星よ
加藤ゆうき
第1話三姉弟と遺言
プロローグ
耳は一層聞こえにくく、視界はさらにぼやけてくる。
まるで宇宙の果てに連れて行かれる感覚だ。
・・・・・・そうか、ついに来たのか。
待ちわびていたころは永く、いざ諦めてしまうと瞬く間のようなときが。
未練はない。
ただ、少しばかり心配ではあるが。
さあ、子どもたち。
私が長年かけて準備した贈りものを受け取りなさい。
もうすぐ私は遠くに行ってしまうが、きっとどこかで見守っていよう。
私の星たちよ。
第1話 三姉弟と遺言
二日後、十数年ぶりに家族が揃った。
五年ほど世話になった病院から、私、堤郁子の訃報が届いたからだ。
私の予想通り斎場では、家族は棺桶の中を覗いても涙一つ流してなどいない。
その中でも、涙どころか棺桶に顔すら届いていないおチビさんもいる。
棺桶に入っている遺体を見たところで、五歳児には死の意味など分かるまい。実際に、当の本人は私よりも見慣れない斎場の風景に目が移っている。
なにしろ、質素な葬儀とはいえ、菊の花輪がずらりと並んでいるのだから。
幼い子どもには迫力があり、なにか魅力でも感じるのだろう。
おチビさんの名前は堤太一、私の孫だ。
太一が走り回らないよう手を繋いでいるのは、太一の父親で私の末息子、堤陽一だ。
矯正したように整えられた短髪、長方形のレンズに黒縁の眼鏡。みるからに融通の利かないこの男は三十歳にして、嫁に先立たれて三年になる。
その隣に立つのは私の娘、朝田晴美。
先月四十歳になったばかりの晴美に、子どもはいない。
しかも婿が義母である私の葬儀に参列しないのは、夫婦仲が冷えきっているからだろう。
眉間には皺という皺が深く刻まれ、目は狐のように吊り上がっている。
晴美の血相は鬼が現れたのかと思うほど恐ろしい。
本来、晴美の顔立ちは悪くないはずなのだけれど。
まあ、原因は夫婦仲だけではないようだが。
姉弟の背後から私を見ているのは、長男であり次女堤明夫、三十八歳。
明夫の外見はほど良く筋肉が付いたスマートな男だが、心は昔と変わらず女のままだ。
それゆえに明夫は幼いころから複雑な表情を見せてばかりで、姉弟で最初に家を出た。
きっと、たった一人で己の違和感と闘っていたのだろう。
姉弟の中で群を抜いて賢かった明夫は、その後会社を興したらしく、社長として毎日仕事に励んでいる、と数年前にはがきが届いた。
どのような業種なのか、私には良く分からないが、経営はおそらくうまくいっているのだろう。
明夫は身体的な女性以上に洗練され、喪服がドレスのように美しい。
晴美、明夫、陽一。
この三人は姉弟だが、誰も私と血が繋がっていない。
三人は幼いころ、児童養護施設から私に引き取られた養子なのだ。
それを知っているせいか、思春期のころから私とも、姉弟間でも深い溝ができている。
今日、この溝がどう変化するか、私は見届けるとしよう。
葬儀の後、私は棺桶ごと霊柩車に乗って斎場を去った。
「乗って」といってもそこにあるのは私の脱け殻だけで、私自身はこうして浮遊している。
七十歳にしてこれほど身軽になるとは、生前では考えられなかった。
おかげでこうして、へそを曲げた子どもたちの様子を見ることができる。
おお、火葬場に着いたか。
ワゴン車を降りる様子からして、子どもたちは移動中、一言も会話がなかったようだ。
車内では四隅に座り距離を保っていたのだろう。
晴美と陽一は顔をしかめ、明夫は肩を縮めて内股でワゴン車を降りる。
一方、孫の太一は陽一に抱かれて、すやすやと眠っている。
険悪な雰囲気が漂っていただろうに、なんと無邪気な寝顔だ。
少々鈍感なのか、それともとんでもない大物なのか。
どちらにしても内面は父親似ではない。
火葬の途中で目が覚めては私のお骨拾いまでの間、差し出されたおにぎりを美味しそうに頬張る太一。
実に子どもらしく気ままな様子には、亡くなった嫁の面影がある。
この堅物な男とよく結婚してくれたものだと思うと、もったいなくてなんだか申し訳ない。
さて、太一を抱えた陽一を含め三人の姉弟は、見違えるほどコンパクトになった私と遺影を前にどうするのか。
『おお、見える、見える』
その様子が予想通りなので、私は思わず呟いてしまった。
『おっと』
死者の声が生きた人間の耳に届かないことを分かっていながら、反射的に口を両手で覆う。
年老いた目が野次馬根性を剥き出していないか、念のため目尻の皺を伸ばし隠しておこう。
私が身だしなみを整えている間も、子どもたちの声はこうして自宅から私の耳に届いている。
「私は受け取らないわ! あの人が本当の親でもないのに」
「それは自分だけではないだろう? 俺らは皆……養子なんだから」
癖のある髪の毛が鬼の角のようになっている晴美は、被害妄想に陥っているため声が甲高い。
それを弟の陽一が諌めるが、途中で自虐的になり、声が沈んでしまう。
当然、晴美の興奮は静まらない。
「そんな分かりきっていること、今さら言わなくても良いでしょ!」
「とにかく静かに話せ。子どもの前だぞ」
「うるさいわね!」
晴美は首を大きく振り、狙いを定めるように眼光がより鋭くなる。
「明夫!」
「えっ?」
晴美が叫ぶと、部屋の隅で俯いていた明夫は驚いて、顔を上げる。
最近の若い娘に欠かせないらしいつけまつげが、怯えるように震えている。
そんな明夫を煽り、晴美は私の遺影がある背後にビシッと指を指す。
「明夫、あんたが私と陽一の代わりにこの人の遺産を受け取りなさい! 私たちは所詮他人同士、なにも分け合う必要などないのだから。それが嫌ならば、仕方がなく私と陽一の二人で処分してあげるわ」
「そんな、あた……自分は」
晴美の押し付けに反論しようとするが、明夫はいまだ自分のことを「僕」や「俺」と呼ぶことができず、俯いてしまう。
「なに? 『自分は会社がうまくいっているからお金は要りません』って言うの? 良いわね、オカマだからっていうだけで珍しがられて儲かっちゃうのだから!」
晴美が見下し嘲笑っても、明夫は膝の上で両方の拳を握るだけでその場から一歩も動かない。
家族として見ると、明夫の内気なところは子どものころから変わらない。
我慢強いと言えば聞こえは良いが、実際はなにもかも胸に抱えては吐き出すことができないだけ。
その明夫が今や二百人ほどの従業員を雇っているというのだから驚きだ。
心根が優しい子だから、自分と同じ立場の人を放っておけなかったのだろう。
晴美は明夫と対照的で気が強く、自己主張もはっきりしている。
私に引き取られる前のトラウマがあるせいか、無意識に自分を守ろうとしているのかもしれない。
おおかた、この調子で婿に八つ当たりでもしているのだろう。
婿があまりにも気の毒で、もし私の姿が見えるのならば、晴美に代わって頭を下げたい。
「おい、誰も遺産を受け取らないのならば、どこかの慈善団体にでも寄付すれば良いだろう? それと明夫、せめてこういうときだけでも男の格好をしてくれ。太一の教育に悪影響が出る」
陽一は明夫に見せまいと、自分と向き合う形で太一を膝に乗せる。
晴美のようにあからさまではないが、陽一もまた明夫に偏見を持っている。
姉弟の中でも陽一だけは、私が告げるまで、家族全員の血が繋がっていないことを知らなかった。
自分が養子だと知った陽一は本来生真面目な性格ではあったが、ショックでますます頭が固くなった。
常識や平凡を重んじた陽一は、高校を卒業すると公務員になり、市役所で勤め始めた。
やがて職場で知り合った嫁と結婚し、太一が生まれた。
この世で唯一血肉を分けた息子の誕生に、陽一はこれ以上ないほど喜んだ。
晴美に見習ってほしいくらいに夫婦仲も良く、今でも嫁一筋らしい。
この性格も生きざまも似ていない三姉弟、特に晴美と陽一は一緒に育った家族を身内とすら認めたがらない。
私のことも単に、育ててくれた赤の他人としか思っていないのだろう。
遠縁であれなんであれ、遺産という、人であれば誰でも欲しがる金を拒むのはそのせいだ。
受けとれば堤郁子の子ども、さらにそれを分ければ堤家の三姉弟だと認めざるを得ない、といったところだろうか。
もっとも、日本の法律では、実子がいない場合、養親の遺産を相続できる養子は二人までとなっているらしいけれど。
陽一の台詞を借りると、サスペンスドラマのようなこの雰囲気のほうが、よほど太一の教育に悪影響が出ると思う。
ただ私の心配をよそに、太一は降ろせ、降ろせ、と両足の踵で陽一の太腿を蹴っている。
子煩悩な陽一は、男親でありながらすぐに息子のサインに気付く。
「どうした、太一。おしっこか?」
「んーん」
太一は首を左右に振り、自力で陽一の膝から降りる。
やんちゃ盛りの太一はなにかに狙いを定めていて、父親の顔を見ようとしない。
「太一?」
陽一の声に振り向きもせず、そのまま全力疾走する。
年寄り一人の家には、おもちゃもゲームもないのだけれどねえ。
だが太一を誘ったものは、そのどちらでもなかった。
くどいようだが、最初からないものは決して見付からないものだ。
壁の前でピタリと止まり、天井に向かって顔を突き上げる。
そして太一は首を固定し、体の向きを四方八方に変える。
もしや……?
私は太一の行動に目を見張る。
「太一、なにをやっているんだ?」
「おとうさーん、あれなーにー?」
陽一が近付くと、太一は人差し指を立て頭上に精一杯伸ばす。
太一が指しているものに視線が辿り着いた途端、陽一は眉をひそめる。
「こんな写真、まだ飾っていたのか……」
陽一が見ているのは、子どもたちが小さいころに撮った家族の集合写真。
三人とも独立し、私が入院で家を空けた後も、額縁に入れたまま壁にかけていたのだ。
「あら! こんなもの、とっくに処分していたのかと思っていたわ!」
晴美も写真に近付き、汚いものを見る目で吐き捨てる。
明夫は一歩も動かず、惨めそうに座っている。
「ちがーう! しゃしんじゃないよ、おとうさん」
二人の大人が壁となり、太一の声が響く。
晴美と陽一はすぐさま太一のつむじを見下ろす。
「違うって、写真以外なにもないわよ?」
ここで初めて、晴美は甥に話しかける。
「だって……」
「太一、一体どうしたんだ?」
晴美と会話をさせまいと、陽一は太一を抱き上げる。
普段気が強い晴美は意外にも、腹を立てていないようだ。
太一には自分の血が流れていない。所詮は他人の子どもだ、とでも思っているのだろう。
私はそんな風に育てた覚えがないのだが。
もし私の声が届くのであれば、真っ先に叱りたい。
一方、伯母に他人と思われているであろう太一は、大人の事情など気にしていない様子だ。
わが孫ながらあっぱれだ。
それよりも自分の言い分を通すことが大事なのか、視界が急激にあがるなり、写真へと手をのばす。
「危ないだろ、太一!」
「ちっちゃいの、しろいのがあるの!」
陽一が息子を落とすまいと抱え直すが、太一は父親の腕から逃れようと両腕両足をばたつかせる。
「太一、いい加減にしなさい!」
陽一が注意しても、太一は聞く耳を持たない。
そんなとき、晴美の目が留まる。
「ちょっと、陽一。もしかしてこれのことじゃない?」
晴美は太一が腕を伸ばしている方向に指差す。
大人に太一の言い分が伝わり満足したのだろう。
太一の両腕両足がピタリと止まる。
すっかり大人しくなった息子を抱いたまま、陽一は晴美の指先に目を凝らす。
「確かに白い……だが、なんだ、これは?」
太一を降ろし、陽一は額縁の外側に触れる。
陽一がゆっくりと腕を下げると、摘ままれた白いものが少しずつ姿を現す。
おや、もう見付かってしまったか。
さすが子どもは目ざといな。
私が額縁に隠していたのは白い封筒、子どもたちが受け取りたがらないはした金なんかよりもずっと大事な遺産だ。
また、私の贈りものを届ける媒体でもある。
晴美、明夫、陽一へ。
「明夫、お前も来い!」
三人宛ての手紙だと判断し、陽一は明夫を誘う。
相変わらず、陽一は明夫を兄と呼ばない。
それは、姉である晴美に対しても同じだ。
そんな陽一に躊躇いながらも、明夫は呼ばれるまま足を進める。
「いいか、読むぞ」
三人の顔が並んだところで、陽一は深呼吸する。
太一は陽一のふくらはぎに腕を巻き、流れに乗って主導権を握る父親の顔を見上げる。
「おとうさん、それなーにー?」
「手紙だよ。太一は静かにしていなさい」
「うん」
「『お前たちがこれを見付けるまで、私のはした金を受け取らない、じゃあどうする、とかでずいぶんと言い争ったのではないか?』」
読み上げる陽一の隣で、晴美は小さく舌打ちをする。
余計なお世話よ! とでも思っているねだろう。
相変わらず明夫は無言で通しているが。
「『私がこれを残したのは、不本意だろうが、血の繋がらない私に育てられたお前たちに、知らせなければならないことがあるからだ。生きた私が口を開けば聞く耳を持たないが、いざこうして逝った私の文字を見れば、読まずにはいられまい……』」
今度は陽一が控えめに舌打ちをする。
陽一、人というのは体が衰える代わりにずる賢くなる生き物なのだよ。
私の小言は聞こえないはずだが、晴美と陽一は反抗心剥き出しの不良の目になる。
一方、明夫は気弱な目からやるせないものに変わる。
まったく、本当に会社では一体どうしているのかねえ。
明夫が社長だなんて、わが子を疑うわけではないが、いまだに信じられないよ。
陽一が渋々読み続け、晴美と明夫が耳だけを陽一に近付ける。
その姿を眺めながら、私は三人が堤家の養子になったそれぞれの事情を振り返ってみよう。
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