7 同じ幸せを

 授業中はほとんど寝て過ごしているから、澄子にとって放課後はすぐに来るものだった。しかし今日はあまり眠気がなく、試験が近いから少しは勉強しようという気分になったせいもあって、休み時間さえ待ち遠しかった。

 休み時間になって教師がいなくなると徐々に会話する声が増えていくが、大きな声で話す生徒がいないこともあって、聞こうと思えば誰かの話に聞き耳を立てることもできた。

 澄子が隣の席の大樹に話しかけようとすると、大樹は机に頬をくっ付けるようにして眠っていた。授業の時からずっと眠ったままのようだった。

 昨日は大樹と一緒に寝たのだから、大樹だって眠くないはず、と澄子は思った。大樹の肩を揺すって起こす。

「おはよう」

 顔を上げた大樹に囁くと、大樹はおはようと返しながら、黒板の右側に付いている時計を見た。それから辺りを見回して、

「休み時間か」と言った。

「うん。眠いの?」

 大樹は欠伸をしてから、

「三時くらいに目が覚めたから、ケータイでネット見てたんだよ」と言った。

「そうなんだ」

「それで五時くらいまで起きてたかな」

「何見てたの?」と澄子は聞いて、大樹が二時間も夢中になった面白いものを見せてもらおうとした。

「えっとね、夏休みに行く美術館を探してた」と大樹は答えた。

「美術館? 美術の宿題なんてないよね?」

 澄子にとってそこは遠足で連れて行かされたり宿題で行かなくてはならなかったりするだけの、少しも楽しくない場所だった。

「ないよ。行きたいから行くんだよ」

 大樹も自分と同じように思っているはずで、澄子は意外に思った。

 遠足で古い日本画を見に美術館に行ったことがあったが何がいいのかわからなくて退屈で、大樹も早く帰りたいと言っていたことを澄子は覚えていた。

「どういうこと?」と澄子は眉をひそめて言った。

「いや、ただ最近なんとなくそういうのに興味があって。ほら、最近は漫画の話とかよくするしさ。夏休みに行ってみるのもいいかなと思ったんだよ」

「それで、どこに行くの?」

「ちょっと待って。サイト見せるから」

 大樹はスマートフォンを鞄から出した。学校にいる間は電源を切って使わないようにする、という校則があり、大樹はそれを守っていた。

 やや待つと、大樹はスマートフォンの画面を見せてきた。澄子が泊まらなかった日に見つけたガラス作品を展示している美術館のサイトだった。

「これが第一候補」

「ガラスの美術館なんだ」と澄子は言った。

「そう。なんか綺麗で面白そうでしょ。澄子も一緒に行かない?」

「え、私も行くの? 興味ないよ、こんなの」

 大樹は展示されているガラス作品の画像を見せて、

「興味ない?」と聞いてくる。

「ないよ」

 真面目に画像を見ることなく澄子は答えた。芸術品とかいうものに感動するわけない、と思っているのだった。

 そうか、と言って大樹は残念そうにスマートフォンの画面を見ていた。すると玲奈が教室に入ってきて、

「ねえ、漫画ある?」と大樹に話しかけてきた。

「漫画?」

「そう。このクラスで流行ってるって聞いたから。私も読んでみたくて」

「どうだろう」

 大樹は飯野を呼んだ。クラス内で回し終わった漫画を持っているのは、作者か飯野のどちらかだ。

 呼ばれた飯野が近くに来ると、

「第一話って今持ってる? 読みたいんだって」と大樹は言った。

「読みたいです」

 玲奈はピースして言った。

「今は持ってない。俺が持ってるから来週持ってくるよ」

 飯野は玲奈ではなく大樹に言うような感じで話した。

「じゃあ、お願いします」

 手を合わせながら玲奈は会釈した。飯野は、わかりました、と礼をして返した。

「ところで何見てるの、それ」

 玲奈は大樹のスマートフォンの画面を覗き込む。大樹は表示している画像を彼女に見せ、

「夏休みに行こうと思ってる美術館があって、そこの作品」と言った。

「ガラスのやつばっかの美術館なんだって」と澄子は教えた。

「へえ。そんなのあるんだ」

「一緒に行こうって誘ってきたんだよ、こいつ。こんなのつまんないと思わない?」

「澄子は行く気ないんだ?」と玲奈は画像を見つめたまま澄子に聞いた。ないよ、と澄子は頷く。

「じゃあこれ私がいただきね。私もうちの彼氏もこういうのたぶん好きだから、夏休みにここでデートするわ」

「え、マジで?」と大樹は驚く。

「マジだよ。これはもう私のものだから、二人は行っちゃ駄目ね」

 玲奈は澄子の方を見て、意地悪をしてやったというような笑顔で言った。

「いや、澄子が来なくても俺行くつもりだったんだけど。と言うか、ものじゃないし」

 困惑している大樹に玲奈は、

「知ったこっちゃないよ。とにかく私たちがデートで使うから」ときっぱり言った。

「横暴だ」と大樹は嘆くように言った。

「おう」

 玲奈は親指を立ててそう言うと、教室から出ていった。玲奈の姿が見えなくなると大樹は頭を抱えて、

「しかも駄洒落だ」と言った。

「どうすんの」

「いや、行くよ。今のを本気にするわけないでしょ」

「じゃあ私も行く」

 あっという間に去っていった玲奈の勢いに影響されてしまっていて、行かないと後悔してしまうような気にさせられていた。

 それに玲奈が面白そうと思うのなら、楽しめるんじゃないかと思えてしまうのだ。大学生と付き合っているせいか、同い年なのに人生の先輩といった雰囲気がある。

「いいの?」と大樹は意外そうに、そして嬉しそうに言った。

「うん。行こう。それから美術館以外の所にも行こうよ。海とか。二泊三日くらいでさ」

 そう注文を付けると大樹は、

「ああ、それいいね。そうしよう」と言った。

 そうしよう、と澄子は繰り返した。

 澄子には、美術館よりも海よりも楽しみなことがあった。それはいつもと違う場所で聞く星の声だ。もしかしたらこれまでに聞いたことのないような言葉がたくさん見つかるのではないか、と澄子は既に期待し始めていた。

「それじゃあ夏帆も誘おう」

 そう澄子が提案すると大樹は、

「夏帆も?」と驚いた顔をして言った。

「その方が絶対楽しいし、それに美術館も夏帆がいた方がいいんじゃないかな。三人寄れば文殊の、なんて言うしさ、夏帆なら色んなことを解説してくれるかも」

「なんで智恵だけ省いた? しかもそれ夏帆一人の力じゃん。で、本当に夏帆誘うの?」

 まるで夏帆が来てはいけないみたいに聞こえて、

「マジだけど、駄目なの?」と澄子は言った。

「いや、デートのつもりで誘ったから考えてなかっただけ」と大樹は答えた。

「君もデートか」

「言っておくけど、発想が被ったのは菊池さんの方だからな」

 それもそうだね、と澄子は素直に認めた。そして話を夏帆のことに戻した。

「夏帆いた方が絶対に楽しいよ」

「言われてみれば、確かにそうだよな」

 当たり前のことを思い出したという感じで大樹は言った。

「忘れちゃ駄目だよ、夏帆のこと」

 澄子は年下の子を優しく叱るように言った。ごめん、と大樹は謝る。

 澄子が夏帆を誘おうと言ったのは、三人で一つの部屋に泊まりたかったからだった。

 そうすれば夏帆にとっての間違いが起こり、自分の望む形になるのではないかと澄子は思った。

 大樹と夏帆と三人で性行為をしたいと思っているのは本当のことだ。

 夏帆に恋愛感情を抱いてはいない。しかし快楽のために彼女とも性的に触り合ってみたいとは思っている。澄子は、大樹と夏帆の二人に同時に愛でられて気持ちよくなることを夢想していた。

 きっとこの上ない快感を味わうことができて心が満たされるだろう。そのように澄子は思っていたし、大樹にも夏帆にも同じ幸せを与えたいとも思っていた。澄子の思い描く三人の幸せとはそういうものだった。


 五月末の中間試験が終わってから、女子は体育の授業でバスケットボールをやっている。外が暑ければ体育館の中も暑い。外よりも暑いと感じる日の方が多いくらいだった。

 ラジオ体操をした後に体育館の中を一周走って、それからパスの練習をする。澄子は夏帆と玲奈と一緒に練習を始めた。その後はシュートの練習で、一人ずつゴールから離れた所からドリブルしてレイアップシュートをしていく。

 澄子は玲奈の後ろに並ぶ。澄子の後ろには夏帆がいる。

 玲奈とは、去年いじめを受けていた時期に知り合った。何人かで固まっていればいじめられにくくなるだろうということで大樹と夏帆が休み時間を極力澄子と過ごすことにしていた時に、玲奈は夏帆に付いてきた。

 時折夏帆の話に出てくるから、彼女が悪い人ではないことはわかっていた。それでもよく知らない人物なので警戒心を持って接したのだが、初めて会った日の放課後に、

「私、澄子ちゃんが集めた言葉を時々夏帆から聞いてたんだけどさ、その中でも、好きな時に絵の具を混ぜられたらテストだっていい点取れるのに、っていう言葉が凄く好きなんだよ。そんなことを思った誰かがこの世界のどこかにいるって思うと、なんか他人の言葉を聞いただけなのに、自分まで自由になれた気がしたんだよね」と言われてすぐに澄子は心を開いた。

 夏帆がいつその言葉を玲奈に教えたのか覚えていなくて、結構前のことなのによく覚えていたね、と驚いていて、それで玲奈のことを信頼した。

 チーム決めが行われて試合が始まり、試合に参加しないチームのメンバーであった三人は白線の外に座った。澄子と玲奈が同じチームで、今行われている試合の次に夏帆のいるチームと戦うことになっている。

「玲奈はさ、ジンジャーエールみたいな彼氏ってどんな人だと思う?」と夏帆が聞いた。

「夏帆、それ好きなの?」

 今朝も新しくメモした言葉を披露したのに、夏帆が数日前の言葉を持ち出してきたため澄子はそう言った。

「ジンジャーエールか。イメージ湧かないけど、その声の主は彼氏のことを凄く大切に思ってるんじゃないの。嫌いな人のことをジンジャーエールみたいなやつなんて言わなそうだし。なんかちょっと落ち着いてる感じもあって、冷静に愛してるって雰囲気」

「私のこと天使だって言うあなたは何だろう。悪魔じゃなさそう、近いのはジンジャーエール。これが私の聞いた声の全文」と澄子は玲奈に教えた。「私は天使と悪魔の後に急にジンジャーエールが出てくる所が好き」

「やっぱなんか冷静な愛だわ。そういう恋愛ってよさそう。長続きしそうで」

 声の主がジンジャーエールの男を冷静に愛しているという玲奈の想像に刺激されて、澄子はジンジャーエールの男を愛する声の主のことを想像し始めた。

「そっか。声の主の人は、激しく燃えてはいないんだね」

「そりゃそうでしょ。そうじゃなきゃ天使か悪魔かって悩んでるだけじゃないの。ジンジャーエールなんて言えるってことは余裕ありまくりだよ」

「そっかそっか。なるほど」

 声の主の女は穏やかな気持ちでジンジャーエールの男との時間を過ごすのだろう、と澄子は思った。

 夜に屋上で過ごしている時など、幸せの中にいると自覚できてこのまま人生の終わりまで穏やかな気持ちでい続けられそうに思う時間が澄子にはあった。それと似たような気持ちでいるのではないか、と想像したのだった。

「燃えてないって、それってさ、もうその人のことなんてどうでもいいってことじゃないの?」

 そう夏帆が言ったが澄子はすぐに、

「違うよ」と否定した。「激しい気持ちがなくても、その人のことを愛しているっていう確信があるんだよ」

「こんなふうにね」と玲奈は澄子の頭をぽんぽんと叩いて言った。

「玲奈はどうなの」と夏帆は聞いた。

「私は燃えてるから、余裕あるって思ったことはない」

 玲奈は自慢するように言った。

「凄いね」と澄子は玲奈の頭を同じように叩き返して言った。

「そうでしょう」

 頭を叩かれながら褒められて玲奈は笑顔になる。

「それでさ、ジンジャーエールみたいな人ってどういう人なのか、わかる?」と夏帆は話を戻した。

「いや、わかんない」

 間髪を入れずに玲奈は答えた。澄子は考えてみようとするが、考えて思い付くのであればあの日の夜にもう想像できているはずだと思った。

「私もわからないなあ。夏帆はどう思うの?」と澄子は言った。

「どういう人かさっぱりわからないけれど、でも私もそういう人に恋するんじゃないかと思ったんだよね。直感ってやつだけど。だからどういう人なのか聞きたかったんだよ」

 それは気の迷いだと澄子は思った。同じように思ったらしい玲奈が、

「それ、勘違いじゃないかな」と言った。

「私もそう思う」

「そんなことないと思うんだけどな」と夏帆は首を傾げて言った。「恋愛って割とそういうところあるじゃん。一目惚れとかさ。ジンジャーエールって聞いて、これだ、って思ったからたぶんそういうことなんだと思う」

 教師がホイッスルを吹き、試合の終了を告げた。二つのチームの生徒が中央に集まって、礼をする。夏帆たちは立ち上がった。

「夏帆がそんなふうに直感を信じるなんて思ってなかったよ」と澄子は言った。

「私らしくない?」

「そういうわけじゃないけど。あんまそういうところ見たことなかったから」

 なるほどね、と夏帆は頷いた。

 澄子は、まだ恋をしていない夏帆が恋をしたら大いに燃える、ということを確認できた気分になっていた。

 試合が始まる。

 試合中、澄子にできることは少なかった。ドリブルもシュートも下手だ。ボールを追いかけることと、もしボールが手元に来たらチームの中で一番上手な玲奈にパスすることの二つしかできない。玲奈にボールを渡せば、玲奈はゴール前まで突き進んで六回に一回くらいはシュートを決めた。

 試合は終始夏帆のいるチームが優勢だった。

 夏帆もバスケットボールの腕前は澄子と似たようなものだったが、澄子よりかは機敏に動くことができていた。

 それに夏帆のチームにはバスケットボール部に所属している女子がいた。彼女にボールを渡せば玲奈よりも高い確率でシュートを決めた。彼女が相手からボールを奪って攻守が入れ替わる場面も多々あった。

 夏帆がそのバスケットボール部の女子にボールを渡した。澄子はぶつかるつもりで前に立ちはだかったが、横を通り抜けられた。

 どうしてドリブルをしながら曲がれるのだろう、と澄子は不思議に思う。澄子の場合、ドリブルをしていると真っ直ぐにしか進めない。相手の横を通り抜けられるほど速く進むこともできない。

 バスケットボール部の女子はそのままゴール前まで進み、シュートを決めた。ボールはバックボードに当たって跳ね返ると、リングの縁には当たらずゴールに入った。

 流石はバスケ部さん、とその様を見ていた澄子は思った。

 彼女の名前を澄子は覚えていなかった。バスケットボールを授業でやるようになって彼女は目立つようなり、顔とバスケットボール部に所属していることは自然と覚えられたので、澄子は彼女のことを親しみを込めてバスケ部やバスケ部さんと心の中で呼んでいた。

 澄子と玲奈のチームはパスを回しながら前進していったが、ゴール前まで来た玲奈へのパスをバスケ部に横取りされてしまう。バスケ部はボールを勢いよく床に叩き付けてドリブルをして、澄子に迫ってきた。

 ボールが叩き付けられる音を真似て、澄子はダンダンダンと呟いた。

 その力強い音を体内に流すことができれば、俊敏な動きでボールを奪うこともできるような気がした。

 ボールが床に着いてダンという音を出した瞬間に駆け出すと、足に上手く力が入った。全速力で走れていることが靴から伝わってくる。

 これだけ速く走れたことは今までなかったように澄子は感じた。澄子はボールを目かけて手を伸ばした。しかしバスケ部はボールを左手の方から右手の方へと避難させたため、澄子の手は空振った。バスケ部は通り過ぎる。

 澄子は急速に速度を落とし、そして止まった。振り返るだけで、もう追いかける気は起こらなかった。

 澄子は再びダンダンダンと呟いてみる。いくら繰り返してみても力は湧いてこなかった。使い切りだったか、と澄子は呟いた。試合には負けた。

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