。
県内では有名な高校であり、近隣の中学校で成績のいい生徒が受験する所だ。澄子が三人一緒の高校がいいと言い出して大樹を巻き込み、夏帆には勉強を手伝うことを強いた。それまで定期試験の澄子の成績は下の方だったのに彼女の努力はあっさり実り、三人で合格することができてしまった。
また同じ大学に行くと言い出さないか夏帆は心配だった。
大学が同じなのは構わない。しかし大学が同じだったら、会社も同じ所に入ると言い出すのではないか。近くに住むどころか、二世帯住宅を建てて一緒に暮らそうと言うのではないか。
それは非常識で怖いと夏帆は思った。幼い頃から三人一緒だったということに人生が丸ごと縛られてしまいそうだ。
幼馴染の絆の外でも生きたくて友達を作るが、仲の良くなった玲奈は澄子とも仲良くなってしまい、玲奈ごと絆の中に引っ張り込まれている気がする。
幼馴染の二人との付き合いが嫌になったわけではなかった。このような関係を得られる人は少ないことはわかっていた。この得難い関係を大切にすることで他の人より幸せになれるはずである。生まれてから死ぬまで二人と友達でいようと夏帆は決めていたが、夏帆には夏帆の思う適切な距離というものがあった。
夏帆にとって澄子と大樹との理想的な関係というのは、たとえば旅行をしようと思った時には真っ先に誘う関係であった。大学生になっても働くようになっても老人になってもそのような付き合いをして旅行をして、何歳になっても同じように会うことのできる仲がいいと夏帆は思っていた。
五○四号室のインターホンを押す。スピーカーから明恵の、はい、と言う声が聞こえた。
「ども、夏帆です」
「あ、いらっしゃい。ちょっと、待っててね」
明恵が玄関まで小走りで来るどたどたという音が聞こえ、鍵が開けられる。ドアを開いて、
「おはよう」と明恵は笑顔で言った。
「おはようございます。お邪魔します」
笑顔で返して、玄関に上がる。リビングには既に澄子がいた。大樹とソファに座ってテレビを見ていた。圭介もリビングにいて、座布団を敷いて座っている。
夏帆はソファに置いてあったクッションを取って床に置き、その上に座る。
テレビでは女優が遊園地のアトラクションを紹介していた。ジェットコースターに乗って目を瞑り、きゃあ、と叫んでいる姿を前から撮られている。
「もしかしてまた泊まったの?」
夏帆が聞くと澄子は首を横に振り、
「ううん、今日泊まる予定」と言った。「そうだ。夏帆も一緒に泊まろうよ」
「いや、私はいいよ」
まさかそうはならないだろうと思うが、頷いたら自分まで大樹の部屋で寝ることになってしまうのではないかと想像してしまう。
「別に遠慮しなくてもいいからね」
圭介と並んで座布団に座り、明恵はそう言った。圭介も、そうそう、と言う。
「祐平の部屋で寝ればいいんだから」
祐平は大樹の兄だ。大学生になり一人暮らしを始めたので、彼の使っていた部屋が空いていた。
「せっかくだけど、やめときます」
澄子に泊まろうと言われた時にはきっぱりと断れたのに、明恵と圭介の誘いを断ると申し訳ないという気持ちになって、どうして私はかたくなに泊まろうとしないのだろう、と自問してしまう。そのために夏帆は、
「夏休みとか、きっと泊まりに来るんで」と言ってしまった。
「うん。是非来てね」と明恵は微笑んだ。
「夏休みってことは、みんなで宿題をやるわけだ」
圭介がそう言うと夏帆は頷いて、
「それもいいけど、せっかくお泊りするなら勉強しないで遊びたいかな」と言い、それならその日の夜に飛ぶ力のことを澄子に聞けばいいんだ、と夏帆は気が付いた。あまり本気で言っていなかったのに、それを思い付くと絶対に泊まりに来ようという気になった。
「遊ぶなら、うちに泊まるんじゃなくて、この遊園地に行くのもいいんじゃないかな」
圭介はテレビを見て言った。いいかも、と夏帆は頷いた。
番組が遊園地の次に水族館の紹介を始めると、さて、と言って明恵は立ち上がった。
「そろそろ私たちはお買い物に行ってくるね」
「雨が降ってるけど」と圭介はガラス戸の方を指した。
「天気予報だと明日も雨になってたから、今日行っても同じでしょ」
そう言われて圭介は、なるほど、と呟く。
二人が出かけると夏帆はテレビのリモコンの電源ボタンを押した。
「私たちも勉強始めよう」と言う。
大樹は自分の部屋に参考書と筆記用具を取りに行った。澄子はソファから座布団に移動する。
「それで、何から始める?」
電話をかけてきた時にはまだどの教科の勉強をするのか澄子は決めていなかったため、夏帆は試験のある教科全ての教科書とノートを通学鞄に入れてきていた。おまけに参考書を入るだけ詰めてきたので、筆箱を引っ張り出すのに苦労した。
「どうしようか」
澄子は部屋から戻ってきた大樹に向けて、
「ねえ、どうする? 何やろう?」と聞いた。
「古文やろう」
大樹はすぐにそう答えた。通学鞄を側に置いて座布団に座ると、手早く鞄の中から筆箱と古文の教科書を出した。
「文系科目をやりたいから、まず古文で、終わったら次は漢文でどうだろう」
「いいけど、私どっちも苦手だから、あまり教えられないと思うよ」
それでいいよ、と大樹は返した。
「ねえ、志望校決まったの?」と夏帆は聞いた。迷わずに古文と言ったのは、文系の学科に進むことに決めたからなのではないかと思ったからだった。
「そのうち決まる予定」
既に志望校が決まっている人がその大学の名前を言うのと同じくらい大樹がきっぱりと言った。
想像は大体合っていたのだが、心のどこかでこの二人が志望校を決めているはずはないと思っていた夏帆は驚いて、
「凄い。考えてるんだ」と言う声が大きくなった。
「凄いってなんだよ」
夏帆の驚き方に大樹はむっとした。
「いやあ、ごめん。まさか考えてるとは思ってなかったもんだから」と言って夏帆は、へへ、と笑う。
「だろうけどさ」と大樹も苦笑する。
「まあ、じゃあ、お勉強を始めましょうか」
手を一回叩いて、夏帆は言った。そして教科書のページを指定する。
澄子が指定されたページを開きながら、
「次の出会いが待ってるから、告白なんて容易い」と言った。
「今の何?」
夏帆が聞くと、大樹が答えた。
「この前聞いた星の声で、好きな人に告白する勇気を出そうとしている人の声なんだってさ」
「どうしてそれを今?」
わからない、と大樹は答えた。
「おまじないの代わり。やる気を出す時のね」
澄子はそう言って、もう一度同じフレーズを口にした。
「それでやる気出るの?」
「出ないね」
「そりゃ告白するわけじゃないんだから、そうだろうね」
夏帆は試しに澄子の真似をして同じフレーズを呟いてみる。
「全然力出ない」と夏帆は言った。だよね、と澄子は笑った。
勉強会は昼食を挟み十五時まで続いたが、澄子の集中力が切れて横になったまま起き上がろうとしなくなったので解散となった。
長時間の勉強に疲れてしまっただけでなく、十四時頃に雨が止んだため、星の声のことで頭がいっぱいになってしまったのだろう。
古文と漢文は参考書の問題を解くところまでして、ノートを見返して現代文の復習をしている途中で澄子は横になって動かなくなった。
五○六号室に帰った夏帆だったが、十七時になると屋上へ行った。屋上の下見をするつもりだった。
この時間にはまだ澄子と大樹は来ていないはずである。ベンチの方へ歩きながら見回して二人がいないことを確かめる。
ベンチに腰かけて空を見上げた。空は青い。子供が仰向けになって飛んでいた。屋上よりも随分高い所を飛んでいる。
マンションの近くを飛んでいるようだったが、下まで落ちてしまったら助からないだろうし、たとえここに落ちてきても骨は折れるだろう。
「危ないよ」
夏帆が声をかけると少年は寝転がるようにして夏帆の方を向いた。夏帆は手を振り、危ないよ、ともう一度言った。少年は頭を下にして腕を伸ばし、水泳の飛び込みの時のような姿勢で降りてきた。芝生に手が付き、ゆっくり足を下ろす。少年が立ち上がると、
「君、何年生?」と夏帆は聞いた。
「六年生」
夏帆は五年生の時に飛べなくなった。六年生なら、いつ落ちてもおかしくない。声をかけてよかった、と夏帆は思った。
少年は黒いTシャツを着ていた。メタルバンドのロゴTシャツだった。そして茶色の短パンを履いている。
「未練が残らないように高く飛んでたんだ」
どうしてあんなに高く飛んでいたんだ、というようなことを聞かれるとわかっていたのだろう。少年はすぐにそう言って理由を説明した。
「本当はもっと高い所まで行きたいんだよ。それで夕日とか、夕焼け空とか見てさ。そうすれば未練なく捨てることができるでしょ? だからもっと高く飛びたいんだ」
「気持ちはわかるけど、やめといた方がいいよ」
言ってから、どうして気持ちはわかるなんて言ってしまったのだろう、と夏帆は少し悔やんだ。そんなことを言ってしまっては、まるで後押ししているみたいだ。そういう気持ちはないわけではない。しかし危険を回避することの方が重要だと夏帆には思えた。
「いや、絶対にやめるべきだからね」と夏帆は言った。
「わかってるよ。落ちて死んだら話になんないし、大怪我でも最高にダサいし、そうなる前に捨てるよ」
最高にダサいというのは腹が立つが確かに私はダサかったかもしれない、と夏帆は思った。
「今は捨てるって言うんだね。なんか能動的でいいね」
少年はきょとんとしたが、すぐに夏帆が捨てることについて知らないのだと理解して、
「そうじゃないよ。本当に捨てられるんだよ」と言った。
「え、どういうこと?」
「ほら、うちのマンションにいるでしょ。大人なのに空飛んでる人」
洋子のことだ。夏帆は、いるね、と言って頷く。
「その人がもらってくれるんだよ、空を飛ぶ能力。だからあの人はずっと飛んでいられるんだって」
「え、嘘でしょ。そんな話、聞いたことないけど」
洋子本人からも、洋子の娘である澄子からもそのような話は聞いたことがなかったから、嘘だろうと夏帆は思った。しかし少年は真剣に、
「本当だって。本当にそういう噂があるんだよ」と言う。
「なんだ、噂なんじゃない」
嘘だと断定するように言ったが、夏帆は洋子に聞いてみようと心の中では思っていた。本当に子供たちから空を飛ぶ力をもらって、それでずっと力を失わないでいるのかもしれない。
「噂だけどさ、同じマンションに住んでるんだし、能力を捨てさせてもらって格好よく飛べなくなりたいんだよ」
少年はどうにか自分の気持ちを理解してもらおうと必死になって言った。
格好よく飛べなくなりたい、というフレーズは澄子が気に入りそうだと夏帆は思った。洋子が飛んでいることを嫌悪しているから、特に喜ぶのではないか。
「そうだね。捨てちゃうってのはいいことだと思う。でも本当にできるのかな」
「どうにかその人を捕まえて、聞き出してみればいいんだよ。捨てられないんなら、その時は諦めて自然消滅を待つけど」
小学生が自然消滅なんて言うことに夏帆は驚く。そしてわざわざ難しい言葉で言おうとしている感じがあって笑いそうになり、微笑む。
「捕まえるって言っても、あの人いつも飛んでるでしょう」
「俺だって飛べるよ」
「ああ、そうか。そうだった」
あまり無茶はしちゃ駄目だよ、と夏帆は言った。これ以上屋上にいて彼と話す気はなかった。五階に戻って、洋子に話を聞きに行くつもりになっていた。
「とにかくさ、高く飛んじゃ駄目だからね」
そう言って階段に向かって歩き出したが、
「嫌だね」と少年は言った。夏帆は少年に聞こえるように大きく溜め息をついた。
五階まで下りると早速夏帆は五○五号室のインターホンを押した。夏帆です、と名乗って洋子にドアを開けてもらい中に入る。
「どうしたの、一体」
リビングに夏帆を入れると洋子はベッドに腰かけてそう聞いた。ベッドにくっ付けるようにして置いてある真四角の箱の形をした合成皮革の白い椅子を指して、
「これ好きな所に持ってって座っていいよ」と言った。
夏帆はその椅子を持ち上げてみたが洋子が言うほど気楽に運ぶことはできそうになく、ベッドから少し離したところでそれ以上運ぶのが嫌になって置く。収納ボックスとしても使える物のようで、持ち上げた時に椅子の中で物の転がる音がした。
「何入れてるの、これ」
「お菓子とか、ダンベルとか」
「ダンベル入ってるなら先に言って。出してから運びたかった」
「ごめんごめん」
ベッドの上に体育座りをしている洋子は、笑いながら謝った。ベッドよりも椅子の方が低いせいで、腰かけると洋子を見上げる形になった。
「そんで、どうしたの」と洋子は聞いた。
「洋子さんに聞きたいことがあって」
「うん。どんなこと?」
「噂を聞いたんです。洋子さんが空を飛ぶ能力をもらってくれるって。それで空を飛ぶ力を捨てることができるって。そういうこと、本当にしてるの?」
そう聞くと洋子は少し驚いた顔をした。
「もしかして夏帆ちゃん、まだ飛べるの?」
「いや、そういうわけじゃないけど。ただそういう噂を聞いただけで。あとそういうことをしているから洋子さんは大人になっても飛べるんだってことも」
「その噂は誰から聞いたの?」
洋子は、屋上で高く飛んでいる小学生を見つけて注意したらそういう話になったのだと説明した。すると洋子は、なるほど、と頷いた。
「小学生の間ではそれなりに噂になってるらしいね。本当のことだよ、半分は」
「半分って?」
「人から飛ぶ力をもらってるっていうところ。でも、もらってももらわなくても、私は飛べる。私は元々大人になっても飛べちゃう人間なんだから」
夏帆は変だと思って、
「もらわなくても飛べるなら、どうしてもらってるの?」と聞いた。飛ぶために力をもらっているのであれば理解ができるが、しなくてもいいことをしているというのはよくわからなかった。
「やりたいわけじゃないの。でも捨てた子がすっきりするなら、それでいいんじゃないのって思ってる。なんか感謝してもらえるし。びっくりしちゃうけど、飛べなくなりたいって思ってる子って結構いるんだよね」
世間話をしているような気楽な感じで洋子は言った。
「その屋上で会った子も捨てたがってた。そうした方が格好いいって」
「へえ。そういうもんなのか。じゃあ今度その子連れてきてよ。もらってあげるから」
連れてくることができるだろうか、と夏帆は思った。まず少年の名前を知らない。わかるのはこのマンションに暮らしているということだけだった。それでも夏帆は、
「もし会えたら、そうするね」と言った。
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