第8話旅立ち

 どれほどの時間が経ったのかは分からないが、俺は火照った体を包むなにかを感じて顔を上げた。

 だが俺の視界にそれらしきものはなく、俺の肩に回された義姉と義兄の手が汗ばんでいるだけだった。

 俺は腑に落ちなくて、二人から離れ部屋中を見渡した。

 すると養母の遺書が隠されていた昔の写真と遺影の養母が微笑んでいるように見えた。

 まるで養母がその場にいた感覚に、俺は束の間目を疑ったが、なぜかその錯覚を理屈なく納得してしまった。

 養母はすでに逝ってしまったというのに、不思議なことだった。

 俺は強引に気持ちを切り替え、義姉と義兄に顔を上げるように促す。

 そのとき、メガネに涙が溜まっていたことに気付く。

 俺はメガネを外し、シャツの袖でメガネを拭い、かけ直す。

 「義姉さん、義兄さん、俺は思うのだけれど……」

 これから俺が言おうとすることを察したのか、二人は涙が引っ込んだように目の色が変わる。

 「陽一、あんたそんなにせっかちだと、近いうちに禿げるわよ」

 「……それで、どう考えているの?」

 義姉と義兄が応えたところで、俺は深く息を吐く。

 「やはり俺たちは、義母さんの遺言通り、他人として生きるべきだ」

 「なにを言っているの、陽一! 今、やっとこうして……」

 二人は情に流されて、姉弟として生きるという養母の意に反ったことを考えていたのか、耳を疑い眉間に皺が刻まれる。

 特に義姉は頭に血が昇っていくのが目に見える。

 感情剥き出しで声を荒らげる前に、俺は急いで腹筋に力を入れた。

 「少なくとも俺は、養子や血縁を意識し過ぎて、俺たち全員が孤立してしまったと思う」

 学生時代に何度も務めた学級委員の経験に感謝し、俺は演説じみた主張を続ける。

 「義姉弟として過ごした子ども時代を否定しているのではない。だから……」

 「だったらどうして? やっと、本当の姉弟になれたっていうのに、わざわざ他人になる必要があるわけ?」

 わざともったいぶると、案の定、義姉が口を挟み、俺の主張が中断される。

 義姉のほうがよほど短気だと思うが、それを口にしたら太一が起きてしまう。

 義姉の声は昔から甲高く響くのだ。

 さて次はどう説明しようかとため息をつき、俺は長年目を合わせられずにいた義兄に目をやる。

 俺をじっと見つめるつけまつげを装備した目に、俺は三十歳にして義兄の本質を感じ取る。

 義兄はその場の空気と人の心に敏感で、なおかつ辛抱強い。

 義姉に何度も罵られても決して逆らわず、常に一歩下がり、俺がどんなに軽蔑しても一度も手を上げなかった。

 幼いころは男である俺に合わせ、チャンバラやキャッチボールなどで遊んでくれた。

 それは義兄が俺たちの中で唯一、姉弟というものを大事にしていたからだ。

 堤明夫はただ怯えているだけではない。心優しい俺の義兄なのだ。そして誰よりも賢い。

 「姉さん。陽一の話を最後まで聞いてあげて……ください」

 義兄はやはり俺の主張を読み取っていたのだろう。

 恐る恐る義姉に体を向け、俺のために頭を下げてくれた。

 義姉はその言動に驚きを隠せず、しゃっくりをするように声を詰まらせる。

 俺はその隙に再び口を開く。

 「これからは義姉弟としてではなく、三人の人間として支え合うんだ。ほら、ことわざにあるだろう? ええと確か……」

 「『遠くの親戚より近くの他人』よね? それくらい知っているわ。でもそれは……」

 義姉はうんざりした表情で二度も口を挟んだが、今度は反論の途中で息を呑む。

 「陽一、まさか……?」

 ようやく気付いてくれたのだと確信し、俺は目を見開き、首を大きく縦に振る。

 「そう、俺たちは昔からこのことわざそのものだったんだ。悪い意味でね。でも義姉さん、義兄さん、これからは良い意味で同じことわざを生きるんだ。義母さんはきっと、それを伝えたかったんだよ」

 俺は自分が言った言葉に気持ちが昂るのを感じ、上半身を覆うジャケットの上で拳を握る。

 ジン、と熱が染み渡った目で見ると、義姉と義兄までもらい泣きをしている。

 つけまつげを使っても完全な女になっていない顔だが、義姉と並ぶと本物の姉妹に見えるので不思議だ。

 「陽一、偉そうなことを言っているけれど、あんたが私たちのことをなんと呼んでいるのか分かっているの?」

 「『義姉さん』に『義兄さん』よ? あたし……はどんな呼び方でも良いけれど」

 「でも明夫……『オカマ』はさすがに傷付いたでしょ? その……悪かった、わね」

 「そんな、あたしが心配をかけてばかりだから……姉さん、ただでさえ神経質なのに、その歳で髪が真っ白になったら大変よ」

 かつて見たことがないほど朗らかに笑う二人に未来の幸せを垣間見えたような気がして、俺もつられて頬が上がった。

 「あ! そう言う義兄さんだってほら『姉さん』って……」

 これほど穏やかで澄んだ声だったのかと思い、俺は義兄に指摘する。

 「陽一こそ、また……」

 「もう、あんたたちなにを言い合っているのよ!」

 三人で交わる会話が可笑しくて、俺たちは喉が震えるほどの笑い声を上げた。

 俺たちを支配していた負の呪縛は、いつの間にか消え去っていた。

 俺たち三人が本物の姉弟となり、また心が一つの仲間になった一日だった。

 窓から夜空を見上げると、数多の星が眩しいほど輝いていた。

 大人の声で目が覚めた太一も、別の窓から同じ星を眺めていた。

 同じ屋根の下で。

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