番外編2 あみと家族 前編
あたしが難なく病院を素通りできるようになったころ、突然の出来事があった。
部下であり仲間でもある何人かがよそよそしく感じるようになった。
みんなよく働いているだけに、あたしは余計に気がかりになった。
おそらく、何気ない日常で聞かれた質問への答えが原因ではないかと思う。
「ねえ、ママ。ママはいつ手術するの?」
「しないわ。手術したら完全に女に戻れるけれど、そうしたら相談者への気配りを忘れてしまいそうだもの」
それが、完全に女に戻ったスタッフの反感を買ってしまったのかもしれない。
それ以外に原因らしいものはまったく見当もつかなかった。
けれど、確かなことは一つ。スタッフの雰囲気が悪くなったこと。
社長として、ここはあたしが立ち上がる場面であった。
あたしの失言に反感を抱いても良いけれど、相談者や仲間として働くスタッフ同士の気配りを忘れてほしくなかった。
そうは言っても、人の心を動かすのは難しい。まして悩みを抱え、自ら殻に籠ってしまう人はなおさら。
あたしは長年スタッフを率いてきたけれど、このときになって初めて、誰かに相談したい気持ちになった。
そんなときでも、あたしへの相談は後を絶たない。
同じ性同一性障害を持ち悩む子だけならともかく、私生活でも、あたしの姉である朝田晴美からも電話がかかってきた。
姉が言いたいことは、普段受けている相談内容とはまったく違う。姉は羨ましくも、元から身も心も女性だから。
夜空が綺麗な日、あたしは姉と弟の三人で支え合って生きると誓った。
とくに姉にはいつか恩返しをしたいと思っている。
姉は覚えていないかもしれないけれど、幼いころ、あたしのことを気味悪がる男子生徒から守ってくれた。
堤家ではあたしに対して剣幕な表情をしたけれど、実際はあたしのことを心配してくれている。
本人はそれを恥ずかしがっているだけだと分かっていたので、今まで蔑まれても我慢できた。
その仲間の一人のことも放っておけず、あたしは駅前で会う約束をした。
後日、あたしは身内に会うというのに、着る服に何の迷いもなかった。
花柄のワンピースにトレンチコートという女性らしい姿で駅に向かった。
昔も今も、せめて姉と弟にはありのままの姿を見てほしかったから。
駅前に着くと、姉はある意味ありのままの姿をしていた。いかにも悩んでいて、身の周りに手が行き届かないといった感じだった。
あたしはその驚きをどうにか隠し、近くの喫茶店に入った。
そこで初めて、あたしは義兄と呼びたくない人のことを知った。
姉によると、現在浮気をしている上に罪悪感の欠片もないらしい。
「ひどいわ! 養母さんの葬儀にも来ない上に姉さんを拒絶……しかも浮気だなんて」
あたしは注文したロイヤルミルクティーを飲む気になれなかった。
姉の絶望が手に取るように理解できたから。
あたしは「拒絶」という言葉に敏感だった。
なぜなら、性同一性障害を抱えている人にとって、他人の無理解や拒絶ほど辛いものはないから。
あたしはこれまで相談に来た子たちの顔が思い浮かんだ。
皆、諦めたような顔をしていた。姉もまた似たような表情だった。
今後姉がどのような行動を取るのかは分からないけれど、せめて養母が遺した言葉だけは守ってほしいと願った。
「姉さん、定めは自分で決めるの。選択肢は他にもあるはずよ」
あたしは最近頻繁に相談者に訴えている言葉で、自分が味方だと伝えた。
すると、姉はその日のうちに弟の陽一に電話をした。
弟によると、姉は清々しい声で「あの人を送り出すのよ!」と言ったらしい。
あたしと弟は姉の離婚に賛成だった。
いまだに残る全身の痣を気味悪がり、出生まで拒絶する人と一緒にいてほしくなかった。
数日後、あたしはスタッフのよそよそしさの本当の原因を知ることになった。
あたしがとくに目をかけている三人の仲間、あい、あき、そしてあやが、一斉に退職届を提出してきた。
「理由は?」
あたしは未熟な自分自身と「退職」の文字にショックではあった。けれどあえて退職届の封を切らず、笑顔で訊いた。
すると三人の仲間は真剣な表情で胸を張って答えた。
「私たち、ママのように独立したいんです。ママの加護に甘えてばかりいたら、いつまでも私たち成長できないもの」
「皆……そんなことをずっと考えていたの?」
「ママは常に私たちの前を走っていました。ママが私たちにしてくれたように、全国にいる悩みを抱えた子の力になりたいんです」
「私たちも、ママのように誰かの前を走りたいんです」
スタッフの雰囲気悪化の原因はあたしの失言ではなかった。
あたしが関わっていることは事実ではあるけれど、それとは別に、他のスタッフが三人の退職希望を知っていたからだった。
「そう、それは良いことだわ」
あたしは心から三人の成長を喜んだ。
「けれど、職場の雰囲気を変えたのは良くないわね。あなたたち、これから誰かを率いていくのでしょう?」
「相変わらず、ママは厳しいわね。でも、ママは常に凛としていて、私たちの憧れでした」
「お世辞は結構よ。困ったときはいつでも相談しなさい。決して楽なことではないからね」
「はい!」
あい、あき、あやの三人は涙を流していた。
「どんなに離れていても、あたしたちは仲間……家族よ」
あたしは三人それぞれの肩に手を置いて、囁いた。
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