番外編3 陽一の手 後編

 休日が明けた月曜日。

 俺の職場は職場でなくなってしまった。

 ある女性市民が、戸籍変更の手続きにやって来たのだ。

 最初は事情を把握していなかった女性職員が対応したが、書類を見た途端、その市民に「少々お待ちください」と言った。

 そして星野を指名したのである。

 スーツを着た星野が、怯えながら窓口に向かおうとした。

 俺はその瞬間を逃さなかった。

 「星野、ここは俺がやる。お前は黙って見ておけ」

 俺が星野の肩に手を置くと、星野の「でも」という弱々しい声が聞こえたがあえて無視した。

 「どうも、お待たせしました」

 俺は女性市民の対応をした。

 提出された書類を見ると、女性職員の不自然な言動の理由が分かった。

 この「女性」市民は、かつて男性だったのだ。

 性の戸籍変更は、性転換手術をして生殖能力がないと認められて初めて可能となるものだ。

 手術を受けた彼女は、立派な女性となるべく市役所にやって来たのだ。

 彼女が市民である限り、職員による偏見は許されない。

 それは、女性が「男性」に変更される場合でも同じことだ。

 「では手続きに入りましょう。まず……」

 その後、俺は職員全員を激しく叱咤した。

 「お前ら、市民を何だと思っている! どんな事情であれ、彼らがいるから市が成り立つのだろうが。もっと市民を大切にしろ!」

 俺はこの発言でどのような噂をされても構わない。

 部下に、今までとは違う俺のプライドを共有してもらうために。

 俺は星野を背中に隠した。

 「お前らもまた、市民の一人だ。今後市民を中傷するようなやつがいたら、よその部署に飛ばすからな!」


 昼休み、俺は星野を探して持ち場を離れた。

 部下には「陰気くさい空気を吸いたくない」と言っている。

 もしかして、と思って屋上に行くと、俺の予想通り、星野は屋上の柵に身を傾けていた。

 俺は慌てて、星野の腕を引っ張った。

 すると星野は驚き「わっ」と声を上げた。

 「危ないだろうが」

 「主任……」

 振り向いた星野は涙を流していた。

 そこまで、星野は追い込まれていたのだ。

 俺がもう少し気付くのが遅れていたらどうなっていたか、考えるだけでも恐ろしい。

 「自殺は許さねえぞ、星野」

 「どうしてですか?」

 「まあ、いいから座れや」

 俺は掴んだままの星野の腕を地面に押した。

 「まず、お前の話を聞いてやる。お前の本音を俺にぶちまけろ」

 俺が星野の腕を掴んだままなので、星野に逃げ場はない。

 嘘の真偽ではなく、彼の心の声を聞くまでは話すつもりはない。

 星野はそれを理解したのだろう。掠れた声を絞り上げた。

 「噂は本当なんです。俺、昔からおかしくて。女物の服を着ると落ち着くというか、これが自分なんだって実感するんです。うちは頑固な両親のもとで育ったので、女装は一人暮らしをしてから始めたのですが……あの、主任は俺のことを気持ち悪がらないのですか?」

 「別に」

 「どうしてですか? 以前の主任は両親のように頭が固かったではありませんか! そんな人の下で働いていると思うと、いつかこの癖が知られるのが恐ろしくて堪らなかったんですよ? 最近の主任は変わっています」

 星野は離せ、と言わんばかりに掴まれた腕を振り払ったが、解放されることはなかった。

 俺が全力で圧力をかけたからだ。

 その代わり、俺は不自由な手に小さな紙を持たせた。

 「いいか、まずはここで『あみ』というやつを指名しろ。俺の紹介だと言えば、すぐに分かるから。上司命令だから、そこに必ず行けよ」

 俺が星野に渡したのは兄があみとして活躍する会社の名刺だ。

 「いいか、一度しか言わないから、良く聞け。自殺なんて一切考えるな。そんなことしたらその先の幸せなんて二度とやって来ないぞ。これは俺が既に体験しているから、この言葉は保証する」

 星野はぽかんとした顔で俺を見上げた。

 だが、星野にはきっと俺の表情が見えないはずだった。

 この日は晴天で、俺自身が太陽の光を浴びていたから、逆光に隠れていたと思うからだ。


 そして一週間後。

 俺の部下である職員は二度驚くことになった。

 一度目は俺まで驚いた。

 啜っていたコーヒーを思わず気管に入れてしまったほどだ。

 俺は何度も咳をしながら、瞬きをした。

 あろうことか、星野が女装して出勤してきたのだ。この市役所に。

 俺は一瞬、兄が来訪したのかと思った。

 それほど、星野の女装はしっくりしていた。

 「この馬鹿者! ここをどこだと思っている! 遊びに来ているんじゃないぞ!」

 俺の部下の一人、男性職員が怒鳴り散らした。

 幸いにも開所前だったので、一般市民は誰一人としていない。

 部下は先日より口酸っぱく言われてきた言葉を見事に忘れているようだ。

 他の職員も、男女問わず同様だった。

 本人の前で陰口を言い合ったり、指差して中傷したり、反応は人それぞれだった。

 けれど星野本人はけろりとしていて、颯爽と自分の席に着いた。

 堂々とした姿に、俺は思わず言った。

 「星野、お前似合っているじゃん……」

 「ありがとうございます!」

 星野は嬉しそうに微笑んだ。

 その会話に、部下たちは二度目の驚きで狼狽えてしまった。

 「主任、一体どうしたんですか?」

 「メガネ、壊れているのではありませんか? お仕事に障りますよ」

 「なんだ、お前ら、不服か? 市民には多様性があるんだ。暇を見付けて福祉事務所に行ってみろ。あそこは市民の個性オンパレードだぞ」

 今度はコーヒーが俺の喉をきちんと通った。

 「で、星野。今後はどうするんだ? 希望の星、見付かったんだろう?」

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