第5話陽一

 「・・・・・・あ、ちょっとコレ、持っていてくれ」

 太腿の温もりがずれ落ちるのを感じ、俺は四隅が黄ばんだ養母の遺書を晴美に預ける。

 もう一度視線を落とすと、太一が正座して眠っていた。

 俺は太一を抱え、収納場所が変わっていない布団を敷き、そこに太一を横たえる。

 この無垢な寝顔の太一は、この世で唯一俺と血肉を分けた息子で、俺の太陽だ。

 抱きしめれば、心まで温かくなる。

 太一のためならば、なんでもできるという自信が溢れてくる。

 太一が駆けると、俺まで走りたくなる。

 太一の笑顔が咲くと、俺の硬い、硬い皮膚の筋肉まで解れてしまう。

 そんなやんちゃで自由気ままな息子と俺には、一つ共通点がある。


 自分を産んでくれた母親の顔を覚えていないことだ。


 太一の母親、堤美空は三年前急な病で亡くなった。それでも太一には父親がいる。

 俺が側にいることで、美空との思い出話をいつでも、望むだけ聞かせてやることができる。

 だが俺には実母どころか実父が存在していたのかも確かではない。


 俺が生まれた直後、児童養護施設の前に捨てられたそうだ。

 二歳で養母に引き取られ、それを知ったのは十歳のときだった。

 初めて養母に告げられたとき、俺は信じられなかった。

 信じる理由がなかった。

 遊びに出かけもせず、ただ俺たちのためだけに働いてくれる他人なんかいないと思っていたからだ。

 養母の告白が嘘であることを流れ星に願った夜、俺は姉だった晴美と兄だった明夫に尋ねてみた。

 すると二人は俺の願いをいとも簡単に壊した。

 それだけではなく、堤家の子ども全員が誰とも血縁関係がないことまで明かした。

 さらに晴美は追い打ちをかけ、証拠を見せた。

 家にあったアルバムすべてには、俺たちが生まれて間もないころの写真が一枚もなかったのだ。

 俺の一番古い写真は二歳、晴美と明夫は十歳のときだ。

 俺はショックで閉口し、真実を認めざるを得なかった。

 一方、養母には罪悪感や気まずい雰囲気がなく、翌日以降も、今までと同じ態度だった。

 躾は非常に厳しく、特に金銭感覚と道徳に関しては一切容赦しなかった。

 八歳のときから小遣い帳の記入を義務付けられ、一円でも無駄にしようものなら、翌月の小遣いからその分を引かれた。

 道徳では怠惰や欲、差別を激しく嫌い、女のような明夫を白い目で見たり、周囲の家庭環境などに対する偏見を仄めかすと、養母の雰囲気と周囲の風景が激変した。

 室内であっても養母の頭上を暗雲が覆い、龍のごとく雷鳴が俺の耳に響いた。

 さらに噴火する火山が俺と養母を囲い、足元では地面がヒビ割れるように感じた。

 頬を平手で叩かれ、延々と俺の言動の理由を詰問された。

 世界中の自然災害をかき集めたかのように、子どもだった俺は誰よりも養母が怖かった。

 養母は決して贔屓しなかったから、晴美と明夫もきっと同じことを思っていただろう。

 だが俺たちが道理に叶う行動をしたら、養母は誇らしげに喜んだ。

 例えば、道に迷っている人に目的地までの説明をその場で行ったり、歩道橋で高齢者の荷物を持ってあげることだ。

 自分より年下の同居人が存在する晴美と明夫に関しては、堤家の最年少である俺に勉強を教えることで養母を満足させた。

 俺に対しては、縁もゆかりもない他人に手を差し出すことを道徳とし、それが皮肉にも現職にも活かされている。

 養母とは血の繋りがなく、彼女自身は結婚もしなかったが、本当の母親のようだった。

 それでも俺はクラスメイトの家庭環境を妬み、両親が揃い血縁関係がある家族を夢見た。

 平凡を求めた俺は常識を重んじる友人を選び、地元の高校を卒業した後は公務員試験に合格し、市役所に就職した。

 職場環境に恵まれた俺は平凡と常識をより貴ぶようになり、結婚しても子どもを産まない晴美や、非凡の極みに生きる明夫をより一層煙たく思うようになった。

 未婚の母として生きた養母に対しても同じ感情を抱いた。


 俺には肉親などいない。だからこそこれからの人生を平凡に戻そう!


 己の信念に従って行動していくうちに、俺は一人の女性と出会った。

 美空が俺の部署に移動してきたのだ。

 彼女の青空のように明るく、おおらかな性格に惹かれた俺は、二年の交際を経て結婚した。

 息子の太一が生まれると、ハイハイや立っちなど、成長の一つ一つを美空と一緒に喜び、すべて写真に収めた。

 幼いころから夢見た家族に囲まれ、俺は至福を噛みしめた。

 だが太一が二歳のとき、美空は半年に渡る治療の甲斐なく息を引き取った。

 俺は悲しみのフラッシュバックを恐れるあまり、美空を冒した病名を思い出せない。

 当時俺はノイローゼ気味になっていたが、美空は病を患ったとは思えないほど毅然としていた。


 「あなたがしっかりしていないでどうするの? その固い頭をなんとかしないと、筋肉まで硬くなって動かなくなるわよ。それに太一まで全身ガチガチのお地蔵さまになったら、あなた一人ぼっちで寂しいでしょ?」


 自分の死期を悟っていたのか、美空は痩せた顔で笑い、そう言い遺した。

 俺は、世界が、全宇宙が崩れていくのを感じた。

 平凡と幸せを失った瞬間だった。

 静かに横たわっていた美空が瓦礫に埋もれ、俺と太一が無の空間に取り残されたようだった。

 当時太一が俺の側にいなければ、願いを実行していただろう。


 自ら命を絶って、美空に会いたい!


 だが、そんな俺を太一が引き留めたのだ。

 「太一、危ないだろう! お父さん、今包丁を持っているんだぞ!」

 俺が声を荒げても、太一は足を止めなかった。

 ちょうど歩きだしたころだったので、動く視界が面白かったのだろう。

 自我がいまだ芽生えず、恐れを知らなかった太一は迷わず俺に近付いてきた。

 「太一! あっちに行っていなさい!」

 それでも太一は俺の言うことを聞かず、その場に座り込み、俺は包丁を隠すように置いた。

 キャッキャと笑い声を上げ、手を叩く姿に、俺はハッとした。


 母親を病で亡くし父親の俺まで命を絶てば、太一は孤児になってしまう。

 養子だった俺と同じ子ども時代を、たった一人の息子に送らせることになる。

 両親の顔を忘れ、血縁者を求める寂しさを感じさせてしまう。

 仮に養親が引き取ったとしても、太一は揺るがない事実にショックを受けてしまう。俺のように。

 俺は尻の近くに隠していた包丁をあるべき場所にしまい、太一を抱きしめた。


 俺にはまだ、太一という幸せの星が残っている。

 太一のために生き、なにがあっても守り抜こう!


 固い誓いを己の信念に加え、俺はこの三年間を太一と二人で歩んできた。


 ーーそれなのに、義母さん。


 子どもを産まない晴美や道を外した明夫はともかく、なぜ義母さんは未婚の養母となり、平凡な人生を選ばなかったのだろうか。

 養子として育ち、妻に先立たれた俺でさえ手に入れられたこの幸せを。


 遺言の内容が事実であれば、義母さんも望んだはずなのに。




 太一が眠っている部屋の襖を閉めた陽一は、晴美と明夫がいる部屋に戻り、晴美から私の遺書を受け取った。


 さて、私は子どもたちの変化を大人しく待つとしようかね。

 私が書き遺したものの一つ、私自身の遠い過去を振り返りながら。

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