番外編 朝田から春日へ 後編

 私が四十三歳になっても、夫は浮気を止めなかった。

 そこで、ついに私は離婚話を持ちかけた。

 世間体を気にする人は、浮気と離婚のどちらを選ぶか、私は楽しみでもあった。

 なぜなら、私の心はすでに決まっていたからだ。

 サラリーマンの専業主婦というステータスを捨て、新しい一歩を踏み出すのだ。

 たとえ夫が阻止しようが、私には関係ないことだった。

 せめて土産としてこのネタを持って行っても悪くないだろうと思っていた。

 けれど、夫は意外な返事をした。離婚の提案をすんなりと受け入れたのだ。

 「実は俺も話を切り出そうとしていたんだ。かえって手間が省けて助かったよ」

 「そう……それで、今後はどうするつもりなの?」

 「まず、お前の顔を見なくて済む。今付き合っている人と結婚する。それだけだ。あとはお前に関係ない」

 私の可愛げのない態度から始まった結婚生活だった。自分で招いた結果とはいえ、それなりに傷付くものだ。

 それも、夫から完全に他人扱いをされ、放り投げられようとしている。

 私は心の底から後悔した。

 養母が生きていた間に、あの言葉を読んでいれば、と。

 朝田晴美としての最後の夜、心に隙間風が吹いていた。

 翌日、私は堤晴美として巣立つことになった。

 住まいは空き家となった堤の実家を選び、荷物はそこに送ることになっている。

 夫の手助けは一切ない。離婚届を市役所に提出しに行くのも、私の役目だ。

 最後の朝食の後片付けを済ませ、いざ出ようというとき、夫はリビングで新聞を読んでいた。

 私はコートを着て、夫のもとに歩み寄った。

 「そのままで良いから、聞いて」

 夫は無言だった。無視と言っても良い。

 他人が本当の他人になるのだから、と。

 けれど私はそれでも良かった。

 言えるだけで十分だった。

 だから、私は言葉にした。

 「今まで、ご飯をちゃんと残さずに食べてくれて、ありがとう。さようなら」

 やはり夫は何も答えなかった。

 それで良かったのだ。

 女の涙は武器だと言う人もいるけれど、今の私はそれを見せたくなかった。

 これから新しい人生が始まるのだから。

 養母が遺してくれた言葉通りに、生い立ちなど関係なく自分で道を切り開くのだ。


 堤家に戻って数日で、私は社会の厳しさを痛感した。

 これまで専業主婦だった私は、最後に働いたのが約二十年前ということで、正社員の仕事がなかなか決まらなかった。

 夫の収入があれば、パートでも生活できるけれど、独り身になった今ではそうはいかない。

 悩んだ末に明夫と陽一に相談したけれど、虫の良い話を得ることはできなかった。

 明夫の会社はニューハーフ専門の会社であり心のよりどころなので、心身ともに生まれつき女である私の面倒は見ることができないとのことだった。

 また陽一の協力で、市役所での一般事務のパート応募を済ませたけれど、採用や雇用はいつになるか分からないそうだ。

 この募集は、あくまで人員不足を補う一時的なものなので、生活をするには厳しいのが現実だという。

 途方にくれた私は、ぶらぶらと散歩した。

 周りを見渡すと、そこは過去とずいぶん変わっていた。

 木造家屋がモダンデザインの家に建て替えられ、幼いころ賑わっていた商店街はシャッターが閉められている。

 子どもが集まる公園まで、雰囲気が変わっていた。

 子どもたちは鬼ごっこや縄跳びの代わりに、通信ゲームで競い合っている。

 のんびりと園内の緑を眺めているのは私よりも少し年上のシニア世代で、足元にはリードを引かれた犬がくつろいでいる。

 今の公園は、子どもよりもむしろ大人のためのものと言っても過言ではなさそうだ。

 私が歳を重ねるとともに、何もかもが姿を変える。

 ただ一軒の建物を除いて。

 朱色の屋根に白色のコンクリートの壁。

 私が巣立った児童養護施設だ。

 そこの庭で遊ぶ子どもたち、とくに女の子は服装こそお洒落に変わっているけれど、遊びは変わらないようだ。

 鬼ごっこをしているのだろう。小さい子どもは全力疾走し、年長らしき子どもがわざと早歩きで鈍足を演じている。

 幼いころ私が覗き見していた様子と変わらない。

 当時の私は心を閉ざし、誰とも接しようとしなかった。

 正直に言うと、誰かと鬼ごっこだけでなく、はないちもんめで遊びたかった。

 けれど私は他人に対して臆病だった。

 今となっては後悔しても遅い。過去は決して変えることなどできない。

 それでも私は何かを求めて施設へと足を運んだ。

 知らない大人の気配を感じた子どもたちは鬼ごっこを止めて遊戯道具に身を寄せ、私の様子を窺っている。

 職員らしき大人が不審に思い、こちらに向かってくる。

 エプロンを身に付けた女性は、私よりも十歳ほど若そうだった。

 「あの、どちらさまでしょうか?」

 女性は腰を屈んで私を下から覗き込んだ。

 明らかに怪しんでいる。

 きっと、私がいたころの職員はもう施設にいないのだろう。

 「あさ……堤晴美と言います。三十三年前まで、こちらにお世話になりまして。懐かしくてつい……」

 「堤……」

 女性は人差し指で顎を掻いて、何かを思い出そうとしている。

 「あ……もしかして、堤郁子さんのお嬢さんですか? 確か、ご遺産をうちに寄付してくださいましたよね?」

 「ええ、そうです」

 女性は自分の拳で平手を叩き、ひらめいたような顔で尋ねた。

 「その節は本当にありがとうございました。あ、私、秋山と申します。当時の職員はもう一人もおりませんが、どうぞお上がりください」

 秋山と名乗った女性は、紅葉色の頬で微笑んで私を受入れてくれた。

 施設の中は無駄なものが一切なく、すっきりとしていた。

 きっと子どもたちがきちんと整理整頓できているのだろう。

 私が施設にお世話になっていたころもそうだった。

 「どうぞ、座ってください」

 秋山さんは私にお茶を出してくれた。

 「郁子さんのことは、先輩職員から伺っております。こちらの施設から三人も引き取ってくださった上に、あなた方全員をご立派に育て上げられたと」

 「そんな……立派だなんて。確かに養母は尊敬に値しますが」

 「十分、ご立派です」

 秋山さんはまたしても頬が紅葉色に染まった。

 私は彼女の興奮を抑えつつ、その言葉を丁重に否定しようと、己の現状を語った。

 家族以外の人に身の上話をするなど、これが初めてのことだった。

 笑われるのではないかと心配していたけれど、秋山さんは最後まで私の話に耳を傾けてくれた。

 そして、こう言った。

 「大変でしたね。けれど、あなたはお一人ではなかったはずです。ご家族はもちろん、ここにいる子どもたちも皆同じです。とくに実親と生き別れする子は、死別する子よりも繊細で物事に対して敏感に育ちます。絶対というわけではありませんが」

 私と彼女はお互いに特別なことをしたわけではない。

 けれど、なぜか私は救われた気持ちになった。

 これが他人に心を開くというものか、と初めて実感した。

 彼女には、私にはない特別な何かがあるのかもしれない。

 さらに彼女は言葉を付け加えた。

 「あの……実は施設の調理係が不足しているんです。その、差し出がましいようですが、もしよろしければここで働きませんか? 園長にも聞いてみますので」

 「いや、そこまで頼んだつもりではないのですが……」

 私は彼女の誘いを同情だと思い、断ろうとした。

 けれど、それは間違いだった。

 「事実なんです。それにうちでは最近、学校の休日に調理係が子どもたちに料理を教えるようになったんです。私たち職員だけでは子どもたちの力になれないので、どうかお願いします」

 秋山さんは、私に向かって頭を下げた。

 人事採用の類は簡単に口にできるものではない。

 それができるということは、秋山さんは職員の中でも責任を負う立場なのだろう。

 ここまで押されては、さすがの私にも断ることはできなかった。

 いや、断る理由がなかった。

 「分かりました。そのお話、お受けいたしましょう」

 すると秋山さんは勢い良く頭を上げ、紅葉色の頬が濃くなっていた。

 「本当ですか? ありがとうございます」

 「あの、お礼を言うのはこちらですけれど」


 こうして、私の就職は決まった。

 週五日、他の調理係と交代制で子どもたちの朝食と夕食を作り、土日は子どもたちと一緒に昼食を用意する。

 始めはおどおどしていた子どもたちだった。

 けれど、かつて私もこの施設にいたことを耳打ちすると、半信半疑で近付いてみようと試みる子どもが現れた。

 次第に私に気軽に声をかける子どもが増えた。

 昔の私ができなかっただけに、子どもたちの反応が非常に嬉しかった。

 やがて、私は施設で暮らす子どもたちのために他の何かをやりたいという気持ちになっていた。

 具体的な内容も思い浮かばないまま、私は休日の公園をぶらぶらと歩いていた。

 ここ最近の趣味は散歩になっている。景色の変化を楽しめるからだ。

 とくに春は桜が咲き乱れているので、花びらの吹雪に溶け込みたくなる。

 そんなとき、一人の男性の声が聞こえた。

 どうやら、誰かを叱っているようだ。

 私は気になって、声がする方へと向かい、桜の木に隠れた。

 上腕筋肉が逞しい男性は、学ランを着た少年三人と対峙していた。

 彼らは煙草を吸っていて、昼間の時間帯を考えると、学校をさぼっているようだ。

 私は互いに睨み合う四人に、いてもたってもいられなくなって、ついに桜の木から飛び出してしまった。

 「ンだよ、ババア!」

 正直に言うと、若い彼らの態度に腹が立っていた。

 けれど私は子犬のような眼差しを見逃せなかった。

 「ねえ、あなたたちは誰に自分を見てほしいの?」

 すると少年たちはぽかんと開口し、くわえていた煙草を落としてしまった。

 それから火の点いた煙草が短くなるだけで、彼らは何も言わなくなった。

 そして、三人は何事もなかったかのように公園を去った。

 隣を見ると、上腕筋肉が立派な男性も、開口して言葉を失っていた。

 「あのう……」

 男性はハッとして、足で煙草の火を消した。

 「あ、これは失礼。見苦しいところをお見せしてしまいましたな」

 男性は三本の煙草を素手で拾い、園内にあるゴミ捨て場に放り投げた。

 「しかし、あなたには驚きました。最近は自分の子どもですら叱ることができない大人が多いというのに、臆することなく正面から向き合って。それも、怒鳴るのではなく、彼らが欲しい言葉をかけられるとは」

 「いえ、私にとっては大したことではないのですよ」

 私はあのとき、彼らの心情が手に取るように理解できた。私たち義姉弟は養母のおかげで不良にならなかったけれど、やるせない気持ちを抱えていたことについては共通していたから。

 そのことを、あえてこの男性には口にしなかった。

 「あ、すみません、名乗りもせずに。怪しいですよね。自分は少年補導員を務めている春日と申します。普段は宅配の仕事をしているのですが、今日は休日なので。こうして近所を見回っていたのですよ」

 「そうでしたか」

 春日と名乗った男性は恥ずかしそうに後頭部を掻いて言った。

 さらに春日さんは私より三つ年上で独身だということが明らかになった。

 このとき私の方は身分を明かさなかった。

 私は一応女性なので、気軽に異性に打ち明けるものではない。

 けれどその後公園で何度か会ううちに、私は現在置かれている立場を明かすようになった。

 とは言うものの、私が明かせられたのは、現在の職業だった。

 春日さんは不思議な人で、普段は決して怒らなさそうな穏やかな顔をする。

 けれど非行に走る少年を見かけると一変、鬼のような形相で注意する。

 当然少年たちは春日さんに反発する。

 彼は少年の威嚇に動じないけれど、数多くの非行を止めることはできなかった。

 それでも諦めない彼の力になりたいと思い、後に私も少年補導員に加わった。

 彷徨う子どもは施設の中にいる子どもたちだけではない。

 養母に引き取られた私たち義姉弟のように、親と呼べる大人が住む家にもいる。

 私が彼の活動に加わったことで、少年たちの腰は少しずつ低くなり、やがて非行を止める者が増えた。

 「いやあ、堤さんはすごいですねえ。感心します」

 私は自分の気持ちを素直に表現する春日さんに、次第に惹かれていた。前夫とは違うタイプでもあったからかもしれない。

 私は相変わらず施設の子どもたちと触れ合いながら、少年補導員の活動以外の時間でも春日さんと会うようになった。

 そこから展開は早かった。

 春日さんが結婚前提での交際を申し込んだのだ。こんな私に。

 私は驚いた。まさか自分が誰かに異性として好意を抱かれるなんて、夢にも思っていなかった。

 前夫には住み込みの家政婦のように扱われていたので、なおさらだ。

 それに私は春日さん以外の相手に、恋という恋をしたことがなかった。

 そのため、私は戸惑った。

 「あの、お恥ずかしい話ですが、こういうとき、どうしたら良いか分からないのです」

 正直に言うと、春日さんは「待つ」と答えてくれた。

 「けれどその間も少年補導員として、堤さんには活躍してもらいます。よろしいですか?」

 「ええ、それはもちろんです」

 私は一度交際の話を持ち帰り、養母の遺影に話しかけた。

 「養母さん、良いのかな。こんな私でも受け入れてくれるのかしら」

 私は遺影の後ろに隠した養母の遺言を取り出した。養母が残してくれた言葉を求めていたのだ。

 当然の話だけれど、遺言の内容は変わっていない。それでもあの「誓い」を交わす前と後では、言葉の意味や印象が違ってくる。

 以前、養母の言葉には、心に傷を抱えていても前進するように、という意味が込められていて、私にもそれが伝わった。

 けれど心の傷を乗り越えた今では、意味が違う。

 前夫が気味悪がった全身の痣を抱えていても、未来を切り開けと言っているようだった。

 春日さんも私や前夫のように、生身の人間だ。果たして彼はどこまで私を認めてくれるのだろうか。

 私は不安になって、受話器を持った。

 そして十一桁の数字を押すと、聞き慣れた声が受話器から洩れてきた。

 「姉さん? いきなりどうしたの?」

 私が電話をかけた相手は、明夫だった。

 明夫は心が女だから、きっとまた良いアドバイスをくれると期待したのだ。

 「うん、忙しいときに悪いわね。その、相談があって」

 「良いけれど……姉さん、最近よくあたしに電話をかけるわね。陽一には連絡を取っているの?」

 「もちろんよ。だって私たち、支え合う仲間でしょ? それで相談なんだけれど……」

 私は春日さんのことを話した。

 すると賢明な明夫は、珍しく頭を捻っているようだった。

 「姉さん、いくらあたしがこんなでも、さすがに恋愛ごとには答えにくいわ。だって、あたし自身がまだ恋もしたことないんだから。それにあたしはその『春日さん』に会ったことがないし。でも、これだけは言えるわ。前に進むのは、姉さん自身よ。遺言にも、書いてあったでしょう?」

 「それもそうだよね……分かったわ。私、やってみる。ありがとう、明夫」

 明夫が懸命に生きている姿を思い浮かぶと、私はひらめいてしまった。


 そうだ! 私には私のやり方がある!


 私は早速春日さんの携帯電話にかけた。

 「もしもし、堤です。聞いて欲しいことがあるのですが……」

 私は日時を指定して、初めて会った公園で彼と待ち合わせすることにした。


 そして後日。

 新緑の濃さがピークを迎えるころ、私は春日さんと会った。そして、そのまま私の家に案内した。

 「あの……聞いてほしいことって何ですか?」

 彼は不安そうに眉が八の字になっていた。

 そんな彼に、私は笑ってみせた。

 「すみません。あのときは言い間違ってしまいまして。正確には、見てほしいのです。私のすべてを。それを受け入れてくださったら、私はあなたと交際します」

 「って、な……何をしているのですか!」

 バッと服を脱いだ私に、春日さんは赤面して慌てた。

 それもそのはず、服の下には下着など一切身に付けていなかったのだから。

 「これが、私です」

 「どういうことですか?」

 怪訝する彼に、私はこれまでの生い立ちを打ち明けた。

 すると春日さんは涙目になっていた。

 「堤さん、自分に話してくださって、ありがとう。辛かったでしょう。でも、自分はそれを勲章だと思います」

 彼は強く主張した。

 「勲章……?」

 私は彼が言っている言葉の意味をいまいち理解できず、聞き返した。

 そんな私に、彼は繰り返し「勲章です」と答えた。

 「だってそれは、あなたが生きるために闘い、勝ち抜いた証ですから。きっと、お養母さまもそう思っていらっしゃいますよ」

 彼の声は優しかった。

 私は思わず涙を流してしまった。

 嬉しかった。こうして生きていることが誰かに理解されているなんて、夢にも思っていなかった。

 春日さんは全裸の私にジャケットを羽織らせてくれた。

 彼の体温を蓄積したジャケットは、木漏れ日のように温かい。私はいつまでも泣いて、彼は私が泣き止むまで肩を抱いてくれた。


 椿に雪が乗るころ、私と彼は入籍届けを提出した。あえて、結婚式はしなかった。

 お互いに四十歳を越えているので恥ずかしい上に、式を挙げるとなると親族を呼ぶことになる。

 私は明夫を大衆の笑い者にしたくなかったのだ。

 彼はそれを承知してくれた。どこまでも優しかった。

 「あ、あなた見て!」

 「おお、流れ星!」

 この日は私の四十四歳の誕生日だった。

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