番外編4 太一と…… 前編

 私は吉田桜。地域によっては三月の終わりごろに咲く花からとった名前だ。

 私は幼いときからこの名前が大嫌いだった。

 私はなぜか男子に冷やかされるタイプで、よく「さーくらちゃーん!」とからかわれたものだ。

 苗字の「吉田」で呼ばれたことなど、小、中、高で一度もない。

 せめて高校は女子校を選べば良かったのかもしれないけれど、吉田家には娘を私立に行かせるほどの余裕がない。

 何しろ、私には双子の妹がいるのだ。

 名前は私と違って、二人とも花に由来していない。「あい」と「まい」だ。

 一度だけ、両親に訊いてみたことがある。

 どうして私だけ名前が統一されていないのか、と。

 そうしたら、母はこう言った。

 「だって『桜』って可愛い名前じゃない!」

 母は両頬に手を添えて、首を左右に傾げた。

 父は母に賛同するように頷いた。

 「やはり、親としては最初の子どもの命名に力を入れるだろう。そういうものだよ、桜」

 納得できない返答に腹が立つだけなので、それ以来、自分の名前に関して何も訊かないことにしている。

 満開の桜まで憎み高校を卒業した後、私は医療事務として病院に就職した。

 自分の持ち場は女性がほとんどなので、事務室では名前でからかわれることはなかった。

 むしろ「桜」の名前を羨ましがられた。

 けれど、病院の現場ではそうではなかった。

 受付としてカウンターに立つと、当然男性の患者に出くわすことになる。

 そこでもまた老若問わず「さーくらちゃーん!」と言われるのだ。

 同級生の男子が風邪をこじらせて来たときは最悪だった。

 こちらに向けて咳をしながら私の名前を気安く呼ぶのだから。

 この日も男性患者のほうが女性患者よりも多かった。

 おそらく過半数の患者は不摂生な生活を繰り返した結果による体調不良だろう。

 多くの人が熱で顔が赤くなったり、ひたすら咳をしている。

 怪我人らしき患者は見当たらない。

 そんなときに、私は彼と出会ったのだ。

 「堤さーん、堤太一さーん」

 また男性か、と思いながら呼ぶと、背の高い彼が受付にやって来た。

 堤さんは風邪で来院、マスクを着用した珍しい人だった。

 そんな彼は、発言も変わっていた。体温を計ったとき、三十八度も熱があったせいかもしれない。

 「『桜』っていう名前、素敵ですね。僕が女だったら付けてほしい名前ですよ。だって、開花した桜って星の形をしているでしょう?」

 「あの……それ以上話されると、喉に障りますよ」

 言われた瞬間は、彼の言葉の意味すら理解していなかった。また、理解しようとも思わなかった。

 けれど、最後の患者が帰った後。

 従業員しかいない病院の一室にて。

 「桜さん、今日来た男性、格好良かったよね」

 「ねえ、あの爽やかさ! 本当に風邪を引いているの? って訊きたくなるくらい!」

 女性の先輩が数人、私のもとにやって来た。

 「男性ならば、大勢来られましたよ」

 私がかぶりを振ると、彼女たちは揃って首を左右に振った。

 「違うよ!」

 女性が多い職場は利点もあるけれど欠点もある。

 プライベートモードに入った女性同士の会話こそ、その欠点だ。

 私は普段静かに話を聞いているだけではあるが、異性の話だけはどうしても苦手なのだ。

 その苦手な話題が、私のもとに降って来た。

 「ほら、あなたの名前を褒めていたじゃないの! えーと……」

 「『星に似ている』よ! 考えてみればそうよね。爽やかな人は言うことが違うわぁ」

 「あ、あの、お先に失礼します」

 盛り上がる先輩たちから逃れようと、私はそそくさと職場を離れた。

 早く逃れたかった。あの言葉から。あの異性の話題から。

 自宅に着くと、双子の妹が私を出迎えてくれた。

 「お帰り」

 「お帰り、桜姉ちゃん」

 「ただいま」

 場所や私を囲む人こそ変わったけれど、私を呼ぶ名前は変わらなかった。

 早く一人暮らしをしたいな、とこういうときいつも思う。

 けれど若いうちに貯金をしておきたいので、こうして就職した今でも実家から通勤している。

 妹の一人が名前を呼んだせいで、私は堤さんが言った言葉を思い出した。


 「『桜』っていう名前、素敵ですね。僕が女だったら付けてほしい名前ですよ。だって、開花した桜って星の形をしているでしょう?」


 彼の声がいつまでも脳裏から離れなかった。


 一週間後、彼は再度診察のために病院に来た。

 先週よりは顔色が良くなっているものの、相変わらず変なことを言う人だった。

 「本当に素敵ですね。周りの男性がからかう理由が分からない」

 あまりにも純粋な笑顔で言うので、私は返す言葉が見付からなかった。

 その様子を見た女性事務員はあろうことに、私と堤さんにテラスで話してはどうか、などと言ってきたのだ。

 不運にもこの日は土曜日で、堤さんが最後の外来患者だった。

 私は先輩の言葉に不服ではあったけれど、従うしか他になかった。

 それが、女性が多い職場で生き残る道だと、成人した今、十分に理解していたから。

 一方、堤さんは先輩の提案に嬉しそうだった。

 マスクを外していたら、そのときの笑顔がはっきりと見えたのに、と不意に思った。

 早速、私と堤さんは院内のテラスに移動した。

 私はそこで、些細だけれど気になることを訊いてみた。

 「あの、この前は『開花した桜って星の形をしている』と仰いましたけれど、八重桜はどうなるのですか? 花びらが多すぎて星どころではないと思いますが」

 すると、堤さんは目を輝かせてこう言った。

 「良いところに気が付きましたね! 確かに八重桜は星の形とは言い難いですが、あくまでそれは一例です」

 「どういうことでしょうか?」

 「星の形は一つではないということですよ」

 彼は私をますます混乱させた。

 私の名前を星と断言しておいて、一例だと言うのだから。

 私は一刻も早くこの場を去りたかった。けれど、なぜか体が言うことを聞かなかった。

 「僕の名前、ご存知ですよね? 太一の『太』は太陽に由来して名付けたと、父が言いました。太陽も恒星、つまり星の一つです。だから八重桜も星に似ていると思うんです。だって、太陽の日差しとか、夜空の星の輝き方とか、八重桜にそっくりでしょう?」

 私は思わず彼の言葉に引き込まれた。

 そうか、太一の名前はそういう理由で付けられたのか、など彼の言葉一つ一つに感心して頷いていた。

 そして私は呟いてしまった。

 「堤さんって、学校の先生みたいな話し方をするのですね」

 すると、彼はクスッと笑った。マスクを大きな手で覆って。

 「だって僕、中学校の教師をやっていますから」

 彼にとっては特別な返事ではなかったと思うが、私にとってはなぜか貴重な情報を得た感覚だった。

 それに、これまでろくに異性と話したことなどないというのに、不思議なことに彼が相手だと次々と疑問や言葉が思い浮かび、口に出るのだ。

 彼は私の質問に一つ一つ丁寧に答えてくれた。

 会話の内容から推測すると、おそらく理科を担当しているのだろう。

 彼の口からは頻繁に「星」や「恒星」という言葉が出てくるからだ。

 それも彼本人に尋ねた。

 すると彼は頷き、また理科の教師になろうとしたきっかけを打ち明けた。

 「人間はそれぞれが輝く一つの恒星です。山あり谷ありの人生でも、地球が四季を繰り返しているようなものです。そう考えた祖母の遺言を解明したくて、理科の道と教師の道、どちらも選んだのです」

 その割には、彼は私に対して決して難しい専門用語を口にしなかった。

 そんな彼の優しい声をいつまでも聞いていたい、となぜか思ってしまった。

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