6 水の中にいるみたい
今日も塾には行かない日だったので夏帆は澄子たちと共に下校した。
「今日は澄子、どうするの」
そのように聞いた夏帆は、大樹の部屋で寝るつもりなのだろうと思っていて、そしてそれを止める気がなかった。
「今日はお泊りかな」
「そっか」と夏帆は言った。いつものように帰りなさいと言わないようにしてみると、他に言うことが見つからなかった。
散々うるさく言ってきたために、今になって祝福するような言葉も言い辛い。
そういうことを気にしなくていいのなら、いっぱい楽しみなよ、なんて含みのある言い方をして笑い合えそうなのに、と夏帆は思った。
マンションに着くと澄子は、
「出かけてていないといいんだけどな」と言った。リュックサックを取るために澄子は一度五○五号室に帰らなくてはならなかった。
「じゃあまた明日ね」と夏帆は言い、五○六号室に入る。
玄関からでも、大樹の母と澄子の母が来ていてリビングで談笑しているのが聞こえてきた。よかったな、と心の中で澄子に言う。
「あら、おかえり」と夏帆の母の奈緒美が言うと、二人も続けておかえりと夏帆に言った。
「うん、ただいま」
間取りは五○四号室や五○五号室とほとんど変わらない。リビングとダイニングを分ける戸がそのままになっているところは五○五号室と同じだ。
リビングにはテーブルと椅子が置かれている。椅子は四脚ある。テレビもあり、ここをダイニングとして使っていた。
本来ダイニングとして使う所には棚が多数置かれている。本棚もあればガラス戸の棚もあり、棚の背も高い物低い物と様々だ。本棚には百科事典やハードカバーの本などが収められていて、ガラス戸の棚の中には壺や皿といった陶磁器が飾られている。そしてそのガラス戸の棚の上に花瓶があり、花が挿してあった。つまりここのダイニングは物を飾るための空間として使われているのだった。
夏帆はキッチンの冷蔵庫に入れてあったオレンジジュースをコップに注いで飲んだ。
野菜ジュースのことを忘れていたと今朝言ったのは嘘だ。
飲んでジュースの味を知れば、澄子から見た大樹のことがわかってしまうような気がするのだった。つまりそれは、澄子が見ている大樹の姿だけではなく、大樹に恋する澄子のことまでわかってしまうということだった。
それで野菜ジュースを飲むというだけのことに、澄子と大樹の情事を覗こうという勇気が必要となっていた。
「洋子さん、今日は澄子帰らないかもしれない」と澄子の母に言った。「ごめんなさい。私の力不足で」
「そんなことないよ。いつも説得してくれてありがとうね、夏帆ちゃん。昨日帰ってきたのはきっと夏帆ちゃんのおかげでしょう?」
「私が説得したわけじゃないよ。流石に澄子もずっと帰らないのはよくないって思ったんじゃないの」
「そんなことないでしょ。たまたま帰ろうって気になったんじゃないの」
洋子を悪人と言ってしまったことを思い出した夏帆は、自分がそのように説得したことをなかったことにしたくて、そういうふうに言った。
洋子は、そうかなあ、と首を傾げた。
「やっぱ夏帆ちゃんのおかげじゃないのかな。本当にありがとうね」と洋子は頭を下げた。
「洋子ったらね、澄子ちゃんがもう一生帰ってこないんじゃないかって心配してたんだよ」と奈緒美は、そう夏帆に教えた。
「ほら、洋子って何年か前に一週間帰ってこなかったことあったでしょう。ああいうことあったし、一生帰ってこなくてもおかしくないって言って落ち込んでたの」
「うちはずっと澄子ちゃんにいてもらってもいいんだけどねえ」
大樹の母の明恵がふざけて言うと、やめてよ、と洋子は真に受けたような声を出した。そして溜め息をつくと物憂げに、
「自分がする時は平気なのに、娘にされると物凄く不安になるのね。勉強になった」と言った。
ドラマに出てくる大人みたいな語調だと夏帆は感じたが、洋子はそれを意識して声を作ったわけではないということはわかっていた。心の底から感じたことを素直に言ったらこうなる人なのだ。
「もうしちゃ駄目だからね」
奈緒美が言うと、わかってる、と洋子は言った。
「あれ以来してないし、するつもりもない。まあ、しちゃうかもしれないけど。でも年を取ったらしたくでもできなくなるでしょ」と洋子は自嘲するように言った。
「それもそうだね」と奈津美は言い、奈津美と明恵は声を上げて笑った。
「じゃあ私も帰るかな」
そう言って洋子は立ち上がるとベランダに出ようとガラス戸を開けた。
洋子の背は高い。澄子も女子にしては背が高い方だが、大樹よりは低かった。洋子はモデルのように細く、身長は百七十五センチくらいあるらしい。
ジーンズを履いた長い足は呼び止めなければすぐに出ていってしまいそうに見えて、夏帆は慌てて、
「ちょっと洋子さん、ベランダから帰るつもり?」と言った。
洋子は振り返って首を傾げた。何かまずいの、と言いたそうだった。
それぞれの部屋のベランダは行き来できないように仕切りがあるので、普通はそこから帰ることはできない。洋子は飛んで帰るつもりなのだった。
「たまには普通に玄関から入ったらどうなの」
「そんなの、面倒くさい」
ベランダに脱いであったサンダルを履き、洋子は月面でジャンプしたようにふわっと飛んでベランダの手すりを越え、五○五号室に戻っていった。
「素早い」
夏帆の言い方は蚊を逃した時の言い方に似ていた。奈津美と明恵はくすくす笑った。
「そりゃあ素早いよ。洋子は若々しいから。顔も性格も。気を抜いちゃうと夏帆の方が先にふけちゃうかもね」と奈津美は言った。
「本当だよ」
母の冗談を、半分は冗談ではなく事実であるように感じて、夏帆は言った。
大人になっても空を飛ぶ力を失っていない人は子供っぽいのだと俗に言われている。洋子の場合はこういう身の軽さが若々しく見せている。しかし子供という感じはしないと夏帆は思う。若々しい大人だ。
「いつまで飛べるんだろう、洋子さん」と夏帆が言うと、
「きっといつまでも飛んでるんじゃないのかな。百歳過ぎても飛び回ってるような、そんな感じよ、きっと」と明恵は言った。
「確かに、そんな生き方がぴったりな人だよね」
「もしかして、歳を取ったら歩くより飛ぶ方がよっぽど楽だって言って、動く時はいつも飛ぶようになるんじゃないかな。あれって体は疲れないでしょう」
羨ましい、と言って明恵は笑う。
夏帆は老人がぷかぷかと浮いている様を想像して、悲しい気持ちになった。さっきベランダから飛び去った時の洋子の姿は格好よかったから、あの格好よさが損なわれるところは思い浮かべたくなかった。
その日の夜に、期末試験の対策のために数学の公式のおさらいをしていた夏帆は問題集に取りかかる前に、野菜ジュースを冷蔵庫から取り出して飲んでみた。
洋子と話せたために夏帆は野菜ジュースを飲む気になれていだ。今は澄子と大樹の関係ではなく、澄子と洋子の関係のことが頭の中を占めている。
洋子に寂しい思いをしてほしくなかったので、大樹の部屋に泊まり過ぎることがないよう言ってきたが、それを今日やめた。小さな挫折だった。
そもそも澄子が洋子のことを許す気になるかどうかが問題の中心であり、自分はそこに入っていくことができなかった。そのように夏帆は振り返り、悲しい気分になった。
野菜ジュースは澄子の言った通り、甘くて飲みやすい。林檎の甘さのする味だった。
幼い頃に様々なジュースを親に与えられて、ジュースと名の付く飲み物はおいしい飲み物だ、と夏帆は子供なりの理解をしていたが、その頃から抱いているジュースという飲み物のイメージ通りにこの野菜ジュースはおいしく感じられた。だけどこれよりオレンジジュースの方が好きだ、と夏帆は思った。
澄子は、大樹を飲み物にたとえるならこれだと言っているくらいなのだから、この味を気に入っているのだろう。
自分は大樹のような人ではなくオレンジジュースのような人を好きになるのだろうか。しかしオレンジジュースみたいな人と言っても、どういう人なのか想像できそうにない。
そこまで考えたところで、ストローから野菜ジュースが上ってこなくなった。
夏帆はストローを摘んだ。小学生の給食に出たパックの牛乳を飲む時、いつもストローの端をパックの隅にくっ付け、パックを傾けて最後の一滴まで飲もうとしていた。その頃と同じようにストローの位置を調整している途中で、どうでもよくなってやめた。
パックをキッチンに持っていって、中に残ったジュースが漏れないように軽く畳むと三角コーナーに捨てた。
キッチンに向かう間に思い付いたことがあった。それは、澄子はまだ飛ぶことができるのではないか、ということだった。
その思い付きのせいで勉強に集中できそうになかったので夏帆は部屋には戻らず、ベランダに出た。
空を見てみると月が出ていた。
当然のことながら星の声など聞こえてはこない。飛べた頃のことを思い出しながら飛ぼうとするが、体は全く浮き上がらない。飛べないのも当然のことだった。
飛ぶ力を失った瞬間、夏帆は高い所を飛んでいた。飛べなくなったから落ちて、夏帆は脚の骨を折った。それ以来いくら試してみても飛べたことはない。
夏帆が落ちたのは五年生の時だ。夏帆の学年では、夏帆が落ちたことをきっかけにして大勢の生徒が飛べなくなった。
夏帆が入院している間に夏帆のクラスメイトは、大樹と澄子も含めて大半飛べなくなり、怪我が治った頃にはクラスメイトのみならず同学年の生徒ほぼ全員が飛べなくなっていたのだった。
そして数日後には五年生の全員が飛べなくなっていた。まるでブームが去ってしまったかのようだった。
肝心なのは、澄子が飛べなくなった瞬間を夏帆は見ていないということだった。入院していた夏帆は見舞いに来た二人から口頭で飛べなくなったと伝えられただけだった。
もしかしたら澄子は飛べるのに飛べなくなったと言ったのかもしれない。夏帆は、どうして今までそんなことを考えなかったのだろう、と自分の単純さに驚いた。
そして、よくよく考えてみれば大樹の方が飛べるということだってあり得るのだ、ということにも気が付いた。
しかし飛べるとするなら大樹よりも澄子の方だろうと思った。澄子がまだ飛べるとしても、全く驚くようなことではないのだ。澄子は星の声を聞くことができるし、楽しそうに毎日を過ごしている。彼女は見事なまでに洋子の娘らしい生き方をしている。
屋上に行って二人に聞くべきだと夏帆は思った。今すぐ行く気にはなれなかったが、いつか行こうと決めてしまえばいくらか気持ちが落ち着いた。
夏帆は夜の屋上で澄子に質問をする場面を想像してみた。
「ねえ、本当は飛べるんでしょう?」と夏帆は柔らかくゆっくりと、ずっと前からそのことを知っていたような感じで言う。すると夜空を見ていた澄子は夏帆の方を向いて、
「そうだよ」と言い頷く。
澄子は立ち上がって、そっと浮かび上がる。
澄子の靴が夏帆の頭より高い位置に来るまで浮かぶと、澄子は体を反らし、大きな輪を描くように一周回る。
「澄子だけ水の中にいるみたい」
飛んでいる人の動きを水中での動きにたとえるのはよくあることだった。
そんな夏帆のありきたりな台詞に澄子は律儀に反応して、仰向けになって腹から上昇していき、それからばた足をしながら潜る動作で降りてくる。
「本当に水の中にいるみたいにしなくていいって」
夏帆はそう言ったが澄子は聞かずに、クロールをしながら前進し始める。
ある程度進むと、ターンをして反対方向へ泳いでいく。
ターンをしたところで夏帆は大笑いした。澄子も大樹も声を上げて笑い出す。澄子は泳ぎ続ける。
「もういいってば」と夏帆は言う。
そこまで想像すると夏帆は満足して、勉強を再開するため自分の部屋に戻った。
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