第6話郁子
私は二十歳になるまで、四十歳で亡くなった母親に振り回されて生きてきた。
父親は戦時中に出兵し、そこで命を落とした。
私の母親、堤志津子は未婚で私を産み、実家に預けた。
確か私が三歳のときに祖父母が亡くなったと思うが、母親に引き取られて以来、私には笑顔の記憶がなかった。
年齢を重ねるにつれ理解したのだが、母親は戦後の復興に励む時代では珍しく、児童虐待を先駆けた人だった。
酒や煙草が切れると私に物を投げたり、大声を上げて地団駄を踏み、金を請求した。
ちなみに母親は働かず、私がひらがなを覚えるよりも先に靴磨きや家事手伝いの仕事をして生計を立てた。
だけど当時貧しかった日本には、たかが小間使いで生活に十分な金を稼げる子どもは一人もいなかったと思う。
母親はきっとそんな状況を理解できなかったのだろう。金を差し出さなければ私を殴り蹴って憂さを晴らした。
そして後日、酒屋を営む店という店から、母親が盗みを働いたという連絡を受け、私はその店すべてになけなしの金から少しずつ酒代を払った。
もちろん母親は反省というものをまったく知らず、また知ろうともしなかった。
「なによ! 私の遊びにケチつけるの?」
私がどんなに説得しても、そう声を荒げるばかりで、母親は何度も同じことを繰り返した。
店を通して母親の「小遣い」を差し出す生活に、私の食費が残るはずもなかった。
仮に金が残っていたとしても、母親が私の食事を用意するはずかなかった。
それでも私がどうにか餓死しなくて済んだのは、近所の主婦から蒸かし芋を一日一本分けてもらったおかげだ。
現代の子どもたちには信じられないだろうが、当時肉や卵は高級品。
チョコレートやキャンディーなどのお菓子は、我が物顔のアメリカ兵が路上にばらまき、子どもが拾って食べるものだった。
人手や肥料不足で作物が育たなかったので、誰もがご飯や「おやつ」代わりに芋を食べて飢えを凌いできたのだ。
だけど母親は最期まで自分の力で生きようとしなかった。
「なんで私の言うことが聞けないのよ! 早く金を持って来い! 私を助けろ!」
男を作っては捨てられ、酒を飲んでは私に当たる。
急性アルコール中毒で息を引き取る瞬間まで、昼夜問わず叫び、そのサイクルを繰り返した。
母親の死後わずか半年で、母親が生前万引きした酒の弁償を全額済ませた。
だがそのころの私はすでに、黒により濃い黒を混ぜたような心になっていた。
これまで住人は私を芋で釣り、母親が酒を盗みやすいように仕向け、私から必要以上の金を取っていたのではないか。
母親が死んで口実がなくなったので、住人たちが満足する額を払った私に声をかけなくなったのだろう。
実際、私の日々の糧であった蒸かし芋は途絶えた。
いつの間にか私は疑心暗鬼になり、他人から自分の身を守ろうと心の壁を作っていた。
さらにその壁を厚くしようと、私は仕事以外では人目を避け、支払いを終えた翌月に貯金を始めた。
ちなみに私は中学の卒業後、中小企業の工場で働いていたが、バブルの最盛期だったので、どの職業でも夏冬のボーナスだけで相当の金額が貯まった。
それに加え母親のなれの果てを知っている私は、酒や煙草、遊びなどの類に一切手を付けなかったので、バブル崩壊後の生活に狼狽えることがなかった。
幸いにも失業や経済力の衰退に嘆く国民の一人にならなかったものの、私の心身は札束の棺桶に収められたように生気を失っていた。
どれほどの蓄えがあっても楽しみがなければ意味はない。
それでも金で心の壁を作らないと落ち着かない。
幼いころから生きる喜びを知らなかったのだから、このまま死んでも支障も未練もない。
結婚していなければ、出産もしていない。
この先もそのような予定がなければ、私の死を悲しむ人など存在しない。
虚しい私の人生など、早く散ってほしい!
私は何度もそう思い、二十代まで暗雲に閉じ込められて生きてきた。
三十歳になっても願いが叶わずしぶとく息をしていた私だったが、どういうわけか家族というものを意識し始めた。
結婚だの、出産だのと互いにプライベートを明し合う同僚たちの会話が耳に届いたからなのかもしれない。
それにしても女心すら芽生えていなかったのに、母性に目覚めかけていたなんて、可笑しいとしか言いようがなかった。
私の母親になかったものが娘の私に受け継がれるはずがない。
その私から生まれたら、子どもは私のように苦しむに違いない。
笑顔で幸せを語り合う同僚への嫉妬が湧き上がり、私は三十二歳で私自身の変化を認めるようになった。
太陽の日差しが届いた、暖かい家族がほしい!
それがどんなものかも知らずに、四十歳で母親になるまで願い続けた。
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