第2話出会い
晴美が十歳のとき、私は四十歳で母となった。
当時の晴美は全身痣だらけで、怯えた目で私を睨んでいた。
なんでも、晴美は実の両親から暴力を受けていたという。
おかしいと感じた近所の住人が児童相談所に通報し、児童養護施設に保護されたのだ。
だが日が経っても晴美の心身の傷は一向に癒えず、施設の子どもたちや大人と馴染めずにいると、職員が耳打ちした。
世界のすべてを拒みながらも、人の温もりを求めずにはいられない晴美の目。
私は他人事に思えなくて、気付いたときには晴美を抱きしめていた。
傷を負いながらも生きている確かな温もりと、遠い星のような淡い輝きを感じ、私は決意を口にした。
「今日からおばちゃんが、晴美ちゃんのお母さんよ」
割烹着が似合う母親になって、この子と一緒に家族の温もりを得よう。
独りよがりの思いが強く、晴美は私の肩に涙を零した。
その日の夕方、我が家に帰ろうと私が立ち上がったとき、赤く腫れた晴美の唇が目に留まった。
私の腕の中で、声を出すまいと唇を噛んで泣いたのだろう。
素直に甘えられず強がる姿がいじらしくも愛おしくて、私は晴美の手を離すまいとしっかり握った。
泣いていたせいか、晴美の小さな手は熱くなっていた。私はそれが、心地良かった。
その二年後、堤家に家族が増えた。
当時十歳になったばかりの明夫だ。
今思うと、私と晴美のどちらかが男であれば、明夫を堤家に迎えることはできなかっただろう。
なぜなら、明夫は里子や養子として引き取られた先々で、男性から性的虐待を受けていたからだ。
世間で知る人は少ないが、里子への冷遇や虐待で問題になる里親が多い。
中でも年端もいかない女の里子に手を出す男親は後を絶たない。
日本の里親制度では虐待防止のため、里親に基準を設けているが、それでも問題を解決できていないのが現実だ。
里親制度や児童養護施設の職員をなに食わぬ顔をして欺いた男たちが、男である明夫までも傷付けた。
明夫には性同一性障害の疑いがあり、アンバランスな心と体を面白がられていたのではないか、と職員は推測した。
それまで私は里親の実態や性同一性障害のことをほとんど認識していなかったが、怒りという怒りが湧き上がった。
明夫の心と同じ女としての同情だけではなかった。
人として、許せなかった。
晴美と暮らしていくうちに、私はすっかり根っからの母親になっていたのだ。
性の障害に不安はあったものの、明夫を私の子どもとして育てたいと切望した。
その後の私の行動は早かった。
三ヶ月ほど仕事の合間に施設へ通い、ときには晴美を連れて明夫に会いに行った。
最初は当時の晴美以上に怯えた目をして、明夫は木や物陰に隠れて遠くから私を覗き見していた。
耳から片目までの顔の一部しか見せてくれなかったので、職員が教えてくれなければ、私は明夫本人だと分からなかっただろう。
実は明夫の事情を初めて聞いたとき、私は明夫自身とは対面すらしていなかった。
いや、できなかった。
私は晴美の成長を頻繁に報告していたので、施設の職員は私への信頼で口を開いたのだろう。
けれどそれは、極めて危険なことだった。
人選を一歩間違えれば、子どものプライバシーの侵害になるが、明夫を救ってほしい一心で賭けたのだと思う。
その甲斐あって、明夫はようやく私に姿を見せた。少年の姿だった。
まだ人を恐れる目をしていたが私はわずかな変化が嬉しくて、明夫の前で涙を流してしまった。
私はそれを誤魔化すように笑ってみせたが、泣き止むことができなかった。
明夫が私にハンカチを差し出してくれたのだ。
言葉も笑顔もなく、まるで檻の中に住むライオンに餌をやる手だったが、明夫の優しさが十分に伝わった。
私はただ嬉しかった。
明夫なりに心を開こうとしてくれたこの瞬間は、母親としての生涯の支えとなった。
この先なにが起きても、必ずわが子を守ってみせる、という誓いに変わった。
さらに半年後、私は二歳になった陽一を堤家に迎えた。
このころバブルが崩壊し、両親が揃う家庭ですら子どもを三人も育てるには厳しい時代になりつつあった。
だが私はバブル最盛期のボーナスをすべて貯金に回し、さらにリストラを免れたので、どうにか一人で三人を育て上げられた。
さて、堤家の次男になった陽一だが、姉弟の中で唯一、実親の顔を知らない。
生まれて間もなく捨て子となり、児童養護施設に引き取られたのだ。
もちろん、陽一が実の両親の顔を覚えているはずがない。
物心が付く前の無垢な笑顔は、姉弟として中々馴染めずにいた晴美と明夫の緊張を解した。
陽一をあやす幼い二人の姿に、私はようやく「温かい家族」をこの目で見ることができた。
同時に、養子という免れない事実に葛藤するであろう三人の未来に胸が酷く傷んだ。
とくに陽一はきっと衝撃を受けるかもしれない。なにしろ、このときはまだ、私を実母、晴美と明夫を実姉と実兄と思っているはずだから。
いずれ真実を知る陽一を始め、三姉弟はいつか、他人になるかもしれない。
それでも母親として、この姉弟が幸せになれるよう導こうと、私は改めて誓った。
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