3 野菜ジュース
朝、起きるべき時刻になると二人のスマートフォンがそれぞれにアラームを鳴らして二人を起こした。無理してシングルベッドに二人で寝たせいらしく肩が凝っていて、大樹は腕を前後に回し、澄子は首を左右に曲げながら肩を揉む。
アラームが鳴ったのは六時半だった。授業がある日はいつもその時間に鳴るようにしている。二人は寝足りなかったのだがダイニングのテーブルでトーストを食べ、コーヒーを飲む。
制服に着替えて玄関を出ると、小島夏帆が壁にもたれて二人を待っていた。夏帆は細い楕円形のレンズの眼鏡をかけていて、そして長い髪を後ろで一つに束ねていた。
彼女は五○六号室に住んでいる。
五○四号室から五○六号室までの三部屋にそれぞれ住んでいるこの三人は、物心が付く前からこのマンションで共に過ごしてきた。同じ年に子供が生まれたということで両親たちは親しくなり、それで両親たちはよくこの三人を一緒に遊ばせていたのだった。
「また泊まったの」と夏帆は澄子を咎めるように言った。
「うん」
「三日連続じゃん」
「だね」
澄子はにこりと笑った。
「だね、じゃないでしょ」
双方の両親が認めていることとは言っても、澄子と大樹のやっていることは異常だと夏帆は思っている。澄子はそのことを知っていた。頻繁に泊まることも、泊まる日は大抵性行為をしていることも夏帆には話していた。その時に夏帆はいい顔をしなかったのだった。まだ高校生なのに淫らだと彼女は思っているようだった。
「よくないよ、あまり」と夏帆は言った。
「うん」
澄子はそう頷きながら歩き出した。何を言われてもやめる気はなかった。
「俺は毎日泊まってくれてもいいんだけどな」ととぼけた声で大樹は言った。澄子は、うん、と言って頷く。
「駄目に決まってるでしょうが」
そう言って夏帆は軽く跳んで大樹の頭を平手で叩いた。澄子はエレベーターのボタンを押すと、大樹と夏帆に背を向けたまま階数の表示を見ていた。
「バカップルなんだから、もう」
夏帆は諦めたように溜め息をついて言った。その投げやりな言い方で、今日のところはもううるさく言ってこないだろうと判断し、澄子は振り向く。
「うん、バカップル」と笑顔で言う。夏帆は苦笑いした。
歳の同じ三人がこれほど近くで暮らしているということは、粗末にしてはいけない類の偶然なのだと澄子は思っていた。それでも夏帆とは常にくっ付いているような仲ではなくなってきていた。澄子は大樹と付き合っているし、夏帆には新しい友人がいる。
エレベーターのドアが開いた。始めに乗った澄子が一階のボタンを押す。その後に続いて大樹が乗り、最後に乗った夏帆がドアを閉じるボタンを押して、ドアが完全に閉じてエレベーターが動くと、
「たまには帰りなよ。悪人にも情けは必要なんだから」と夏帆は言った。
「確かに、そうかも」
澄子は夏帆の言葉を真面目に受け止めた。帰らないつもりだったのだが、きっと今日は帰ろうと思い直す。そうしなければ自分まで母のような人間になりそうだという不安があった。
「今日は帰ってあげな」と夏帆は言った。
「うん」と澄子は頷いた。
途中でコンビニに入る。澄子だけ弁当を持っていない。小遣いは昼食代を含めた分を親から毎月もらっていた。貯めたところで大した使い道があるわけではなかったが、大抵おにぎり二つかサンドイッチのどちらかで済ませている。今日は玉子サンドを取った。
そして飲み物の売場に行くと、パックの野菜ジュースを取って、
「ほらこれ、昨日言ったやつ」と大樹に見せた。
「ああ、これ」
「おごってあげるよ」
そう言ってもう一つ同じ物を取った。
「え、何の話? 私にはおごってくれないの?」
夏帆が二人の後ろから言う。澄子は昨夜屋上で聞いた声のことを話して、そして夏帆にはおごらない、と言った。
「野菜ジュースかあ」
大樹の顔を見ながら夏帆は言った。そして十秒ほどの間見た後に、
「合ってるかも」と言った。
「やっぱ夏帆もそう思うでしょ」
「うん。たぶん澄子の考えているものとは違うけどね」と夏帆は言ってくすりと笑う。
「え、何それ、どういうこと」
澄子だけでなく、大樹も気になっているような顔で夏帆を見た。しかし夏帆は大樹には聞こえないように耳元で喋って澄子に教えた。
「栄養価の低い野菜ジュースってならわかる。そんな栄養豊富って感じしないから」
「わかる」と澄子は言った。細身だし筋肉も少ない。内面にしたって、知識なり性格なりに豊かなところがあるように思わせたことはないのだ。
「でもね、低いわけじゃないよ。過信は禁物だと思うけど。そういうところも野菜ジュースっぽいって思う」
そう澄子が言うと、夏帆は苦笑した。
「付き合ってるんだから、普通は過信するもんじゃないの」
「そんなことはないよ」と澄子は当然のことのように答える。
学校に着き、澄子と大樹は同じ教室に入る。夏帆だけクラスが違う。それでも一年生の時と比べるとだいぶ距離が縮んだ。隣の教室が夏帆のクラスなのだ。去年度は三人別々のクラスになって、おまけにそれぞれの教室は離れていた。
澄子と大樹が同じクラスになって夏帆まで近くにいるのは、去年いじめがあったせいだというのが三人の見解だった。
去年、二学期に入ってから澄子はよく物を隠されるようになったのである。最初は筆記用具の一つか二つがなくなるくらいだったのが筆箱や教科書を隠されるようになった。澄子には友人が出来ていなかったから、標的にしやすかったのだろう。
いずれ澄子が怪我をするようなことになるのではないかと大樹と夏帆は心配し、休み時間には三人で集まることにしていた。幸い大きな被害が出る前に教師に発覚した。物を隠していた犯人はわからず、教師がホームルームでしつこく注意するだけになってしまったが、それ以来澄子は何の被害も受けなくなった。
そのようなことがあったために教師が配慮してくれた、と三人は考えていた。
大樹たちが教室に入ると、既に国見奈々枝と永山琢也と飯野健太が集まっていた。席に座った飯野がノートに描かれた漫画を読んでいて、国見と永山はノートと飯野の表情を気にかけている。
「どっちの?」と大樹は聞いた。永山が手を挙げた。
このクラスでは、ノートに描いた漫画を回し読みするのがブームになりつつあった。漫画を描くのは国見と永山だ。そして飯野は漫画の内容についてアイデアを出す。今は、クラス内でノートを回す前に、修正するべき所がないか飯野がチェックをしている。
この編集部の真似事のようなことをしているグループに大樹も加わっている。似た題材の小説を教えたり貸したりすることで質の向上を図るのが大樹の役目だ。
永山の漫画はコメディ要素の強いスペースオペラだ。その永山の漫画のチェックをし終えた飯野が、
「公開は少し待とう」と言った。
「書き直しか?」
まるでそう言われることをわかっているかのように永山は言うのだが、そうじゃない、と飯野は返した。
「前回のを公開してからまだ一週間経ってない。おまけに国見のやつを公開したのが昨日で、まだ読んでないやつもいる。だから明日か明後日まで温めておく。そうやって時間を稼いだ分、力を入れて次を描いておく。丁度ストーリー的にも大事な所だろ?」
「確かにそうだな。めっちゃ格好いいシーンがある」
永山は頭の内にあるシーンを想像してにやりと笑った。
「なら私の方を先に公開するってのはどう? こっちは通常運転だし、ぶっちゃけもう半分くらい描けてるし」とラブコメディを描いている国見が提案すると、飯野は大きく頷いた。
「できればそうしたい」
話がまとまったところで大樹は鞄から小説を一冊国見に差し出した。
「これ、頼まれてたやつ」
「ありがとう」
「ラブコメとはちょっと違うけど、女の子に感情移入したら感動するタイプだから、参考になると思う」
小説が大樹から国見の手に渡ると、今度は飯野から大樹の手にノートが乗せられた。読んでみろ、ということだ。大樹が読み、そして大樹から渡されて澄子も読む。
読み終えると大樹も澄子も感想を聞かれる。澄子は、面白かったとか、この前の方が面白かったとかいうことくらいしか感想を言わない。しかし素人の意見だからなのか、澄子が面白かったと言うと、国見も永山も安堵したような表情になった。
「面白いよ」とノートを閉じて澄子は言った。
「次はもっと面白くなるから、期待しててよ」
永山が得意げに言った。澄子はノートを返しながら、期待してる、と言った。
「じゃあ私寝るね」
そう言って澄子は自分の席に座り、机に伏せた顔を腕で覆うようにした。お前は寝ないのか、と大樹が茶化されるのが聞こえる。
大樹の友達が、自分の友達にもなりつつあると澄子は感じていた。喜ばしいことのように思えるけれども、夏帆との距離が余計に開いてしまいそうだとも思う。悩ましいことなので、寝て彼らとの急接近を避ける。
夏帆が塾に行かない日だったので大樹と澄子は夏帆と一緒に下校する。
夏帆のクラスのホームルームがなかなか終わらないので、掃除をするために片隅に寄せられた机の間で大樹と澄子は夏帆を待った。
いい加減な掃除をする当番が箒を持ってうろうろとした後に机を移動し始めたところで夏帆は来て、ドアが開けっ放しになっている出入り口から顔を出して手を振ってきた。澄子が先に気付いて小さく手を振り返すと大樹も気が付いた。
放課後になってすぐは帰宅する生徒で下駄箱も通学路も混雑するので、三人は廊下で十分ほど過ごしてから階段を下りて下駄箱に向かった。
「もしかして、一昨日くらいからテスト勉強してる?」
大樹は革靴に履き替えながら夏帆に聞いた。規則性があるわけではなかったが、大体試験の二週間前から勉強を始めるような印象があった。そして一昨日というのは期末試験の丁度二週間前となる月曜日だった。
「残念、外れ。先週の金曜日から」
「ねえねえ、屋上で勉強するっていうのはどうかな」と澄子が夏帆に言った。
「それって夜の話だよね?」と夏帆が聞くと、うん、と言って澄子は頷いた。
「夜に外でって、暗くて見えないんじゃないの」
「見えないね」と大樹が言う。
夏帆は夜に屋上へ出たことがなかったので、大樹は屋上へ持っていく円柱状の卓上ライトでは勉強をし辛いだろうということを教えた。他にも普段何を持っていきどのように過ごしているか大樹は夏帆に教える。以前にも夏帆を誘う時に説明したことがあったので大樹の説明は簡素だった。
説明を聞いた夏帆はやはりいい顔をしなかった。無理なんじゃないか、と言う。
「屋上でやるくらいなら、俺の家に集まってやればいいじゃんって言ったんだけどね」
「だって夜の屋上でやった方が楽しいもの」
まるで涼風に当たっているかのような軽やかな言い方を澄子はした。自分の言っていることが大樹と夏帆の言うことよりも理にかなっている。そう言っているようだった。大樹は呆れた顔をしてみせて、
「と言って嫌がるわけ」と夏帆に言った。大樹の表情に合わせ、夏帆もやれやれといった感じの顔をして溜め息をついた。
「そもそも屋上にいたら、どうせ星の声を聞き出して勉強にならないじゃん」
「きっとね。でも楽しいよ」
澄子は苦笑いしながら言った。
待った甲斐があり、校門から出てすぐの並木道は空いている。
植えられているのはケヤキで、下校時には学校側の歩道が日陰になる。漏れた日差しが細かく道の端やフェンスの向こうの体育館の壁を照らしている。
この落ち着いた感じのある日陰の道は、日差しを遮る物がない明るい道よりもずっと自分たちの青春を彩ってくれている。そう思ったことが大樹にはあった。
この道を三人で通っている時に木々の葉の緑色が綺麗だと思ったことや、放課後にこの道を通る時の人生に期待が持てそうに思える感じなどをはっきり言語化しようとしたことがあり、先ほどのような表現が生まれた。それは大樹にとって発明と言っていいくらい、考えに考えた末にひらめいた言葉だった。
思い付いてすぐにその言葉を二人に披露したのだが、確かにそんな感じがすると二人に言われてしまった。苦労して生み出した表現はあっさりと二人の喉を通り過ぎてしまい、もしかしたらありきたりな表現だったのではないかと大樹はがっかりした。それでもそれ以来大樹は自分のひらめいた言葉の通りに並木道を見て歩いていた。
「じゃあさ、勉強に疲れたら屋上に来なよ。雨が降ってなければ毎日いるからさ」
大樹がそう言っても夏帆は頷かなかった。
「嫌だよ。私は星の声聞こえないし、屋上じゃ勉強もできないみたいだし」
そう夏帆に言われて大樹も澄子も黙ってしまった。説得は失敗だと判断した大樹が、
「ところでさ、帰りにコンビニ寄ってっていいかな」と言った。
「コンビニ? どうして」と澄子が聞く。
「野菜ジュース、買ってく」
「そんなにおいしかったの?」
大樹は、結構ね、と照れながら頷いた。
「影響されやすいやつだな」と夏帆は鼻で笑うように言った。
「でも知らなかったよ。澄子が野菜ジュース飲んでたなんて。澄子が飲むところ一回も見たことなかったし」
「母が飲むから、たまに一リットルパックのやつが冷蔵庫にあるの。だけど時々、途中で飲むのに飽きるみたいで放置されちゃうんだよね。それが可哀想だから飲んでる」
並木道の終わりの交差点を渡った所にコンビニはある。コンビニに入ると、夏帆も野菜ジュースを手に取った。
「私も飲んでみようっと」と夏帆は言った。
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