9 少年の夕焼け空
期末試験は水曜日に終わった。塾に行かない日であったため、テストが終わったからもう夏休みだ、という周りのムードに夏帆も浸っていた。
五○四号室で大樹と澄子と一緒に、大樹の母の明恵が選んだ映画を見ることにしていた。
「それで、何の映画見ることになったの?」
メールで誘われた時にはまだ見る映画が決まっていなかったので夏帆は聞いた。
「わかんない。昨日DVD借りてきてたけど、秘密だってさ」
そう大樹が答えると澄子が、
「たぶんアクションとかホラーとかではないよ」と付け加えた。
「どういうこと?」
「母さん、そういうのあまり好きじゃないみたいだから選ばないんじゃなかってこと」
「ああ、なるほど」
三人で五○四号室に入った。昼食も一緒にすることに決めていた。
「それで、何の映画を見るの?」と夏帆が明恵に聞いたが明恵は唇に人差し指を当てて、まだ秘密、と言った。
明恵の作った焼うどんを食べ、麦茶を飲むと、三人はソファに並んで座った。明恵はその横に座布団に置き、借りてきたDVDを取り出した。
「じゃじゃん。こんなの借りてきてみました」
ディスクの中央の穴に人差し指を通し、親指で支えてディスクを三人に見せる。ディスクにはタイトルと主役の姿が印刷されていた。
澄子の言った通りに、アクションでもホラーでもなさそうだった。黄色い背景が夏帆にコメディなのではないかと思わせた。
その映画はそれなりにヒットした作品であり、それもつい数年前に発表されたばかりのものであったから三人のいずれかが知っていてもおかしくはなかったのだが、知っている者はいなかった。
「あれ、知らない?」と明恵は意外そうに言った。
「はい」と夏帆は言い、大樹と澄子は頷いた。
「そっか。みんな映画に興味ないものね」
「でも日本の映画なんて珍しいですね」と澄子は言う。
「スラングとか気にする必要ないし、こっちの方がわかりやすくて面白いと思ったから」
「明恵さん、海外の映画見ることが多いの?」
「そんなこだわりがあるわけじゃないんだけどね。なんかびびっと来るのが多くてさ」
明恵はブルーレイレコーダーのディスクトレイにDVDを乗せた。そしてディスクトレイを閉めると、小走りで座布団の所まで行って座る。
夏帆が感じた通り映画はコメディだった。
一番笑っていたのは明恵で、三人はその明恵の大笑いに引きずり込まれるように笑った。そのせいで、夏帆は些細なギャグでも笑うようになっていた。
「ああ、面白かった。こんなに笑うと思ってなかったからちょっと苦しい」
映画が終わってから初めにそう感想を言ったのは明恵だった。明恵の感想に三人は頷いた。
確かに面白かったけれど、こんなに笑うことになったのは明恵さんが笑い過ぎるからだ、と夏帆は思った。明恵がいなければ三人で静かに笑う程度だったかもしれない。
明恵は、よいしょ、と口に出しながら立ち上がり、ディスクをブルーレイレコーダーから取り出す。
夏帆はしばらくソファにもたれて余韻を味わっていた。そして落ち着いたと思えてきたところで夏帆も立ち上がった。
「じゃあ私、そろそろ帰るね」
「付き合ってくれてありがとね」と明恵は言った。こちらこそありがとうございます、と夏帆は頭を下げた。
「澄子は、泊まる?」
「うん」と澄子は頷く。
夏帆は五○六号室に戻った。母に映画の感想を聞かれたので、面白いから見た方がいいよ、と返事をした。
そして自分の部屋で新たに玲奈から借りた雑誌を読みながら十七時になるのを待った。
十七時になると、夏帆は屋上へ行った。
空を見てみると、まだ曇っているが昨日より青い部分は多かった。日が落ちるまでにはまだ時間があるが、もう少年は屋上にいると思っていた。
期待通りに少年は飛んでいた。何メートルも上の方で、あぐらをかいている。
「また夕日を待ってるの?」と夏帆は呼びかけた。
「そうだよ」
少年は高い所に浮かんだまま言った。
まだコメディ映画から受けた熱が冷めきっていなかった夏帆は、これが何か楽しいことが起こる前振りのシーンなのだという気分でいた。コメディのようなおかしなことではなく、青春らしい気持ちのいいことが起こるつもりだった。
「あのさ、いいニュースあるよ」
夏帆はなるべく大声を出すように意識して言った。
「どんな?」
「飛ぶ力捨てられるの、本当だってさ」
少年は下にいる夏帆の顔をじっと見た。
「本人に聞いた」と夏帆は大声で説明した。「それで、空を飛ぶ力、捨てたいならもらってあげるってさ。夕日見たら、行こうよ」
「マジで?」
夏帆は、マジだよ、と答えた。少年は何も返してこなかった。
「日が沈むのって、どれくらいだっけ」と夏帆は呼びかけた。
「まだ全然沈まないよ。ほら、まだあんな所にある」
少年は答えながら太陽を指した。夏帆もそちらを見てみた。確かに太陽は高い所にあった。
「二時間くらいしないと沈まないよ」と少年は言った。
「そんなに後なの」
二時間も少年と待っていられそうにはなかった。特に話したいことがあるわけではない。
「じゃあ、ご飯食べたらまた来るよ」と夏帆は言って、引き返した。
言った通りに、夏帆は夕飯を済ました後でまた屋上に行き、そしてベンチに腰かけた。
少年はまだ飛んでいて、日はまだ落ちていなかった。
夕日も夕焼けも見ることはできた。西の空にはほとんど雲がなかった。灰色っぽい雲の端が赤くなった。空よりも雲の端の赤の方が、夏帆が抱いていた夕焼けのイメージの濃い赤色に近かった。
夏帆は雲の赤く染まっている部分だけをよく見るようにした。そこ以外の赤を綺麗とは感じなかった。
思い出の景色にするにはつまらない夕焼けなのではないかと夏帆は思った。写真で見る夕焼けはもっと綺麗な赤が空を染めていたはずだ。
太陽が見えなくなる。しばらくすると少年が降りてくる。
「ふう」と少年は息を吐いた。
「思い出になりそう?」と夏帆は聞いた。
「たぶん一生忘れないよ」
明日になったら忘れていそうなくらい興味のなさそうな声で少年は言った。そんな声だったので夏帆は、
「本当に? 正直なところ、そんなに綺麗な夕焼けには見えなかったけど」と聞いた。
「うん。俺も綺麗だとは思わない。もっと綺麗な夕焼け、見たことあるし。でも、いつか不意にこの夕焼けを思い出すんだ」
夏帆は、小学六年生のくせに不意になんて言うのか、と思ったが今回は格好付けている感じがなくとても自然で、本当にあの景色を思い出すのだろうと夏帆に思わせた。
「それじゃあ行こうか」と夏帆は言った。
「どこに住んでるか知ってるの?」
少年の声に好奇心が戻った。夏帆は得意げに笑う。
「私の家の隣」
「すっげえ」
そう言いながら少年は顔を細長くするように口を開き、変な顔をしてみせた。
「きもいきもい」と夏帆は笑った。
この前話した子を連れてきたよ、と告げて五○五号室に入る。
「イケメンね」
少年の顔を見るなり洋子はそう言った。
「それも、将来もっといい顔になりそうな」と洋子は夏帆に向かって言った。
「だってさ。よかったね」と夏帆は少年に言った。
「おうよ」
少年はガッツポーズをしてみせた。
夏帆と少年はリビングに案内された。洋子はやはりベッドに座った。
合成皮革の白い椅子に座っていた宗一が、リビングに入ってきた夏帆と少年を驚いた顔で見ていたが、
「椅子足りないね」と言って立ち上がると隣の和室に入って、四本脚の椅子を持ってきた。「それじゃあ俺はこっちいるから」
宗一は和室に入り、ふすまを閉めた。
夏帆は白い椅子の蓋を開けてダンベルを取り除き、椅子をベッドから離す。二つの椅子を並べ、夏帆が白い椅子に、少年は四本脚の椅子に座った。
「捨てたらもう飛べなくなっちゃうけど、いいの?」と洋子は聞いた。
「本当はもっと早く捨てるべきだったんです。クラスで一番に飛べなくなった方が格好いいでしょ? でも一番は別のやつに取られちゃったから、せめて二番にならなきゃ」
「まだ一人しか飛べなくなってないんだ」と夏帆は驚いた。
「飛べなくなった友達の影響で飛べなくなるって子は多いみたいだからね」
洋子はそう言った。解説のためにワイドショーに呼ばれた専門家みたいだと夏帆は思った。
「詳しいですね」
「飛べるから、そういう話を聞く羽目になるの。近所の人とか、力を捨てた子とかから」
「なんか、格好いいっすね」と少年は言った。
「捨てたくなくなった?」
洋子は微笑んだ。それはないです、と少年は首を横に振った。
「ただそういう生き方もありだなって思っただけで」
「そう。残念」と残念ではなさそうに洋子は言った。
「それじゃあ捨てましょうか」
あの、と言って夏帆は手を挙げた。
「どうしたの?」
「捨てた力をもらうのって、私にできたりしない?」
さあ、と言って洋子は首を傾げた。難しい顔をして考えていたが明るい表情に変化し、
「やってみたらわかることよね」と楽しそうに言った。「私がいつもやってるやり方を教えてあげるから、それをやってみましょう」
夏帆は頷いた。
「まず裸になって抱き合うの」
「嘘でしょ?」
「できればキスとかした方がいいかな。体に接触している方が力を移動させるイメージを持ちやすいから」
「嘘なんでしょう?」と夏帆が怒ると、洋子は笑った。
「うん、冗談。でも触れていた方がいいのは本当だから、手を繋ぐくらいはしてね」
夏帆は隣にいる少年の左手を握った。
「繋いだ」と夏帆は洋子に報告した。
「どきどきする」
少年がそう言って、洋子を微笑ませた。
「そりゃあ裸とかキスとか言った後だもんねえ。夏帆ちゃんも緊張してる?」と洋子は聞いた。
「してない。そういう冗談やめて」
本当は手を繋いだ時から緊張していた。
小学生と手を繋いだだけでどきどきしているなんて、どれだけうぶなんだろうと自分を責めたくなった。小学生とは言っても六年生で、中学生と一歳しか違わないから緊張しても仕方ないんだ、と自分に言い訳をしなければならないくらいだった。
それに少年に裸を想像されているのだと思うと余計に緊張した。冗談を言う洋子に怒ることでやっといくらか楽な気持ちになれていた。
「ごめんごめん」と洋子は謝る。「そうしたら後は簡単だよ。飛ぶのと同じ。その繋いだ手から力を送るイメージで、力を渡そうと思ってみて」
「はい」
少年は目を瞑った。洋子と夏帆は少年の顔を見ていた。待っても、手から何か送られてくるような感じはしない。
「いつまでやればいいんでしょう?」と目を瞑ったまま少年は洋子に聞いた。
「送れたと思ったら。自分の中にある力を全部捨てられたと思ったら」
「じゃあ、終わりました」
少年は目を開けた。夏帆は手を繋いだまま、
「これで飛べるようになったの?」と聞く。
「試してみればいいでしょ。捨てられたか、もらえたか」と洋子は言った。
夏帆は、飛ぼう、と思った。小学生だった頃の自分と澄子と大樹がランドセルを背負って飛んでいる光景を思い浮かべた。
体が浮いて、尻が椅子からそっと離れた。
浮き始めて間もない、まだ数センチしか浮いていない時の恥ずかしさを夏帆は久々に感じた。周りから見たら、ほんの少ししか浮いていなくておかしく見えるだろう、と思って恥ずかしくなるのだ。
それを避けるために、ジャンプして飛ぶのが普通であったことを思い出す。
「飛べた」と言って夏帆は握っていた手を離した。
「そっちはどう?」
洋子が少年に聞くと、飛べないみたい、と少年は答えた。
「上手くいくもんなんだねえ」と洋子は感心して言った。
夏帆は一度床に足を着け、軽く跳んで浮かんだ。そして体育座りをするように膝を折り畳んで床から離れる。
少し高度を上げると、うつ伏せになった。座っている洋子と少年の頭上を漂いながら、
「気持ちいい」と言った。
空が飛べるようになったことがストレスを排出するための穴となった。いつもなら不快に思うことを、あっという間に忘れることができる。そして心の中に心地のいい風が吹き続けているような気分でいられる。
具体的には、家でする勉強が苦ではなくなった。疲れたら部屋の中を漂ってみる。勉強中にも飛びながら参考書などを読んでみる。夏帆は、なんて楽しいんだろう、と思ってばかりいた。
飛べるようになったことは誰にも話していない。洋子には、最高のタイミングで明かしたいから澄子と大樹に教えてしまわないよう言っておいてある。
夕飯を済ませ、夕日が見える頃になると、屋上に行きたくなった。またあの少年に会って話をしたかった。
玄関を出て、エレベーターに乗ったところで、もう飛べなくなったのだから夕日を見にはこないかもしれないということに気が付いた。
エレベーターはもう動き始めていた。最上階まで行くと、夏帆は階段を上った。
少年はいた。ベンチに腰かけて、ギターを持っているようなポーズをしていた。白い帽子を被って、首にタオルを巻き、そして例のメタルバンドのロゴのTシャツを着ていた。
目が合って、夏帆は手を振った。少年は手を振り返しながら、左手でイヤホンを外した。
「やあ」と夏帆は言った。そして少年の隣に腰かけた。
「何してたの?」
「イメージトレーニング」と少年は答えた。
「中学生になったらバンドを組むんだ。文化祭とかで演奏して、高校に入っても同じことして。それでゆくゆくはミュージシャンになるっていうのが俺の夢だから」
「いいね」と夏帆は言った。ミュージシャンになるという夢よりも、中学校や高校でバンドを組んで演奏するというのが楽しそうだと思った。
「ギター買ってもらうまではこうやってイメージトレーニングするしかないんだけどさ」
そう言って少年はギターを弾く振りをしてみせた。子供の遊びにしては弾き方がしっかりしているように見えた。目的の音の出る場所を目指して手を動かしているようだった。
「ギター弾いたことあるの? でたらめにやってる動きじゃないよね、それ」
「ないけどね、凄い特訓をしてるんだ」と少年は明るく笑みを浮かべて言った。
「へえ。どんな?」
「まずね、中古のギター売ってる店に行ったんだ。どのくらいの値段で買えるのかって調査のためでもあるけど、大事なのは本物のギターを見ること。裁縫箱の中に入ってたメジャーを持っていってね、こっそり測るんだよ、ギターの大きさを。こっそりっていうのは見られたら恥ずかしいからそうしただけなんだけど、とにかく色んな所の長さを測りまくるわけ。それをメモして家に帰って、それから家にある段ボールをかき集めて、本物と同じ大きさのギターを作ったんだ。音は出ないけど、そいつを使えば練習はできるわけ。ネットでギターの弾き方調べながらね」
「それは本当に凄いね」と夏帆は少年を褒めた。それだけのことをやってしまえる少年の活力に驚いていた。
少年はとても嬉しそうな顔をして、
「そうだ。じゃあ一曲演奏してあげるよ」と言ってイヤホンの左耳に着ける方を差し出した。
「ヘヴィメタルって聞いたことないんだけど、大丈夫かな。激しいんでしょ?」
受け取りながら夏帆は言った。
「大丈夫だよ。メタルじゃない、大人しめのやつだよ。激しいのはまだ弾けないからね。でもいい曲だよ」
少年はイヤホンが繋がっているスマートフォンを操作した。割合スローテンポのロックが流れてきた。もの悲しげな歌だったが、時折力強いフレーズが登場する曲だった。英語で歌っていることだけわかって、歌詞は聞き取ることができなかった。
少年はギターを弾く振りをしながらうろ覚えの歌詞を歌った。
おそらく悲しいことがあったけれど希望を持って生きようとしている歌なのだろう、と夏帆は思った。そしてそのイメージした通りの気分になりながら、少年の演奏を見ていた。
最後のサビを他の部分より正確な発音ではっきりと歌った。曲が終わると少年は、
「どうだった?」と夏帆に聞いた。
「よかったよ。いい曲だね」
夏帆は微笑んで、小さな音を立てて拍手をした。
「この曲は、俺の作りたい歌に雰囲気が似てるんだ」
「へえ。どんな歌?」
「俺の友達の失恋の歌。そいつ女なんだけどさ、五年生の時、友達の兄貴と付き合うことになったんだ。その兄貴は中一だったんだけど、結局その男は同じ中学の女のことが好きになって、その女と付き合うことになったんだって言ってそいつのことを振りやがった。そいつは凄く泣いたよ。もう別の女のことが好きになってたくせに私とセックスしてたんだってね。しかもそれが気持ちよかったんだってさ。泣けるよな」
少年はとても悲しそうに言い、本当に泣くかもしれないと夏帆に思わせた。
夏帆は何も言うことができなかった。そのような話を、その子は他人に聞かれたくはないのだろうか。そのことが気になってしまって、心の動く余裕がなかった。
「そんな話、私にしちゃっていいの?」
「いや、よくない」と少年は言った。「他の人に言い触らしたりしないでよ」
「しないけど、そもそも君が言い触らしちゃ駄目じゃん」
少年は、だよなあ、と言って頭を掻いたが、あまり反省している様子ではなかった。
「どうしてだろうな。今まで誰にも話さなかったんだけど、夏帆になら話してもいいような気がしたんだ」
名前を呼ばれたことに夏帆はどきりとした。
そういえば洋子さんの部屋に行った時に洋子さんが自分の事を夏帆ちゃんと呼んでいたな、と夏帆は思った。それで名前を知ったのだ。
それにしても年上相手に呼び捨てなのか、と夏帆は少し腹を立てた。しかし怒るほどのことには感じなかった。子供の頃は自分も少なからず無礼であった気がした。そう思うと今度は許してやろうという気になった。
「そういえば私、君の名前知らない」
「ハヤト。集合の集に似ているやつと、平仮名のたを逆さまにしたみたいなやつで、隼斗」と少年は言った。
「何号室に住んでるの?」
「七○八」
わかった、と夏帆は頷いた。隼斗君とは呼ばないで、こっちも呼び捨てにしてやるぞ、と決意する。
隼斗は話を戻した。
「それでさ、とにかく俺はそいつの歌を作りたいんだ。小学五年生でもそういうことがあるんだぞって歌。子供だってそういう目に遭いながら生きてるんだぞってね。そして俺はそいつのことを愛おしく思ってるって歌なんだ」
「その子のこと好きなんだ?」
からかうつもりで夏帆は言った。そっちの意味じゃないよ、と冷静に隼斗は言った。
「そいつは確かに可愛いけれど、俺はそいつと付き合う気はない。でもそいつにいい彼氏が出来て、その彼氏と楽しそうにしてたら、俺は結構幸せな気持ちになる。そういう愛おしいなんだ」
「どうだか。可愛いんでしょう?」
「でもそいつは玉子が好きなんだよ」と隼斗は言った。
「玉子?」
「俺、目玉焼きとか卵焼きとか、オムレツとか、そういうの苦手なんだよ。だけどそいつはそういうの大好きでさ。だから親友にはなれるけど恋人にはなれない」
「そうかなあ。玉子の好き嫌いってだけじゃない」
「いや、この差は致命的だよ」
好きな食べ物が一緒で、毎日仲良くその食べ物を食べるような夫婦生活でも想像しているのだろうか、と夏帆は思った。
「じゃあ玉子を食べない人としか付き合いたくないんだ? たとえば私は好きでも嫌いでもないけど、出てくれば食べるしおいしいと思うよ」
「それならオッケー」と隼斗は言った。
「ええ? いいの?」
「別に好きじゃなければいいんだ。好きなやつは玉子を好んで食いまくるだろ? そういう人生と俺の人生は一つに混ざり合わないんだよ」
夏帆は、理解できない、というふうに首を傾げて、
「混ざり合うこともあると思うんだけど」と言った。
「無理なものは無理、なんだよ」
隼斗は説くようにそう言った。夏帆は、きっと後々やっぱり好きだったということになるんじゃないのかな、と思ったが言わなかった。そう指摘しても隼斗は全てを知っているような顔をして、そんなことは起こり得ないよ、などと言いそうだった。
「夏帆は飛べるようになって、楽しいの?」と隼斗は聞いた。
「うん、結構楽しいよ。飛びながら勉強したりさ」
「夏帆もギター弾けばいいのに。そっちの方が絶対楽しいよ」
隼斗はそう言って、力強く弦を弾く仕草をした。
「やらないよ」と夏帆は言った。「才能あったらそういうの面白そうだけどね。私音痴ってよく言われるし、リコーダーもまともに吹けなかったし」
「それは確かに才能ないかもなあ」
「でしょう? 音楽に興味ないしね」
残念だ、と隼斗は言ってギターを弾く振りをまたやり始める。
「大人になったら何になるのさ」
そんな質問をされるほど大人は遠いものじゃない、と夏帆は思った。しかし小学生にとってはまだずっと遠くのことなのだろう。
「できるだけ労働条件がよくて、お給料もたくさんもらえる所で仕事したいかな」と夏帆は言った。夏帆が抱いている将来の夢は今言った通りのものだった。
隼斗は不満そうに顔をしかめた。
「なんか、現実を見てる感じがするな」
「うん、見てるよ」
「空を飛べても就職に有利になるわけじゃないらしいよ。ドラマで言ってたことだけど」
そりゃそうでしょう、と夏帆は頷いた。
「別にそのために飛ぶ力をもらったわけじゃないよ」
だろうね、と隼斗は頷いた。
「私は五年生の時に落ちちゃったんだけど、まだ何かをやりたかったような気がずっとしてたんだ。未練ってやつなのかもね。私のせいでみんな飛べなくなっちゃたわけだし」
「気を付けなよ。六年生の力なんだから、いつ消えるかわからないよ。消えても泣くなよ」
「うん」
泣くかよ、と言って強がりたいと夏帆は思ったが、もう頷いてしまっていた。
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