2 星の声

 明恵と圭介がふざけるのをやめても、しばらく澄子の笑いは止まらなかった。

 夕飯の後に風呂に入っている時も澄子は思い出して笑いそうになった。母と父の前ではこんなに簡単に笑う人間にならないようにしないといけない、と澄子は強く思った。澄子は自分の親のことが嫌いで、そして嫌いな人間には笑顔を絶対に見せたくないと思っていた。

 一番に風呂に入った澄子はショートパンツを履きTシャツを着て、そしてリュックサックを持って大樹の部屋に入った。

 Tシャツには、ビルと東京スカイツリーを紫のシルエットにした絵がプリントされている。紫のシルエットが夜を連想させて気に入っているので泊まりに行く時に着る用の服として扱っていた。

 次は大樹が風呂に入る番だった。勉強机の椅子に座っていた大樹は本に栞を、そしてノートにボールペンを挟んで閉じた。

 大樹が部屋から出ると、ベッドに腰を下ろした澄子は窓を開いた。夜になり気温が下がって、冷えた風が部屋の中に入ってくる。

 外が十分に涼しいことがわかると、澄子はリュックサックの中から黄色いパーカーを出して羽織る。続けてラジオを取り出した。緊急時に使うことを想定されているそのラジオにはライトが付いていて、手回しで発電して使うことができる。

 澄子は笑い声の聞こえてきた番組に周波数を合わせた。そして枕元にシャチのぬいぐるみを置くと、仰向けになって枕に頭を乗せる。

 リュックサックに入れた物の中で、シャチのぬいぐるみは一番大きい物だった。ぬいぐるみと衣類が外に出されて、リュックサックはだいぶ綺麗な形に戻った。シャチのぬいぐるみを入れなければあまりゆがまずに済むのだが、このぬいぐるみを置き去りにして泊まりにいくことはしたくなかった。

 このシャチのぬいぐるみは水族館で買った物だった。親にねだったのではなく、貯金しておいたお年玉で買ったために、澄子はこのぬいぐるみを特別大事にしていた。

 ラジオでは、二人の男がペットについて話している。比較的声が高くてひょうきんな性格を思わせるような声の男は自分の飼っている猫の奇行についてもう片方の男に説明していた。

 その男の飼っている猫は同じ所をずっとぐるぐると回って円を描いているらしい。放っておくと一時間くらいそうしている時もある。一体何が楽しくてそんなことをしてるんだろう、と男は言った。声の低い方の男は、何らかの儀式なんじゃないか、と言う。

「たとえば猫の世界にも宗教があって、その礼拝とか儀式とか、そういったものでぐるぐると回ってるとかね」

 声の低い男がそのように言うと、ひょうきんそうな声の男は、むしろそれだと悪魔が出てきそうだろ、と少し笑いながら言った。すると声の低い方が、ふはは、と悪役の笑い声を出しつつ猫の呼び出した悪魔を演じてみせる。

 嫌だよ俺の猫そんなの呼び出してたら。そうひょうきんそうな声の男は大きな声で振り払うように言った。

 澄子は、この男の飼っている猫はきっと灰色の猫だ、と思った。そしてその猫の描く円は丁度自分の頭から股の辺りを直径とした大きさの円で、猫はその円の中に理想の家を造っているのだ、と想像した。

 家は和風の二階建てで、庭には梅の木が植えられている。そして美しい妻と、道具のように扱っても怒らない飼い主がそこには暮らしている。その飼い主は今ラジオ番組で喋っているこの飼い主と同一人物なのだが、性格は猫に都合よく改善されている。

 想像の中なのに飼い主の見た目を変えなかったのは、飼い主のことを想像の中から追い出すほど酷いやつだとは思っていなくて、わざわざ新たな飼い主の姿を考えるのが面倒だったからに違いない。

 猫のことを想像しているうちに眠りそうになっていた。風呂から出てきた大樹が部屋のドアを開ける音で目を覚ます。

 ラジオからは話し声ではなく歌が聞こえてきていた。大樹はその歌を聞いて、

「これ聞いたことあるなあ」と言った。「曲名なんて覚えてないよね」

 大樹がそう聞くと澄子は、うん、と答える。ずっと前に聞いた曲だったような気がした。それも音楽番組とは別のテレビ番組で聞いたような曲だ、と澄子は思ったが単にそんな気がするだけかもしれなかった。

「なんだったかな。これは、あれだな、どうせ思い出せないパターンだ。本当に聞いたことがあるかどうかもわからなくなってきたし、実は似たような別の曲だったのかもしれないし」

 耳を傾けることをやめて、大樹は勉強机に置いていた本とノートを開いた。その本はペン字を練習するための本で、大樹はノートに字を書くことでその本を繰り返し使っていた。大樹がこういう練習を始めたのは、美文字という言葉がよく使われるようになった時期から随分と時間が経ってからのことだった。

 澄子がベッドに横になって時間を潰している間、大樹はずっと綺麗な文字を書く練習をしていた。大樹は時刻を気にして壁かけ時計を見る。

「澄子、もうすぐ九時だよ」

 呼びかけられて澄子は目を開き、体を起こした。大樹が澄子の胸を見た。Tシャツにプリントされている紫色のビルが胸の膨らみで歪んでいた。

 大樹が胸を見たのはほんの少しの間で、彼はすぐに本棚の方を向いて小説を一冊取り出した。そして副教材の英単語集が通学鞄の中にあることを確認しながらその本を通学鞄の中に入れる。携帯ゲーム機と手元を照らすための小さな円柱状の卓上ライトも入れ、鞄のファスナーを閉じる。

 そこまで大樹を見つめていた澄子はリュックサックにラジオを入れた。

 大樹は一度キッチンに寄って、水筒を取ってきた。そして二人は玄関を出て、エレベーターには乗らずに外付けの階段を上って屋上へ向かった。

 最上階の十二階まではエレベーターで上ることができたが、二人は五階から階段を使って屋上まで行くことにしていた。澄子はリュックサックを背負い、大樹は通学鞄を右手に持っている。

 小さな蛍光灯に照らされている階段を澄子と大樹は駆け足気味に上っていく。スニーカーの高い音を響かせて、ペースを落とさずに屋上に着くまで駆け上がる。

 澄子は大樹を突き放してみせようと途中から全力で駆け上がってみたのだが、そうしても大樹の息を上がらせるだけで彼はしっかり後ろを付いてきた。そして屋上に着けば澄子の方が大樹以上に息が上がっていて、喋ることもできなかった。

 屋上は芝を敷いた庭園になっている。足元を照らすための照明が設置されているがそれでも屋上は薄暗かった。木製の丸いテーブルがあり、ドーナツを半分に切ったような形のベンチが二つテーブルを囲うように配置されている。

 二つのベンチの隙間から内側に入れるようになっているが、二人はまたぐようにしてベンチの内側に入り、向かい合って座る。澄子はリュックサックを、大樹は通学鞄を丸いテーブルの上に置くと、持ってきた物をそれぞれ出し始めた。

 卓上ライトの光はテーブル全体を照らすことができないほどの小さな光だった。そのライトを大樹は自分の傍に置いていて、澄子はテーブルの真ん中にラジオを置く。アンテナは真上に伸ばして、音量は耳を澄ませないとラジオから発せられる声が聞こえないくらいの大きさに調節する。澄子は軽食としてポテトチップスを持ってきていたのでそれもリュックから出し、袋の口を開けてラジオの側に置いた。そして大樹はその横に紅茶の入っている水筒を置く。

 準備が整うと澄子は空を見上げる。十秒ほど待って大樹は、

「どうよ」と聞いた。

「良好」と澄子は嬉しそうに答える。

 今日はずっと晴れていた。今も雲は少ない。空を見てみれば月と星が見える。澄子は星を見るために屋上へ来たのではなかったが、星が見えることは重要なことだった。

 澄子はベンチに付けた両手を支えにして、上半身を反らして夜空を見る。大樹が昨日までにほとんど読んでしまっていた短歌の作り方の本を読み終えゲームをやり始めても、澄子はほとんど同じ姿勢のまま空を見ていた。ラジオの音の他に、近くを走る自動車や自転車の音とセミの鳴き声が聞こえてくる。

 首が疲れて澄子は寝転がった。寝転がっても空を見ることに変わりはない。澄子は自分の視線をアンテナにしたつもりになって、少しずつ視線を移動させながら夜空をじっと見ている。そうすると言葉が聞こえてくるのだ。

 星の声を澄子は聞くことができた。本当に星が声を発しているのではなく、星が見えるような天気のいい夜に空を見ているとどこかの誰かの声が聞こえてくる。澄子はその声を星の声と呼んでいた。

 聞こえるから聞くことが趣味になって、天気のいい夜は毎日こうして屋上に出ている。リュックサックに入っている物は、着替えとシャチのぬいぐるみを除けば、全てこの趣味のための物であった。

 マンションの屋上からでは、絵に描いたような満天の星空は見えなかった。周りにあるマンションの明かりや街灯が夜を明るくしているせいだ。まばらに見えるだけの星の光は、それでも広い夜空にまんべんなく存在していたし、星の声は絵に描いたように山ほど聞こえてくる。

 今日も澄子は恋人と別れた人の声を見つけた。誕生日を迎えた人と、失恋した人の声は必ず聞こえてくる。誰の誕生日でもない日がないように、誰も失恋していない日はないのかもしれない。

 その失恋した人の声に意識を向ける。彼氏と別れたというその女は、彼氏と一緒にいた場面の一つを思い出しているらしく、あれがまずかったのかもしれないなあ、と考えていた。

 もう一度彼が私のことを好きになってくれるというのなら、私は素敵な人間に変わることだってきっとできるのに。そう星の声は言っていた。

 大丈夫ですよ、と澄子は星の声の主に教えたかった。同じようなことを思う人はたくさんいる。別れるきっかけになったであろう瞬間を思い出している女の声や、好きな人と一緒にいるためならもっといい人間になってみせると思っている男の声を澄子は思い出す。

 似たことを考える人がいるくらいよくあることなのだろう。そのことに気付けばすぐに立ち直れるはずだ。そう澄子は思った。

 星の声を聞いていると、ありきたりな言葉とそうでない言葉がわかってくる。何かあった時、もし他の誰も言っていないことを言えたなら、その出来事は自分だけの特別なものになる。そう澄子は信じていた。

 もし大樹と別れることになったら誰にも真似できない悲しみの言葉を発してみせるつもりだ。あるいは大樹のプロポーズを受ける時、子供が一人立ちする時にも特別なことを言いたいと澄子は思っていたし、欲を言えばどんな時でも好きな相手には自分にしか言えないことを言ってあげたいと思っていた。

 澄子は気に入った言葉をメモ帳に記録しておくことにしていた。それを聞いた日時も一緒に書き記して、星の声の収集をする。大したことのない言葉を聞き流し、時に失恋した声に少しだけ時間を割いてあげながら、メモ帳に書き留めておくべき言葉を澄子は探す。

 まるで人々の言葉の中を駆け抜けていくようで、吹いていない風を感じているような気になる速さで次から次へと星の声に触れる。やがて澄子は、いいと思える言葉を見つけた。

 澄子は起き上がってまずポテトチップスの袋を手繰り寄せた。二枚を重ねてつまむとばりっと音を立てて半分食べる。続けてもう半分も口に入れるとポケットティッシュで指を拭いて、水筒の紅茶を飲んだ。

「明かりいる?」と大樹は聞いた。

「うん」

「わかった」

 卓上ライトを澄子の方へ移動させる。澄子はライトを引き寄せ、水筒のコップに紅茶を少し残したままメモ帳とボールペンを出し、聞こえた言葉を書き留める。ボールペンの動きがなかなか止まらないので大樹は、

「なんか長いね」と言った。

「うん。ちょっと長い。ポエムみたいな感じだから」

「へえ、どんなやつ」

 待ってて、と言って澄子は聞こえた日時まで書いてしまうと、聞いた言葉を読み上げた。

「私のこと天使だって言うあなたは何だろう。悪魔じゃなさそう、近いのはジンジャーエール」

「ジンジャーエール」

 大樹の繰り返した部分は、まさに澄子の気に入った部分だった。

「うん、ジンジャーエール」と澄子は頷いた。「ジンジャーエールにたとえられる男の人ってどんな人なんだろうね。飲み物でたとえようとしてたわけじゃなくて、悪魔じゃなさそうと思ったその次にジンジャーエールが出てくる人って」

 二人はコーラみたいな人やりんごジュースみたいな人や東京タワーみたいな人などを想像しながら一分ほど考えてみたが、ジンジャーエールみたいな男がどういう男であるのか、少しもわからなかった。

 大樹は水筒のコップを取って紅茶を継ぎ足し飲むと、

「俺はジンジャーエールみたい?」と澄子に聞いた。澄子は首を横に振った。

「全然違うと思う。大樹はもっと甘ったるいよ。飲み物で言うなら、さらさらしてて凄く飲みやすい野菜ジュースみたいな。飲み物以外だと、わからない」

「野菜ジュースって飲んだことないな。まずくないの?」

 大樹は野菜ジュースのことを、たくさんの野菜を強引に混ぜたまずい飲み物、という風に思っているようだった。

「まずいのもあるけど、本当にジュースっぽいジュースもあるよ」と澄子は教えた。

「へえ、そうなんだ」

「それじゃあ明日買ってあげるよ。飲んでみ、おいしいから」

「うん」

 それからもう一時間澄子は星の声を聞いていたが、新しくメモした言葉はなかった。

 メモをして文章として残すには退屈な言葉だったものの、バットの理想的な振り方を唱えている声が聞こえてきて、その声は無我夢中に素振りをしている男子の姿を想像させて澄子の気分をよくした。

 その男子生徒の振ったバッドが風を切る音をイメージしながら澄子は勢いよく体を起こし、

「そろそろ戻ろうか」と大樹に言った。


 部屋に戻ると、先ほどのように大樹は机の前の椅子に座り、澄子はパーカーを脱いでベッドの上に足を伸ばして座った。

「ジンジャーエールって言った人の声、また聞こえるといいなあ。続き気になる」と澄子は言った。「なんか考え込んでる感じだったしさ、もしかしたら破局の前触れなのかも。でも失恋してほしくないよね」

 そうだね、と大樹は頷く。澄子の失恋してほしくないという気持ちは、単純に人の幸せを望むものではなく、素敵な言葉を発することのできる人にはそういったご褒美があってほしいという願望から来ているものだと大樹は知っていた。

 まるで優れた人の幸せだけを祈っているようでもあるが、大樹は澄子の考え方を嫌っていなかった。澄子は気に入った星の声だけを丁寧に扱う。気に入らないものを抱えないところが軽やかで純粋な少女のように感じられて、大樹は澄子に憧れるのだった。

「もし失恋しても、あの人は素敵なことを言うのかな」

 澄子はそう言って天井を見上げ、星の声を聞く振りをすることで、続きの声を待ち望んでいることを表現した。

「その人が詩人なら、もしかしたらね」

 澄子だってまたその人の声が聞こえることを期待していないだろう、と思いながら大樹は言った。

 澄子はよく同じ人の星の声を聞きたがるのだが、実際に聞こえたと言ってきたことはなかった。きっと気付いていないか、つまらない星の声だったから聞き流しているかのどちらかなのだろうと大樹は考えていた。

「詩人かあ。本当に職業が詩人じゃなくても、だよね。精神的に詩人って言うかさ、そんな感じの人だったら、もしかしたらまた聞こえるかもしれないよね」と澄子は言った。

「もし聞こえたら、奇跡だね」

「うん。奇跡だ」

 澄子はそう言って、天井を見るのをやめた。ぼんやりと正面の壁を見ているかと思えば突然澄子は、今思い付いたんだけどさ、と言いながら大樹の方に顔を向けた。

「人は不意に一瞬だけ詩人になっちゃうのかもね。まぐれで、思っていることが優秀な詩になるの。そしてそれは、明日になったら忘れちゃうようなどうでもいいことを考えている時に起きてしまったりするんだよ」

 思い付きを話しているうちに楽しそうな顔になり、澄子は大樹と視線を合わせた。

「たとえばプロポーズの言葉よりも、プロポーズした次の日にふと言った言葉の方が素敵で好きになれてずっと覚えているなんてこと、ありそうじゃん」と澄子は言った。

 言っていることは理解しながらも、そのたとえはいまいちだと大樹は思い、曖昧に頷いた。澄子の思い付いたことは、もっと悲劇的で、そうでありながら愛らしさのあるものだと大樹は感じていた。

 それはたとえば、と大樹は澄子の代わりに的確な比喩を考えようとしてみる。それはたとえば、俺が澄子に一生記憶に残るような言葉をかけてあげたいと思っているのに、生涯発した中で一番優れていたのは澄子ではない誰かと話している時の言葉で、だけどその時喋っていたのは澄子のことだった、とか。それか、読み返したくなくて捨ててしまった日記に書いてあった自分へのメッセージ、とか。

「それはそうと、もうすぐ夏だ」と澄子は言った。もうすぐ夏休みだ、と大樹は期末試験が近いことを意識しながら思った。

「うん。テストが終わればすぐだ」

「そうじゃなくてね、もうそろそろ夜でも暑いような日が続いたりするんだろうなあって話」

「ああ、そっちか。寒いよりかはいいけどね」

 雪がほとんど降らない地域ではあるものの、二人で寒い寒いと言いながら夜の屋上で過ごすのが冬だ。ニット帽を被り手袋を着け、口元を冷やさないためにマスクをする。重ね着して、それから当然コートも着るし、カイロを貼りもする。それでも寒くてたまらない時は一度部屋に戻って、さらに服を重ねて着るのだ。夏は暑いが、冬の寒さと違って部屋に戻って着替えるようなことはない。

「外で使える扇風機って欲しいよね。暖房も。なんか充電式とかそんな感じの」と澄子が言ったので、大樹はスマートフォンをインターネットに接続して、通販のサイトで充電式の扇風機を探した。

 検索して表示された商品のいくつかを見た大樹は、

「結構安いね。小遣いで買えるレベル。なんかラジオが聞けたりするやつも多いみたい」と言ってスマートフォンを澄子に渡した。

「ああ、そういうやつね。災害の時でも使える、みたいな」と言い、澄子はスマートフォンを受け取った。通販サイトの紹介とレビューを読むと澄子はすぐにスマートフォンを返した。「やっぱいいや」

「いいの?」

「暖房の方は気になるけど。暑いのはこれまで通り扇子と団扇でなんとかなるでしょ」

「まあね」

 大樹は暖房の方も調べてみた。充電式の湯たんぽやカイロが検索結果に表示される。

 カイロは欲しい、と大樹は思った。使い捨てカイロを二枚も三枚も貼るのは使い過ぎであるような気がしてこれまで一枚しか貼らずにいたが、これなら寒そうな日に使い捨てのカイロを追加すればいいので遠慮などいらなくなる。

 レビューを見て、どの充電式カイロを買おうか考えていると、

「来てもいいよ」と澄子に言われた。それは合図だった。

「うん」

 大樹は通販サイトを見るのをやめて、スマートフォンを机に置いた。これからすることを意識したために、大樹は紫のTシャツを着た彼女の胸の膨らみを見てしまう。胸ばかり見ていることを澄子に気付かれたくなかったため、すぐに澄子の顔を見つめるように自分の視線を修正した。とっくに気付いているかもしれないけど、と思いながら大樹はベッドに上がる。

 大樹は澄子の顔を見つめるように努めるが、頭の中ではさっき見た胸の膨らみを思い出していた。そして昨晩やその前の晩に見た裸になった澄子の胸も思い出す。

 興奮を隠すように大樹は落ち着いた動作で膝を折り、そして澄子を抱き締めた。澄子は大樹の胸元に顔を埋める形になる。額を押し付けて目を瞑る。

 まずはこのように抱き締めて、それから顔を上げるまでキスをしようとしてはいけない。そのような決まりがあって、大樹はじっとしていた。

 大樹は昨晩の澄子の姿を思い出していた。

 昨晩、澄子は襟付きでノースリーブのシャツを着ていた。その紺色のシャツは一緒に外出した時に買った服だった。大樹はそのシャツを脱がさないまま愛撫し、肩にキスをしたのだった。

 肩や鎖骨の複雑な形を思い描こうとしているうちに、正しい澄子の形を確かめるため服越しにでも肩などに唇を付けたくなった。しかし澄子はまだ大樹ほど興奮してはいないようだった。抱き締める形になっている腕や手には力が入っていなくて、胴に絡んでいるだけの澄子の腕はそのうちずり落ちてきそうだった。

 それに、澄子の呼吸は静かでそのうち寝てしまうのではないかと心配になる。いつもそういう心配をするが、澄子が寝てしまったことは一度もない。おそらく澄子は二人で黙って抱き合っているというこの穏やかな雰囲気を味わっているのだろう。

 大樹にもその穏やかな雰囲気は感じられていたが、唇や腕や股がその後のことを求めていて落ち着かず、そこに身を浸すことができない。

「明日は授業全部寝ていいよね」と澄子は言った。

「うん。寝ちゃおう。それで、叱られよう」と急いた気持ちで大樹は言った。

「じゃあもう少しこのままでいたい」

「ああ、わかった」

 焦らされている気分になったが、抱き合っているうちに欲求は体の表面で大樹を急かすことをやめて体内に染み込んでいった。やがてそれは体と同じ形をした塊になった。そうなると澄子の味わっているものが少しだけ感じられるようになる。

 五分経って、澄子の顔は大樹の胸から離れて、大樹の顔の方を向いた。澄子がそうするのを待ち望んでいた大樹が唇を触れさせようとすると、先に澄子が顔を近付けて唇を付けた。大樹は長いキスを受け止める。

 大樹は右手で、澄子の腕や太ももを触り始めた。しばらくすると大樹の手は太ももから離れず、そこばかり撫でるようになる。

「太ももばっかりだよ」と唇を離して澄子は笑った。

「だって」

 大樹は澄子の肌に直接触れたがっていた。今日澄子はショートパンツを履いていたから太ももには直に触れることができた。そして細いばかりの腕よりも太ももの方がよかった。

「短いの履いてるから?」

 澄子は大樹の好みを知り尽くしているかのように笑みを浮かべて言った。まあね、と大樹は答える。体を見ずとも彼女の裸婦像を描けるようになるつもりで長い間澄子を撫でた。

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