番外編1朝田から春日へ 前編
養母の四十九日が過ぎたころ、私、朝田晴美の心は決意で固まっていた。
暖房の効いたリビングでバスローブ一枚、もちろん下着は身に付けていない。
ドク、ドク、と心臓が鳴り響いている。
生前より養母からたくさんの贈りものを受け取ったけれど、やはり私は緊張しているようだ。
それもそのはず、私はこれから「告白」をするのだから。
テレビでニュースを見ている夫に向かって、一歩、また一歩と前進する。
夫はニュースに夢中で、私の足音に気付くことなくソファに座っている。
「あなた……」
「何だ?」
私は変わるんだ! そう思って声をかけたけれど、夫は素っ気なく、私の顔すら見ようとしない。
今まではその時点で諦めていた。それでも私の養母は古びた文字で私たち姉弟の背中を押してくれた。
私たちのために生涯を捧げてくれた養母のため、自分のために、この場面で引くわけにはいかない。
私はバスローブの紐に手をかける。
「今、見てほしいものがあるの」
「後でで良いだろう?」
夫は気怠そうに手で振り払った。養母の葬儀に参列していないので、遺された言葉を知らなくても当然ではある。
けれど私は変わるのだ。今、ここで。
私は勢い良くバスローブを脱ぎ捨てた。
バサッという音に驚いて、夫はようやく背後に目をやった。
すると夫は化け物を見たような顔をしていた。
「何なんだ、それは」
「実親から受けた傷跡よ」
私の体は四十歳になった今でも、大きな痣が幾つも残っている。
以前は私も夫のように自分の体を気味悪く思っていた。けれど今は、生きている証として誇らしく思う。
誰が、何と言おうと構わない。これで夫に拒絶されるというのであれば、私の半生を聞かせ続ける。そのつもりだった。
けれど、夫は痣のことに触れなかった。
「お前、母子家庭じゃなかったのか?」
意外な質問だった。この瞬間は夫が何を気にしているのか気付かなかった。
「そう、母子家庭よ。でも、養女なの。今まで隠してごめんなさい」
さらりと答えた自分自身に、私は驚いていた。
今までの私であれば、決して養女であることを明かさなかった。
母親の影響力は非常に強い。
実母は私の体を、養母は新しい私を生み出してくれた。
逆に言えば、実親の虐待がなければ、養母である堤郁子と出会うことすらなかったということだ。
弟の堤明夫と陽一であれば、私の新しい誕生をともに喜んでくれただろう。
けれど、夫はそうではなかった。
「お前、それを絶対に世間に明かすなよ! 分かったな」
夫は非常に険悪な雰囲気を醸し出していた。
「別な明かさないけれど・・・・・・痣のことは何も言わないの?」
「それも隠せ! 見たくもない!」
夫がリビングを去り自分の寝室に籠った後も、私は全裸で呆然としていた。
心に亀裂を感じていたのだ。
夫は全身に残る痣も、養女である事実も、私自身をも否定した。世間体を選んで。
結婚してからの十五年が、夫にそうさせているのだろうか。
私がどんなに自分を曝け出しても、今さら遅いということなのだろうか。
私は改めて言葉の重さを感じた。
乾いた惑星から水が溢れ出すように、私の頬は涙で濡れていた。
それから一年、私と夫との間に会話は一切なかった。もちろん、夫が養母の一周忌にも参列しなかったのは、言うまでもない。
それからすぐのことだった。夫のスーツを整えていると、ふんわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
若い女性が好むような、花の香りだった。
一年ぶりに夫に声をかけると、慌てる表情などなく、何事もなかったかのようにネクタイを緩めた。
そのやりとりが何度も続いたころ、私はようやく夫の浮気を確信した。
ただ夫は浮気ではなく、ただの恋愛としか捉えていない様子だった。何しろ、私のことを住み込みの家政婦のように思っているのだから。
私は複雑な気持ちだった。
養母が生きている間は辛く当たっていたので、夫の気移りは当然の報いではある。
けれどいざ自分のことを打ち明けようとすると拒絶され、こうして心に痛みを感じている。
果たしてどちらが道理に適っているのか、今の私に判断できない。
そのころから受け始めた「体が汚い」「養女を嫁にしてしまった」などの罵声にただ謝ることしかできなかった。
私を照らす光が徐々に鈍くなり、私自身は荒れた大地の惑星のようになっていた。
これまでに相談相手がいなかったため、私はこの家で空気のような存在になるしかなかった。
けれど、今は空気にはなれない。他人として、ようやく相談相手が同時に二人もできてしまったからだ。
私は後日、私より二歳年下の明夫と再会した。
待ち合わせ場所の駅に現れたのは、すっかり「あみ」になった明夫だった。
長い髪の毛先を巻き、コートの裾から花柄のスカートの一部が覗いていた。
一方、私の姿はフード付きのジャンパーにジーンズという色気のない普段着だった。
私は自分が女を捨てているということに対して恥ずかしかった。
けれど明夫は私の姿に目を逸らさなかった。
以前は俯いてばかりで、人を恐れていたというのに。
私は明夫とともに駅前の喫茶店に入り、夫のことを話した。
すると明夫は、つけまつげを装着した瞼を開閉させ、眉間に皺を寄せた。
「ひどいわ! 養母さんの葬儀にも来ない上に姉さんを拒絶・・・・・・しかも浮気だなんて」
夜空が美しかった日に誓ったというのに、明夫は私のことを「姉」と呼んだ。
「姉さん、これからどうするの?」
「あみ」の姿をした明夫は別人のように積極的に話しかけてくる。それも、言葉の一つ一つに喜怒哀楽が込められている。
自分の問題をよそに、これが社長として生きる顔なのか、と私は思った。
「どうするも何も……理解してくれるのを待つしかないでしょう。世間体を気にする人だから、そのうち浮気も止めるでしょうし」
一方、私の言葉は虫の抜け殻でできたように中身が空っぽだった。
実親の姿が目に浮かぶ。顔までは記憶になく遠くなってしまったけれど、性格はよく覚えている。
実父は世間体を気にする人だった。そして実母はそんな実父の気を引こうと、身だしなみを整え美味しそうな料理を毎日作っていた。
身なりの点を含めると、完全に実母と同じとは言い切れないけれど、実父と夫は重なって見える。
運命はすでに定められているのか、と思いながら手元のロイヤルミルクティーに手を伸ばすと、明夫はそれを止めた。
「姉さん、定めは自分で決めるの。選択肢はほかにもあるはずよ」
「ど、同情なんていらないわよ!」
明夫が涙目で訴えるので、私はついきつく言い放ってしまった。
これでは今までと同じではないか、とすぐさま後悔した。けれど一度口に出た言葉は取り消しが効かない。
「同情なんかじゃないわ」
明夫は私の言葉にひるむことなく、首を左右に振った。
「これは、あたしがいつもスタッフの子たちに言っていることなの。中には、悩みゆえに自殺まで考える相談者までいるから。でも、姉さんは心が強いもの」
強いのはあんたのほうだよ、と私は明夫に言いたかった。
一人で性同一性障害を乗り越え、仲間のために身を粉にして働いているのだから。
それを今まで邪険にしていた私は心身ともに弱く、狭量だ。全身の痣がそれを証明している。
それでも明夫は自分の言葉を変えることはなかった。
私はその言葉に完全に納得しているわけではなかったけれど、同感したことが一つだけある。
「ありがとう、明夫。おかげですっきりしたわ。私、あんたのこと、応援しているからね」
私は明夫の手を両手で包んだ。そしてロイヤルミルクティーを一口だけ飲んで勘定を済ませた。
「姉さん、あたしがご馳走するのに」
「いいのよ。『姉』に恥をかかせないで」
扉の硝子に映る顔は笑っていた。
そうだ、私にもまだ選択肢がある。
明夫が家出までして会社を立ち上げたように。
甘いはずのロイヤルミルクティーは、なぜかすっきりとした味わいだった。
そして、カップの中のミルクが私という惑星を包んでいるように見えた。
その日の夜、夫は残業という名目で帰りが遅くなると連絡してきた。
私は知らぬふりをしたけれど、それはきっと嘘で、浮気だと直感で悟った。
家の中には私一人、好都合な夜だった。
私は夫の声を聞いた後も、電話の前に立っていた。
「……よし!」
私はある選択肢の確認をするため、もう一度受話器を手に取った。
心臓は激しく脈を打ち、指先は震えている。
これは恐怖ではない。ただの緊張だ。
ボタンを十回押すと、トゥルル・・・・・・と呼び出し音が鳴った。
三回繰り返された後、記憶に新しい声が聞こえた。
「もしもし、こちらつつみです! どちらさまですか?」
私の甥で、心許せる相手の一人、堤陽一の息子、太一だった。
「はい、朝田晴美です。お父さんのお姉さんよ。この前会ったの、覚えているかしら?」
「うん! あー、おとうさーん!」
陽一が受話器を取り上げたのだろう。太一の声が遠くなっていく。
「もしもし、義姉さん? 悪いな。最近太一が電話にハマっているんだ」
「やんちゃ盛りだもの。仕方がないわよ。あんたも昔はそうだったもの」
陽一は申し訳なさそうに弱々しい声を出したけれど、私はそれが可笑しくて堪らなかった。
「ところで陽一、あんたに訊きたいんだけれど。男の人って気移りしたらお終いなの?」
「はあ? ちょっと待っていて」
陽一は私が言おうとしていることを察知したのだろう。受話器の奥で、太一の退室を促している声が聞こえる。
それから五分ほど経ったころ、ようやく陽一の声が近くなった。
「ごめん。あいつがなかなか離れてくれなくてさ」
「当然よ。あんたは太一の父親で、母親なんだから」
「まあ、そうなんだけれど……」
幼くして母親を亡くした太一にとって、陽一が唯一の肉親ということになっている。
そういう意味では、陽一は母親の役目も果たさなくてはならない。
「……で、義兄さん……って呼びたくないけれど、その人がどうかしたのか?」
養母の死後、陽一はようやく夫のことを義兄と呼ぶようになった。けれど養母の葬儀や四十九日に参列しなかったことで、夫に良い印象を持っていないようだ。
「あの人、浮気しているの。男として、あんたはどう思う?」
「さあ……俺は美空一筋だからそういうのは分からないけれど、男は好きな相手に未練を持つのは確かだな。あの人がいくら真面目で堅物でも、例外ではないな。そうだ、明夫にはこのことを話したのか?」
「今日、話したわ。でも、明夫の心は女だから」
「それもそうだな」
陽一の頷きに、嫌悪感はなかった。
「でもね、すごく良いアドバイスをもらったのよ。で、私の選択肢が正しいかどうか、あんたに確かめたかったわけ」
「なるほど。で、義姉さんはどうするんだよ?」
「決まっているじゃない」
私の心臓は、いつの間にか平穏を取り戻していた。
「あの人を送り出すのよ!」
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