番外編3 陽一の手 前編

 カタカタと鳴るパソコンのキーボード、入れ替わりにやって来る市民、発行される多数の書類。

 俺にとっては、変化のない職場の日常だった。

 この日までは。

 俺は市役所にてある部署の主任を務めている。

 だから、部下の働きぶりを監視する義務がある。

 そこで発見したのだ。

 一つの変化を。

 「ねえ、聞いた? 星野さんのこと」

 「彼でしょう? 驚きだよねー!」

 市役所への来訪者が減りつつある閉所三十分前、女性職員がひそひそ話を始めた。

 話題は俺の部下の一人、星野という男性だ。

 俺は注意するタイミングを見計らって、彼女たちの会話に耳を傾けた。

 根も葉もない噂を断ち切るのも、俺の役目だから。

 それが、衝撃を与えるとも知らずに。

 「おい、いい加減にしろ!」

 俺が勢い良く立ち上がると、女性職員は、きゃあ、と声を出して慌てて自分たちの業務に戻った。

 星野は端の机で俯いている。

 嘘だろ、と俺は思った。

 星野が女装しているなんて。


 三日後、月曜日に出勤すると、星野の噂に尾ひれが付いていた。

 なんでも、昨日、一昨日の休日に星野が女装して街を歩いていたという。

 女性職員だけではなく、他の男性職員まで星野自身に確認もせずに彼を遠巻きにしている。

 星野は否定せず、端の机に向かって身を縮めている。

 俺は、その様子を兄である明夫のかつての姿を重ね見た。

 兄は性同一性障害者であり、現在は体こそ男性のままだが、女性の姿と名前で生きている。

 兄に相談するべきだろうか、と迷った。兄の会社では相談窓口を設けているそうだからだ。

 けれど、簡単に星野を紹介するわけにはいかない。

 仮に女装癖が真実だったとして、性同一性障害者と決め付けるのは差別になるからだ。

 それに、女装が好きだからといって、兄と同じ立場とは言い切れない。

 さて、どうしたものか、と俺はため息をついた。

 思いに耽っている間に、噂はあっという間に膨張し、収拾がつかなくなっている。

 それに、職員の動く手が止まっている。

 来訪者など、お構いなしだ。

 とりあえず、俺は自ら窓口に立った。

 主任である俺は、普段は窓口から奥の机で書類の処理をしている。窓口は混まない限り業務を行うことはない。

 けれど、今は一般市民を優先しなければならない。

 部下への説教は、来訪者が減ってからだ。

 そう思っていると、女性職員が慌てて窓口に立った。

 結果として俺を含め、五人で百人の市民の対応をした。

 そして、閉所十分前。

 「お前ら、仕事を何だと思っている! 市民を放っておいても優先することが私語か?」

 男女の職員は、罰が悪そうに視線を左右に揺らして身を縮めている。

 「星野も星野だ! 噂の一つや二つ吹き飛ばして仕事に集中しろ」

 「……はい」

 星野は反省しているようで、背中を曲げずに、俺の言葉を受け止めている。

 「明日から私語は禁止だ! いいな!」

 俺は自分の机をバン! と叩いた。

 市民がいればできないことだ。

 さて、どうしたものか。

 俺は人を纏めることの難しさを実感した。


 「あ、お父さん、お帰り!」

 「ただいま、太一」

 小学三年生になった息子、太一は俺の癒しであり太陽だ。

 日々顔立ちが男らしくなっているものの、俺にとってはまだ幼子だ。

 それなのに、太一は一人で料理までできるようになった。

 手のかからなくなった反面、手をかけさせてほしいという願いが矛盾している。

 「なあ、太一」

 「何? お父さん」

 太一はキッチンの火を消してエプロンを外した。

 そして、無垢な顔で俺に近寄った。

 「なあ、お前は苛められていないよな? クラスメイトにも苛められている子はいないよな?」

 「うん、僕は苛められていないし、うちのクラスにはいじめはないよ」

 太一は不思議に思ったのか、小首を傾げて答えた。

 「そうか……なあ、お前なら苛めているやつと苛められているやつがいたら、どうするんだ?」

 俺はなるべく職場のことを明かさないように、それとなく訊いてみる。もともと、公務員は法律上、家族にすら業務内容から個人情報に至るまで一切明かしてはならないことになっている。

 それでも、勘の鋭い太一は法律などお構いなしだ。

 「お父さんのところで何かあったの?」

 「まあな……でも、日本の決まりで、これは太一にも話せないんだ。すまないな」

 「それなら仕方がないよ。でも僕は苛めるやつから苛められる子を助けると思うな。そう教えたの、お父さんだろ?」

 俺は驚いた。太一はいつの間にこれほど成長したのだろうか、と。

 そして、俺が養母から受け継いだ教えを忠実に守っていることも、その意味も理解していることも嬉しかった。

 そうだ、簡単なことではないか。

 俺は夕食前に携帯電話を取り出した。

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