4 憧れの生活

 朝にした話を覚えていたようでマンションに着くと澄子は、今日は家に帰る、と言った。

 まず澄子は五○四号室の前まで来て、玄関に置いておいたリュックサックを大樹から受け取った。そしてリュックサックの前面の小さなポケットに入れてあった鍵を取り出し、澄子は五○五号室に帰った。

 大樹は自分の部屋に入り、今日中にやってしまわなければならない宿題を手早く終わらせてしまうと、急ぐ手つきでクローゼットの扉を開けた。

 クローゼットには小さめの本棚が置いてある。幼少期の頃から使っている本棚で、扉が付いている。過去には絵本や玩具が入っていたその本棚には文房具を入れているのだが、その中にあるノートの一冊は漫画を描くために使っている物だった。澄子に見つけられたくなくて、ここに隠してある。

 永山と国見の真似をして漫画を描こうとするのは、二人の影響だけではなかった。むしろ澄子の影響だと大樹は思っていた。

 星の声を聞くというのは彼女の才能であり、そして彼女から欠かすことのできないとても大切な趣味だ。そういうものを自分も持っていないと、趣味に没頭していく澄子を追いかけることができなくなりそうで不安になる。

 澄子の聞く無数の星の声の代わりに小説を読んで言葉のセンスを磨こうとしてきたが、それだけではただ澄子の後ろを付いていっているだけになって一生澄子に追い付けないように感じる。それで大樹は絵を描けるようになろうとしているのだった。

 授業中落書きをする他に生活の中で絵を描くことはなかったが、文学とは異なる趣味を考えた時にまず浮かんできたのが絵だったので、まず絵を描くことにしたのだった。

 いざ漫画を描こうとしてみると、ストーリーが少しも思い浮かばず、大樹は戸惑った。たまに水滴のように落ちてくるアイデアをノートの始めの方に書く作業を二週間ほどずっと続けていた。

 アイデアを出そうとすることが億劫になると、別のページに落書きをする。登場させるつもりのキャラクターの姿を描くのだ。そのキャラクターは、恥ずかしくて他人に見せられないと思うほど、澄子に似た外見をしていた。

 澄子を外見のモチーフにしたキャラクターをヒロインにしようと思ったものの、少しのアレンジもできずに澄子そのままの姿になってしまっているのである。どこをどう変えようか思案していた頃もあったが、今では澄子を描くつもりで描いているような気さえしていた。

 大樹が描く澄子は、漫画らしくデフォルメされた分、大樹の未熟さを補って本人の可愛さが表れていた。愛が彼女の特徴を捉えた。そう大樹が思ってしまうくらい澄子の絵だけは上手く描くことができる。

 もしかしたら澄子の漫画なら描けるかもしれない、と大樹は思った。試しに、ハンバーグを作る澄子の漫画を描いてみることにした。

 大樹は粗く全身の線を引くとノートに顔をぐっと近付け、澄子の肌の感触を思い出しながらエプロンを着けた澄子の全身を描く。澄子の肩を描きながら大樹は、一昨日彼女の肩に口付けした時にはもっと間近で見ていたのに、とノートに描いた澄子をもっと近付いて見られないことに苛立った。澄子の体をよく記憶しているのに、これでは紙の上に彼女を再現することができない。

 引いた線を消しゴムで消してはまた線を引いて、線の形を僅かに調整する。ペン字の練習に見せかけて線を引く練習はしていたから、思い通りの形の線を引くことはできていた。しかしその線が必ずしも澄子を描く線になっているとは限らなかった。そうして澄子の線を作り、大樹は漫画のキャラクターを自分の知る澄子へ近付けていった。

 疲れたと思うくらい苦労して澄子の全身を描き上げると、その縦に長いコマの横に、横長のコマを用意する。そのコマには澄子の胸から上を描き、今日はハンバーグを作ります、と吹き出しに書いた。

 もう二コマ描いて出来上がった一ページを読んでみる。すると、永山や国見の漫画はこれよりもずっと上手い、ということを真っ先に感じてしまう。

 大樹はノートからそのページを破った。そして破った紙は、わざと丸めてからゴミ箱に入れた。

 そのように捨てることも遊びの一部だ。上手く描けなかったことへの落胆も怒りも大樹にはなかった。澄子を描くことは楽しい。

 いきなり永山や国見と同レベルのものが描けるわけがない。そういう類の才能が自分にないことくらい高校生なのだから当然理解している。さっぱりとした気分で大樹はそのように自分に言って聞かせる。

 そういえば捨ててしまった漫画に描いた澄子の全身は何度も修正しながら描いただけあって上出来だった。紙を丸めてしまうなんて、勿体ないことをした。そのように思った大樹は、念のためにゴミ箱から紙を引っ張り上げてみたが、やはり紙にはぐちゃぐちゃのしわが出来てしまっていた。

 それならば、と大樹はもう一度澄子の全身の絵を描こうとしたが、描き始める前にメールが届いた。送ってきたのは澄子だった。

 会いたい、という四文字だけ書いてあって大樹は笑った。さっきまで一緒にいて、しかも三日も泊まった後というシチュエーションなのに切ない恋愛をしているようなメールを送るという澄子のギャグだと思ったのだった。

 会いに来ればいいよ、と大樹は返信した。すると一分後に来た澄子からの返信には、本当にそうしたい、と書いてあって、さっきのメールがどうやら冗談ではなかったらしいことに気付かされた。

 何があったのか聞いてみる。たぶん母親のことだろうとは思った。

 今朝夏帆が言った通りに、澄子にとって母の洋子は悪人だった。そして父はその悪人の仲間だ。大嫌いな悪人たちと一緒にいることに耐えられないので澄子はこちらに逃げてくる。

 洋子がした悪行というのは不倫だ。それから母の不倫を父が簡単に許してしまったことも気に入らないのだ。

 しかし澄子の怒りは孤立していた。おそらく彼女の父どころか、周囲の人間も洋子のことを悪人とは見ていないのだ。大樹は自分の母と夏帆の母が洋子と三人でよく談笑しているのを知っているし、大樹自身も洋子のことを嫌う気持ちを少しも持っていなかった。夏帆が悪人という言葉を用いたことには驚いたが、あれは澄子を説得するためにそう言っただけなのだと大樹は思っている。

 澄子は母のことをかたくなに嫌っているから夏帆のように洋子さんのことを悪く言った方がいい場合もあるかもしれない、と考えながら大樹はメールを待った。

 ごめん話せない。話したら、自分のことが恥ずかしくなって死にたくなるから。

 返ってきた澄子のメールにはそう書いてあった。意外に思いながらも大樹は、わかった、と返信する。そして今から描く澄子には昨日見たTシャツとショートパンツを着せることに決める。

 澄子の首を描いていると、夕飯が出来たと母に呼ばれる。

 大樹は返事をして、ノートを棚に隠した。親にばれること自体は気にならない。しかし口止めをしても母は澄子にノートのことを教えてしまうかもしれない。

 母の料理は、澄子の作るものより味付けが薄めだ。ずっと食べてきて慣れ親しんだはずの味だが、澄子の料理も頻繁に食べるようになったせいで口に入れた時に味が予想と違っていて大樹は驚かされる。

 澄子がいないのに大樹は口に入れた食べ物をよく噛んでいた。両親にどう問いかけようか考えていて、飲み込むことを忘れているのだった。

 醤油の味が薄く感じる煮物のにんじんを箸で二つ同時につまんで食べると大樹は、

「洋子さんみたいな人になりたいって思うことって、ある?」と両親に尋ねた。

「急にどうしたの、そんなこと聞いて」

「洋子さんってさ、浮気したけど、空飛べるしああいう性格だし綺麗だしって感じで、澄子以外は浮気のこと許しちゃったじゃん。そういう風に生きられるのって、やっぱいいことなのかな」

 明恵と圭介は困った顔をした。

「まあ、浮気はいいことではないと思うけどな」と圭介は言った。

「もしかして、浮気してるの?」

 明恵はからかうように言った。してないよ、と大樹は笑いながら否定する。

「そうじゃなくて、つまり、特別な才能を持っていない人は普通の人間になってしまって、大して面白くない人生を送ることになってしまうんじゃないかってことだよ」

「ごめんね、イケメンに産んであげられなくて」

 明恵は頭を下げて謝罪する。まだ大樹をからかうつもりのようだった。もしかしたらこの前の澄子のように、そして昔の大樹のように大笑いすることを期待しているのかもしれない。

「いや、これ、真面目な話だから」

「そうか。真面目な話か」

 圭介はしみじみとそう言い、立ち上がった。キッチンへ行って冷蔵庫からビールを取ると、そうかそうか、と呟きながら戻ってくる。

「俺もそれに似たことを考えてた時期があったよ。普通でつまらない人生は送りたくないってさ」と圭介は言った。「普通って言われるような人生がつまらないとは限らないんだけどな。でも俺も特別な人間になって、物凄く気持ちのいい生活を送りたいって願っていたんだよ」

「それで、特別な人間にはなれた?」

 圭介はすぐに答えず、ビールをじっくり飲んだ。親なりに格好付けて格好いいことを言おうとしているのだと大樹は感じ、息子としてじっと父の言葉を待った。

 息子から見た父は、特別な才能のある洋子や澄子に劣るとしても、それなりに特別な人間だった。海に行くことが好きで、圭介はサーフィンやダイビングを楽しんでいる。そういう父の影響で大樹も海が好きになっていた。

 圭介は缶をテーブルに静かに置いた。言いたいことがまとまったらしい。

「正直今の俺自身が特別な人間かどうかはわからないけど、このマンションのこの部屋に住んでいることは、間違いなく特別なことだよ」と圭介は言った。

 明恵は何度も頷きながら白飯を飲み込むと、そうなんだよねえ、と言う。

「そりゃあ同い年の幼馴染がこんなに近くに二人もいるっていうのは珍しいことだと思うけど」

「そうじゃない。それは大樹の話だろう。俺たちにとっては、同じ年に子供を産んだ夫婦が凄く近くに二組もいたってことなんだよ」

「まあ、そういうことだよね」

 そう大樹が言うと、とても残念そうに圭介は溜め息をついた。

「駄目だ。伝わってないな、こりゃ」

「何がさ」

「同じことのように見えて、全然違うんだよ」

 どういうこと、と大樹は聞くが圭介は上手く説明できず、とにかく違うんだ、と繰り返し主張した。その様子に頬を緩ませてから明恵は、

「私たちにとって今の生活は、昔の自分が憧れる生活ってこと」と言った。「一緒に子育てする仲間が四人も増えて、みんな仲良くなれて、しかもその中に洋子ちゃんがいる。私ね、私たち六人が古くからの親友だったような気がする時があるもの。そう思えちゃうのって、とても素敵なことでしょ。たぶん私はあなたより幸せなんだと思う」

 そこまで言うと明恵は遠慮のない笑顔を見せて、幸せということを強調して大樹に見せた。

「大人になると子供の頃の自分が羨ましくなるものでしょう。私たちは、子供の頃の自分が羨ましくなるような生活をしているけれど、きっと大樹はこのマンションで過ごした日々のことを何かある度に思い出して、今の自分が羨ましくなるんだよ」と明恵は続けた。

「そうだろうね」

 冷静にそう答えてみたものの、母の言った通りの未来が待っているような気がして恐ろしくなった大樹は、

「なんだか将来がもっと不安になったよ」としょげた。

「ちょっと、どうすんのさ」

 圭介は、どうするの、ではなくて、どうにかしてよ、と言いたそうな視線を明恵にやった。

「少しも才能がなくたって案外楽しい人生送れるものだから大丈夫。それに澄子ちゃんがいるんだし」と明恵は言った。

「ああ、そうだ。澄子ちゃんのこと、大事にしろよ。運命の赤い糸を自分で切るような真似はするんじゃないぞ」

 圭介はビールを飲み、だはあ、と声を上げた。

「当然大事にするし、それに少しも才能がないとは思ってないよ」

「へえ。そうなの?」

 一体どんな才能があるの、と聞いたも同然の挑発的な言い方を明恵はした。

「たぶん何かしらの才能はあるよ。人にはそれぞれ個性というものがあるんだしさ」

 まだ自分の才能が見つかっていないことが透けていて、苦しい逃れ方だと大樹は言いながら思った。しかし意地悪なことを言って楽しむ母が何か言う前に、父が楽観的なことを言ってくれた。

「確かにそうだな。誰もが子供の頃からその才能を発揮するわけでもないんだし、焦る必要もないさ」

 そういうことだよ、と大樹は言い、白飯と鳥肉の照り焼きを急いで食べきってこの話から逃げた。


 風呂から上がると大樹はいつもの時間になるのを待たずに屋上へ出ようとして、キッチンで湯を沸かし紅茶を作った。いつもなら母が自分の飲む分と一緒に作って水筒に入れてくれていたので、大樹は母のティーカップにも紅茶を注ぎ、カップを母に渡した。

「珍しい」と母は大樹の奉仕に感動した。

「もしかしたら澄子が早く屋上に行ってるかもしれないから、そのついでだよ」

「ああ、そういうこと。いただきます」

 一口飲むと母はリビングから出て行こうとする大樹に、

「意外とおいしい」と声をかけた。

「澄子の料理に付き合ってるおかげ」

 大樹は歩きながら母の方に顔を向けてそう返した。

 今日もエレベーターは使わずに、階段で五階から屋上まで行く。しかし駆け上がることはしなかった。ゆっくり上っていたら、もしかしたら澄子が来るかもしれない、と期待していた。

 階段で会うことはできなかったし、屋上にも澄子はいなかった。今日もよく星の見える夜空だった。

 こうして澄子と屋上に来るようになるまで、大樹は夜空をじっくり眺めたことなどなかった。星は瞬いている。

 二十一時になれば来るはずなので大樹は待っていることにした。意外とおいしいと褒めてもらえた紅茶を飲む。母の真似をして、意外とうまいな、と呟いてみる。そう呟いただけで、ずっと一人で過ごすことになるかもしれないこれからの一時間が楽しくなりそうだった。

 いつものように卓上ライトの小さな明かりを頼りにして小説を読んでいると、

「大樹?」と澄子の声が聞こえた。

 顔を上げると澄子がいた。階段から上がってきたばかりだった。

「早いね」と大樹は言った。

「そっちこそ。ライトが見えてびっくりした」

 スマートフォンで時刻を見てみると、まだ八時半だった。

「あのメールが気になったから。一緒にいたくて」

「うん。そういうの凄くいい」

 澄子は大樹と並んで座った。密着はせず、もう一人座れるかどうかといった程度の間を置いていた。そして大樹のいない方にリュックサックを置く。

「何があったか聞いてはいけません」

 夜空を見上げながら、澄子は釘を刺した。

「わかってる」と大樹は答えた。聞いていいものなら、澄子が座った時にはもう聞いていただろう。

「ここに夏帆も来てくれたらいいのにね」と澄子は言った。

「そうだね。メールで呼んだら、来てくれるかな」

 大樹はスマートフォンを手に取ろうとした。しかし澄子が、メールは嫌だ、と言った。

「呼ばなくても来てくれるのがいい」

「ロマンチストめ。そうなったらいいけど、夏帆は呼んでも来るかどうかって感じだからなあ」

「それに私、夏帆にはメール送ってなかった」

「じゃあ来ないね」

 そうだね、と澄子は言う。ずっと夜空を見ながら喋っているが、そうしているだけで星の声は聞いていないのかもしれない。

「それと、ロマンチストというのは間違いないね。ロマンチックなの大好きだもの。夏帆が来てくれたとして、その後どうなったらいいなあって思ってるか、わかる?」

 夏帆が来ても喋ったりお菓子を食べたりするくらいしかやることなんてないように思ったものの、大樹は何かしらの答えを言おうと少し考えた。

「三人で手を繋いで輪を作る」

「踊るの?」

「いや、UFOを呼ぶ」

「呼ばないよ」と澄子は笑った。「正解は、夏帆の部屋に泊めてもらって、三人でエッチなことをする、でした」

「もしかして、本気で言ってる?」

 冗談で言ったようには聞こえなかったので大樹はそう聞いた。それにこれまで大樹をからかう時にしか性的なことで冗談を言うことはなかった。

「そうだよ。だってなんか面白そうじゃん。凄く楽しいと思う」

 澄子はまだ夜空を見ている。こっちを見てほしいと大樹は思った。

「夏帆は、嫌がるかもね」と大樹は言った。大樹自身、そんなことにはなってほしくないと思っていた。

「そうだよね。叶わない夢だ」

 澄子は水筒の蓋のコップに紅茶を注ぐと、立ち上がってベンチの上を歩きながら紅茶を飲んだ。コップの中の紅茶を全部飲んでしまうと腰を曲げてコップをテーブルに置き、また歩いて向かいのベンチに移って、その上に寝転がった。

「今日はここで寝ちゃわない?」

「寝にくいよ」

 そう答えながら大樹もベンチに寝転がってみた。寝返りを打ったら間違いなく落ちるだろうと感じた。

「あんまり帰りたくないんだよね。ねえ、いつもより長くここにいるのは、どう?」

「それならいいよ」

「ありがとう」

 横になったままでいるうちに、大樹は眠ってしまった。

 一時間が経って、澄子に肩を揺すられて大樹は目を覚ます。

「おはよう」

「ああ、寝てた?」と大樹は聞き、澄子は頷いた。

「話しかけても反応なかった」

「それはごめん。で、どうかした?」

「なんでもないよ。今日はあんまりいい星の声が聞こえてこないって言おうとしただけ」

 大樹は体を起こした。そして時刻を確認する。

「一時間も寝てたのか」

「失恋の声ばかりはよく聞こえてきて、こんな日は気が滅入るよ。それも今日はとびきり悲しそうなのが聞こえてきてさ」

「へえ。どんな?」

 澄子はベンチに腰かけると、チョコレート菓子の袋を開けた。包装されているチョコレートを二個つまんで、一つを大樹の方に投げた。

「その人、自殺しようかって考えてた。十年付き合ってきた人と別れたんだってさ。それで、親よりも長い付き合いだったのにって泣いてる」

「それは、とびきり悲しいね」

 澄子は溜め息をついて、今日は全国的に悪いことが起きる日なのかも、と言った。

「不幸な人よ、いなくなれ」

 澄子は両手を挙げてそう言った。大樹には、空に向けて祈っているというよりも、伸びをしながら言っているように見えた。

「いなくなれ」

 大樹も両手を挙げてみた。こちらは、やる気のない万歳といった感じの挙げ方だった。

 先ほど話した星の声の主に澄子は自分を重ねているのだろう。親と接する時間が十年に満たなかったその人も自分も親によって傷付けられている、というふうに。そう大樹は受け取っていた。

「私たちにとっては、十年はだいぶ先の話だね」

「もっと長く続くよ」

「そうかなあ」

 そんな未来のことわかるわけがない、といった感じで澄子は言った。大樹にもそれはわからなかったので、

「俺たち今年で十七歳だから、親よりも長い付き合いになるには少なくとも十七年は付き合わなきゃいけないじゃないか」と冗談を言った。

「ああ、そっか。そうだね」

 大樹は偶然その冗談の続きを思い付いて、

「それに十七年も付き合ってたら俺たち三十代になって、そろそろ結婚しなきゃ一生独身かもしれないって焦るから、別れないで結婚してると思う」と言った。

「それでも離婚って可能性はあるよね?」

 面白がって澄子はそう聞いた。

「それは、そうだな、どうしようか」

「詰めが甘いね」

 大樹が思い付くのを待たずに澄子はそう言い、また袋からチョコレートを出して食べた。そして澄子は欠伸をした。

「なんか今日はもう眠れそうな気がする」

「まだ十時になってないよ」と大樹はコップに紅茶を注ぎながら言った。

「今日たくさん寝て、明日夜更かしするっていうのはどうかな。明日はそっち泊まるからさ。あ、私も飲みたい」

 大樹は紅茶を一気に飲み干し、もう一度紅茶を注いでコップを澄子に渡した。

「ありがとう」

「さっきの、めちゃくちゃ素敵な提案だと思うけどさ、夏帆に怒られそうだ。また泊まったのかって」

「そうだけど、怒られてもいいよ」と言い、澄子は紅茶を飲む。「夏帆ってさ、もしかして今勉強してるのかな」

「テスト前だし、してるんじゃないのかな」

「たぶんそうだよね。私思うんだけどさ、夏帆はもっと羽目外した方がいいよ。疲れちゃわないのかな」

 確かにな、と大樹は言った。夏帆が今何を趣味にしているのか、大樹は知らない。三人でいる時は大体澄子が星の声について話しているし、夏帆が何か話すとしてもそれは彼女のクラスメイトの菊池玲奈のことだ。

「もっと弾けてくれたら、私もお小言聞かないで済むと思うんだけどな」

 澄子は水筒にカップを被せた。そしてチョコレートの袋を掴んで立ち上がる。

「もう戻る?」

「うん。今日は寝ちゃおうよ」

 大樹は自分の座っている方のベンチに置いてあるリュックサックを澄子に渡し、水筒を持った。

「テスト勉強は?」

 合言葉を聞かれるように大樹が言うと、澄子は親指を立てた。

「勿論しないよ。冗談でもなんでもなく、ね」

「じゃあ俺もしないでおこう」と大樹も親指を立てる。

「よろしくね」

 階段で一つ下の階に降りるとそこからはエレベーターで五階に降りる。

 部屋に戻っても大樹はすぐには寝なかった。もう屋上で一時間眠っていたから、澄子のように眠いとは思っていなかった。

 夕飯前に描いていた澄子の絵にまた取りかかることもできたが、澄子の絵を描いてばかりいたらまるで変質者みたいではないかと思い、大樹はインターネットで美術館を調べることにした。

 夏休みには美術館に行こうと思っている。絵画に興味を持ったから行きたいと思うようになったのだが、目的はもう一つあった。たくさんの美術品を見れば、一つか二つ人生を変えるような出会いがあって、才能が開花するきっかけになるのではないかと大樹は期待しているのだった。

 長い休みを利用して行くのだから遠くにある美術館にしようと思っている一方で、費用も気にしていた。あまりにも金がかかってしまうようでは親にねだりにくい。

 絵画を見るつもりで探していたが、大樹が興味を持ったのはガラス作品を展示している美術館だった。

 ガラスで作られた作品を展示しているだけでなく、美術館には庭園があって、クリスタルガラスという光を受けて輝くガラスによる飾りが施されているということにも興味を引かれた。

 行ってみたい美術館としてそのサイトをブックマークに入れた。

 その美術館へのアクセスなどを調べているうちに屋上で寝た分の時間は過ぎた。まだ眠くはなかったが大樹はベッドに入った。

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