3 大切な人のつながり

 騒がしくも楽しかった温泉旅行から早くも一週間が経った。

 僕は相も変わらず仕事に行くわけでもないのにスーツに着替えて、毎朝の習慣になっている喫茶店に向かおうとしていた。

 後三週間で僕は死ぬのか?

 ネクタイを締めながら、ふとそんなことが脳裏をよぎるが、考えること自体も正直馬鹿馬鹿しく感じられた。

 だいたい、そんなことを考えるから人間ふさぎ込むんだろう。

 人は遅かれ早かれいずれ死ぬ生き物だろうよ。

 賢治ならきっとそういうに違いない。

 自分に自信をもって、少しでも賢治のような心の強い人間になろう。

 いつものように、ビジネスバックを手に取って、玄関まで進む。

「今日も仕事はないんでっしゃろ? 律儀に毎度毎度スーツに着替えて、鞄までもって、向かいの喫茶店によーいきますね」

 玄関のドアノブに手をかけた時、後ろから声が聞こえた。

 その声を聴いた瞬間、サッと血の気が引いていくのを感じる。

 急いで振り返り声の主を確認したとき、そこには例によって例のごとく、白饅頭しかり、自称天使が宙に浮いていた。

「どうもー、まいどおおきに、ラブリーエンジェルギフトのチャミュちゃんでーす」

 約一週間前に僕に向かって死の宣告をした。自称天使が改めて自己紹介をしてくる。

 不敵な笑みを浮かべ、自称天使は話を続ける。

「なーんか、忘れかけてるようなんで、再度確認させていただきまっせ? 笹塚宗一郎はん?」

 さっきまでの明るく取り繕った笑顔は消え、心底冷たい何かを漂わせる笑顔に変わる。

 その瞳の奥には変わりようのない真実を、相手に突き詰める氷の意思がうかがえた。

 背筋に悪寒が走る。

「笹塚宗一郎はん、貴方はざっと」

 ずいっとこちらに指を向ける。

「三週間後に死にますよ」



「宗一郎さん! 水族館に連れて行ってほしいなー」

 僕は、いつものようにマスターと向かい合い、コーヒーをすする。

 今朝の白饅頭しかり、あの自称天使のことを忘れるように、喫茶店に来ていた。

 落ち着いた感じの店内と、普段と変わらない渋めのジャズと、常に変わらない「カフェ未来」ご自慢の渋めブレンドコーヒー、何ら変わらない客数の少なさ、いつものように変わらない日常がこの空間には流れていた。

「もー聞いてるの? 宗一郎さん!」

 この朝のまどろみをゆっくり覚まさせる空間が、いつもと違うのは未来ちゃんがはしゃいでいることと、もう一つ。

「水族館ねぇ、いいわねー、宗ちゃん、行きましょうよ」

 千川財団社長令嬢、千川さんがなぜかいることだった。

 マスターは諦めたようにため息をつくとこっちを見ないようにしてグラスを拭いている。

 グラスを拭くマスターのその仕草は、いつもと変わらないはずなのに、なんか、余計に不安をあおるんですけど。

 お願いですから、後生ですから、少し助けてください、マスター。

「宗ちゃん? 聞いてます? もしもーし?」

 千川令嬢? あなたはなぜここに最近入り浸っているのでしょうか?

 温泉から帰ってきて一週間、千川令嬢は朝八時にはこの喫茶店「カフェ未来」に出勤し、僕が帰るまでずっといる。

 それはまるで「ここが会社ですけど?」とでもいうかのように、入りびたり続けている。

 温泉旅行の次の日いつものようにコーヒーを飲んでいると、僕、未来ちゃん、マスターを前にして千川さんは、お店に入ってくるなり開口一番。

「私、宗ちゃんとお付き合いしたいんですよ」

 なんて言うもんだから、それを聞いた未来ちゃんが、妙に距離を狭めてきたというか、対抗しているというか、かれこれそんな状況が一週間くらい続いていた。

 最初のうちはマスターも笑い飛ばして、何とも言えない意味深で暖かな視線を送って来ていたのだが、日に日にべったりとしてくる二人に軽く引いていったのがわかる。

 僕の目の前でグラスを拭かなくなったり、いつもだったら僕の目の前で自慢のパイプをふかすのにちょっと離れたところでふかしていたり。

 日を追うごとに少しずつ僕の正面から離れている。

 いや、まぁ、それは良いだろう。

 あんまりよくはないのですけど、この際どうでもいいと思う。

「宗ちゃーん、水族館行きましょうよー」

「千川さんずるい! 私が先に誘ったの! 私と行くの水族館!」

 目下の問題は何かというと。なぜ僕の両サイドで、僕の肘を掴み合い、お互い火花を散らしているんでしょうか?

 僕が優柔不断なのが原因なのはわかっているんですがね。

 そりゃもうね、両肘の柔らかい感触とか、お互いがお互いに女の子女の子した妙にいいにおいがするとか、僕も年ごろの男の子ですから? はてはて、20代後半はまだ男の子なのだろうか?

 そう言うわけで、この状態がものすごく嫌、というわけでもないのですが?

 こうも毎日、毎日、一週間付きまとわれたら流石に辛いですよ。

 それに僕の心情は、誰も心に近寄らせない事なのだ。

 こないだの温泉旅行の混浴でばったり会った千川さんに嫌というほどわからされた。

 とりあえずこの状態が何とかなってほしい。

 誰でもいいから助けてください。お願いだから助けてください。二人がくっついてるの良いけど、火花を散らさないでください胃がきしむから。

 僕の願いが通じたのか、はたまた、僕が知らず知らずのうちに、マスターを睨んでしまっていたのだろうか? 答えはどうだかわからないが、とりあえずマスターが助け舟を出してくれた。

「あの、お二人さん? 宗一郎君も困っているようだから? ね?」

「あん?」

「はい?」

 その刹那、声のしたほうに同時に睨みが飛ぶ。

 片方は黙っていろと、炎の様な強い剣幕で。

 もう片方は静かにしててくださいと、氷の様な冷たい笑顔で。

 どうしてそこだけ仲がいいのかな?

 マスターの出してくれた助け舟、もとい、泥船は、燃えるような業火の視線と、吹雪のように凍てつく視線で即座に沈没させられてしまった。

 業火の王女と氷の女王二人が睨むとマスターは、視線を泳がしてカウンターの端のほうに行ってしまった。

 あぁ、またマスターとの距離が離れた。っていうよりカウンターテーブルの完全に端と端になってしまった。

 ほらマスターしょんぼりしちゃったじゃんよ。

 なんかごめんね、マスター、マスターは悪くないよ。

 心の中でマスターに平謝りする。

「いいんじゃよー、どーせ、わしはー、いいんじゃよー」

 ほら、マスター現実逃避しちゃったじゃんよ。強面だけど、心はナイーブなんだよ? マスターだって、傷つくんだよ? 普段自治体で、頼れる漢№1のマスター源次郎がまるで老人ホームで介護受けて「トミさんや? ご飯はまだかい?」って繰り返し聞いてるお爺ちゃんみたいになってしまっているよ? ほら、隅っこで普段使わない、誰が使うんだかわからない、そもそも一度たりとも使っているところを見たことがない謎のかわいい熊さん柄のマグカップ取り出して、磨きだしちゃったじゃんかよ。

「それでー? 宗ちゃんは、ど・っ・ち・と、水族館に行くのかしら?」

 そう言うと千川さんはずいっと顔をこちらに近づける。

 怖い、冷たい笑顔の瞳の奥が燃えてるのがわかる。

「それは当然、わ・た・し・よね? 宗一郎さん!」

 それに対抗するように、未来ちゃんが顔をぐっと寄せてくる。

 こっちも怖い、なんか純粋そうな笑顔に見えて、目が全然笑ってない。

 やばいよ、怖いよー、どっち選んでも片方に刺されそうだよ。

 自称天使の白饅頭が言ってた死ぬ時期が来る前に、この選択肢どっち選んでも死にそうだよ。

 渋いコーヒーをぐいっと一気に飲み干して、席を立つ。

 ここは、男笹塚宗一郎、漢を見せる時が来たのかもしれない。

 ふふ、決まっているじゃないか、こんな時はこれしかない。

「宗ちゃん?」

「宗一郎さん?」

 二人は僕の動きを目で追う。

 僕は少し歩いてカウンターの端まで来ると、前を見据えて声をかける。

「マスター」

「宗一郎君」

 声をかけられたマスターの目はキラキラしている。まるで、少女漫画のように、キラキラしている。昔のコマーシャルでやってたチワワか何かのようだった。

 いや待って、少し冷静になろう、正直気持ち悪いとおもう。

「まさか、宗ちゃん」

「そ、そんな、宗一郎さん」

 二人が背後で息を飲むのがわかる。

 あ、だめだ想像以上に、マスターのこの顔、想像以上に、気持ち悪い。

「コーヒーお代わり、ブラックで」

 だめだ、マスター誘うとか、人間やめる覚悟がないと無理だ。

 うん?

 なんか背中のあたりがすごく痛い、視線が痛い、やだ、怖い、振り返りたくない。

 変な汗が、背中を伝うのがわかる。

 頭の中がうるさいくらいに、警鐘を鳴らす。

 でも振り返らなきゃ席に戻れないしな。

 あぁ、死にたくないなー、まだ生きていたいなー、自称天使ですらまだ三週間生きられるって言ってたしなー。

 選択肢間違えたかな? セーブポイントに戻れないものかな?

 半ば死を覚悟して振り返ると、ものすごい勢いで罵倒が飛んできた。

「宗一郎さんの、甲斐性なし! 意気地なし! ぺんぺん草!」

「宗ちゃんの、卑怯者! ドヘンタイ! ぺんぺん草!」

 全く持って、ひどい言われようである。

 罵倒が止んでから、がっくりと項垂れて、二人が顎で指す真ん中の席に戻る。

 でもきっと、ぺんぺん草は悪口じゃないよね? 何でそこだけ被っちゃうの? 実は二人とも本当は仲がいいの?

 元の席に着いてから、一つため息をつく、再び戻ってきた選択肢を選ぶ。

 誠に遺憾であるがこうせざるを得ないようだ。

「今日の10時からでいいか?」

「いいわよ!」

「いいよ!」

 二人の声がハモる。

 それと同時に「あん?」と低い声が飛び交って睨み会う、だからやめて、僕を間において睨み合わないでください。

 お願いだから、二人仲良くして下さい、お願いだから。

 これじゃぁ、白饅頭の言う寿命が来る前に、胃に穴が開いて死んじゃうから。



 カフェ未来を出て、いったん家に戻り、カジュアルな私服に着替えてから、待ち合わせの水族館前に行く。

 家が近くなのになんで、未来ちゃんと一緒に行かないかというと。

「フェアじゃないじゃん! フェアじゃ!」

 はい、という未来ちゃんの意見です。

 まぁ、それを言った後、千川さんが眉を吊り上げながら。

「言うじゃない、小娘が、そんなこと言って後で知らないから」

 も、なかなかだったと思うけど。

 その後ちょっとした言い争いがあったので、「先に行きますからね~」って言ってお店を出てしまったのだ。

 あぁ、これも逃げなんだろうな、きっと。

 かくして彼女たち二人の、「宗一郎争奪一騎打ち対決*水族館編」が始まってしまうのですが、正直困る。

 僕は三人で仲良く水族館を回りたいと思っていた。

 あぁ、これも頭の中での言い訳か。

 誰も心に踏み込ませたくない、それが僕を思ってくれている優しい人ならなおのこと。

 僕は別に、この生き方が悪いと思っていない、本人が思っているんだから間違いないはずだ。

 失ったとき、どれほど寂しいか、どれほど侘びしいか、どれほど遣る瀬無いか、それを知っているからこそ、心には踏み込ませない。

 笹塚宗一郎はそう決めたのだ。

 でも喧嘩はやめてください、お願いですから、お互いにお互いの心を踏み争わないで。

「やーっす! 宗一郎さん!」

「はーい、宗ちゃん」

 そんなことを考えていると、ほぼほぼ二人は同時にいらっしゃいました。

 僕は二人に手を挙げて返事をする。

 千川さんは黒い髪が映える白のトレンチコートに灰色のフレアスカート、黒ストッキングとシックな感じのひざ下まである茶色のブーツ、大人の女性特有の魅力と落ち着きが見える。

 未来ちゃんは明るい茶色の髪が映える薄い水色のダウンコートにセピア色のティアードスカート、黒のハイソックスとポップな感じのショートブーツ、明るい女の子の可愛さを引き立てていた。

 二人ともすごく似合ってるなぁ。

 でも何だろう? すごく二人ともきれいなのに。こっちに向かってくるお互いがお互いに肘をぶつけ合っているように見えるんですけど? 気のせいですよね? そうですよね?

 僕は目の前の状況に耐え切れず、ため息を吐いて視線をずらした。その先にはイルカの像が見える。

 っていうか、ここも千川財団レジャースポットの一つですよね? 千川令嬢。

 高校の夏休み、賢治と千川さんの三人で来た気がする。

 入口のイルカの像を見ながら、そんなことを考えていた。


「なんだー? 麗子の奴遅いなー、何やってるんだ?」

「うん、そうだね」

 水族館、賢治に夏休みの自由研究に行こうと言われ、無理やり連れだされたんだったっけ。

 僕は家から出たくない、というより、誰とも接したくなかった。

「なぁおい、宗一郎! イルカだぞイルカの像があるぞ!」

「うん、そうだね」

 今思えば、あのころから賢治は良い奴だったな。

 あいつなりに、元気にさせようとしてくれてたのかな?

「なにしょぼくれた顔してんだよ、ちょっと見てろよ!」

「え? 何するの? 賢治、危ないよ!」

 そう言うと賢治は、突然イルカの像にまたがった。

 かっこつけて、右手を空に向け、左手を腰に当てて、決めポーズまで取ってたな。

「ガハハ、イルカに乗った少年だな! 宗一郎!」

 僕は思わず噴き出したっけ、賢治と仲良くなったのはそれからだった気がする。

 それまでは隣の席で、ちょっかいばっか出してくるめんどくさい奴、程度にしか思っていなかった。

 でも、そのすぐ後に、水族館の人にバレて、めちゃくちゃ怒られたっけ。


「宗一郎さん? 大丈夫?」

「宗ちゃん? 大丈夫?」

 気が付くと、いつの間に距離を詰めたのか、二人が心配そうにして顔を覗き込んでくる。

「何でもない、ちょっと昔を思い出してただけだよ」

「なーんだ、そうだったんだ」

 未来ちゃんは安心した様に、ニコッと笑う。

 千川さんは僕の視線の先に気が付くと、軽く俯く。

「宗ちゃん、未来ちゃん、私ちょっと館長さんと話があるから、先に行くわね」

 千川さんはそう言うと、僕の横を通り過ぎ、水族館に歩き出した。

 彼女の背中をしばし眺めていると、ふいに右肘に柔らかい感触がする。

「宗一郎さん! 私たちも行こうよ!」

 横を見ると、未来ちゃんが満面の笑みで、僕の腕に抱き着いていた。 

 目が合うと、未来ちゃんは頬が朱に染まり、視線を泳がせた。

「なんか、恋人同士みたいだね」

 彼女の言葉に、僕は少し照れ、そっぽを向いて曖昧な返事をする。

 横目で見ると未来ちゃんはそんな反応に満足したのか、にへらっとほほ笑むと左頬を僕の肩に押し付ける。

「さぁ、行こうよ! 宗一郎さん」

 僕は彼女に言われるがまま、水族館に歩き出した。

 前を向くと、すでに千川さんの姿はそこになかった。



「うわー! おっきー!」

 水族館に入ると、未来ちゃんは目の前に広がる青い光景に向かって走り出した。

「みてみて! 宗一郎さん! マンボウだよ! マンボウがいる!」

 一面に広がる柔らかな青い光の射す水槽には、大きなマンボウが泳いでいた。

 それはとてもゆっくり自由に泳ぎ回っていた。何ともぬぼーっとした愛嬌のある表情をしている。

「ねぇねぇ、宗一郎さん! マンボウって最弱の魚なんでしょ?」

 横にいる彼女は、優雅に泳ぐマンボウを指さす。

 ふわふわと泳ぐそいつは、この大きな水槽に独りぼっちだった。

「友達の話だけど、水面に激突して死んじゃったり、近くにいた仲間が死んだらショック死するって言ってた!」

 それを聞いて僕は思わず笑い出す。

 そんな馬鹿な、そんなことでいちいちショック死していたら、一生仲間に会えないじゃないか。

「それはデマよ、未来ちゃん」

 後ろからの声に振り向くと、千川さんが立っていた。

 千川さんはブーツをコツコツ鳴らして、こちらに向かいながら説明を続ける。

「仲間が近くにいて縄張り争いのストレスで死ぬことがあっても、減ったストレスで死ぬことなんてないわよ」

 千川さんは僕の横まで来ると左腕に抱き着いてきた。

 肘に伝わる何とも言えない柔らかい感触に、僕はどぎまぎしてしまう。

 あぁ、もうほんとに柔らかい。

 それを見た未来ちゃんは、むきーっと唸ると僕の右腕に抱き着く。

 あぁ、こっちも柔らかい。

 千川さんは未来ちゃんの様子に満足した様に、僕越しに未来ちゃんを見る。

 どうして、そうすぐ張り合うんですかお二人さん? 仲良くしましょうよ仲良くね。

 千川さんの笑顔が何とも挑戦的で、両腕の気持ちいい感触を差し引いても、胃がきりきりする。

「ほーらね? 未来ちゃん、縄張り争いのストレスはよーくわかるでしょ?」

 初めからこれでは思いやられるな。

 僕は両腕に引きずられながら、館内を回りだした。

 けれど先に進むにつれて心配事は全く無用だったと分かった。

 未来ちゃんは珍しい魚がいると走り出し、千川さんはそのつど説明をしている。

 そんな様を、少し離れたところから見ていた。

 ほほえましく思うのと同時に、心がちくりとする。

 しばらく見て回り、お腹も空いてきたので、僕達はお昼を途中のフードポートで食べることにした。

 それぞれがお互いに買ってきた食べ物を、テーブルに広げる。

 僕は売店で買ってきたサンドイッチとスポーツ飲料を、未来ちゃんの前には焼きおにぎりオレンジジュース、千川さんの前にはカップに入った唐揚げと野菜ジュースが、置かれていた。

「宗一郎さんのサンドイッチおいしそうだね! いただきー!」

 未来ちゃんはそう言って、僕の目の前から卵サンドをもっていく。

 あぁ、最後に食べようとしていた僕の卵サンドが。

「代わりに、こっちの焼きおにぎり上げる!」

 サンドイッチの一つが、焼きおにぎりに変わってしまった。

 未来ちゃんは満面の笑みでおいしそうに、サンドイッチをほおばっている。

 小動物のようなその仕草は年頃の女の子って感じがして何ともかわいかった。

 今度はその様を見ていた千川さんが、僕の前に唐揚げを置くと、ツナサンドをかっさらう。

「宗ちゃんのサンドイッチ、確かにおいしそうね」

 あぁ、最初に食べようとしたツナサンドまで。

 千川さんはツナサンドを口にすると、右手を頬に当て、目を細めた。

「ふふ、おいしいわね」

 千川さんは唇に着いたツナを舌を少し這わせて、味わっていた。

 その仕草は大人の女性の魅力を引き立てて何とも官能的だった。

 最近妙に二人のことを意識してしまっている気がする。

 僕の考えを知ってか知らずか、千川さんと未来ちゃんは楽しそうにおしゃべりしていた。

 その様子を、僕は売れ残ったレタスサンドをむしゃくしゃ、もとい、むしゃむしゃしながら、眺めていた。

 あぁ、レタスサンド、味気ない、もっとマヨネーズでも入れてくれればいいのに、なんかウサギか何かになった気分だ。ウサギは寂しいと死んでしまうって聞いたことがあるけど、寂しいよりストレスで死んでしまう気がする。あ、寂しさもストレスなのか。

  そんなくだらない事を考えてるうちに食事もひと段落して、各々少しゆったりくつろいでいると、遠くにいる家族連れの声がふいに聞こえた。

 その子供はお父さんお母さんと手をつないで、次はあれが見たいと話し合っている。

 何ともほほえましい光景だった。

「私、小さいころによく来てたんですよ。この水族館」

 未来ちゃんはその様子を遠目に見ていた。

 にへへと笑うその瞳には、どこか冷たさが見える。

「小学生のころ、テレビでやってたイルカショーがどうしても見たくて、お母さんにねだったんですよ」

 未来ちゃんの両親は、彼女が中学生の時他界していた。

 僕はそのころ大学生で、朝の日課に加え、大学のレポートをしたり、ただ何気なく本を読みに言ったりして、「カフェ未来」にはよく入り浸っていた。

 ある日突然、見たことない女の子が、この世の終わりのような表情をして、座っていたのを覚えている。

 目はうつろで焦点は合わず、黒い髪は寝癖のままぼさぼさで、ただただカウンター席の角に座る彼女は、さながら疫病神のような印象だった。

 朝、いつものようにお店を訪ねると、僕の席に彼女が陣取っていた。

「イルカショー楽しかったなぁ」

 未来ちゃんは物思いにふける様に、空になった紙コップを指でいじる。


「おはよう、マスター」

「あぁ、おはよう宗一郎君」

 毎朝入り浸っていて、マスターとはすっかり顔なじみ、俗にいう常連というやつになっていた僕は、定位置を奪われお店の中をきょろきょろしていた。

「宗一郎君、ちょっといいかね」

 そう言うとマスターは店の外に来るよう、顎で合図する。

 外に出て、道路を前にして、僕とマスターは横並びになる。

 彼のいつになく神妙な面持ちに、ただ事ではないと感じた。

 マスターはパイプに火を入れると、ぷかりと煙を出す。

「さっき、君の場所にいた娘をどうにか元気づけたいんだ」

 娘という、彼からの意外な言葉を聞いたとき、何かが引っ掛かった。

 マスターの見た目の年齢はどう見ても六十代後半近く、若く見ても五十代だったから、妙に腑に落ちない。

 単純な疑問と、重い空気が嫌だったので、僕はマスターを少しおちょくることにした。

「マスター、そんな歳で、あんな可愛い娘さんがいるとは思わなかったよ。やるね」

「あぁ、そうなんだ。正確には私の娘ではなく、私の孫娘なんだ」

 僕の予想以上にマスターには深刻らしく、茶化した話もまじめに取られてしまった。

 僕は自分が少し恥ずかしく感じたが、それを振り払うように、咳ばらいを一つして、マスターに問い直す。

「どうしてお孫さんが、あんな世界のすべてを敵に回したような表情をして、朝の僕の場所にいるの?」

 マスターはまた一つぷかりと煙を吐き出す。目はどこか遠くを見ていた。

 きりっとしたいつもの表情と違い、本当に年相応以上の老人に見えてしまう。

「実はな……」

 そこで何とも歯切れ悪く、言葉が詰まってしまった。

 僕はマスターの次の言葉を待った。

 マスターは意を決した様にパイプをもう一度ぷかりとさせ、重い口を開いた。

「実は、あの子の両親は、亡くなったんだよ」

 目の前の道路を車が通り過ぎていく、一瞬、そこだけ時が止まった気がした。

 朝の町のざわめきも、通勤で使っているであろう車の音も、何も耳に入らない、静寂の中にマスターの言葉が響く。

「突然の知らせだった。先日、電話がかかってきてな。」

 初夏に入ったというのにその日は妙に肌寒かったのを覚えている。

 あぁ、そうか、僕のあの時も、同じように肌寒かったから。

 自分自身の不幸と妙に重なって思えてしまった。

「あの子も、君と同じように、両親を……」

 マスターはそこまで言うと空を見上げた。

 その後、マスターは堰を切ったように話してくれた。

 両親がなくなり、彼女をだれが引き取るか親族でもめたこと、彼女のことを愛していた自分が引き取ったこと、それまでの彼女とは違いクスリとも笑わなくなってしまったこと、愛する孫娘のために孫娘と同じ名前の喫茶店「カフェ未来」を作ったこと、その言の葉一つ一つに彼の孫娘への深い想いが詰まっていた。

「でもな、宗一郎君、わしには無理だったんだよ」

 彼は僕のほうを見て何とも言えない笑顔を向ける。

「両親は、ほれ、わしがこの歳だし、同じ境遇に立たされてはいるが、わしには子供を失った気持はわかる。だが、……両親を二人とも一緒に、それもこんなに早くに失う気持ちは、きっと、わしにはわからんのだよ。……そう、わからんのだよ。」

 そう言うとマスターはゆっくりと店の中に戻っていった。後を追うように、僕もお店に戻る。

 あの時のマスターの表情は、今でも僕の心に突き刺さっていた。

 ゆっくり店内に入り軽く深呼吸して、いつもの場所に向かう。

「水族館に行かないか?」

 僕は、僕がいつもいる場所に向かってそう言った。

「たまたま、チケットが二枚あってさ、その、もてない大学生は、学園内でも誰とも話をしないから、一枚もったいないんだよね」

 僕はその時、賢治からもらった水族館のチケットをたまたま鞄の中に入れていた。

「その、僕を助けると思ってさ」

 賢治は千川さんを誘ったらしいけど、見事に振られたらしく、要らないからやると言ってそのチケットを押し付けてきたのだ。

「かわいい女の子でも一緒に行ってくれると、もし僕に彼女が出来た時、すごくためになると思うし助かるんだけど」

 彼女は僕の差し出したチケットを眺めていた。

「……イルカ」

 彼女の発した声に僕は驚いた。

 店内に響くジャズの音も消えて、妙にクリアに聞こえたのを覚えている。

「……私、……イルカショーが見てみたい」

「そーか、未来! イルカショーが見たいか、よかったなー、行っておいで! 学校なんて行かなくてもいいから、そこのお兄さんと、楽しんでおいで」

 マスターはいつもの何倍か元気な声を張り上げる。

 彼女はうつろな表情で、マスターのほうを見ている。

 そんな彼女にマスターはゆっくり頷く。

「いいんだよ未来、お前はもっと楽しんでいいんだよ」

 優しい笑顔に、僕は心がざわついたのを覚えている。


「イルカショー、午後からだったよね」

 僕はそう言って時計を見る。

 今から行けば、余裕で間に合いそうだ。

「今日は三人で一緒に、イルカショーを見ようよ」

 未来ちゃんは目を見開き驚く。

「あの頃より、もっと楽しいショーが見れるよ」

 僕は驚いている彼女にそういう。

 でも未来ちゃんの顔を見た時、僕は固まった。

 未来ちゃんの目から、涙が流れていた。

「あ、あれ?……おかしいな?」

 未来ちゃんは涙を手で拭う、拭っても、拭っても、後から後から涙が出てきているようだ。

 千川さんは優しく微笑み、未来ちゃんを抱きしめた。

「いいのよ貴方は、もっと楽しんで、負い目を感じる必要はないのよ」

 千川さんの言葉に、未来ちゃんは堰を切ったように泣き出した。

 目の前のその光景を僕は直視できずに、顔を伏せた。

 心がざわつく。

 いたたまれなくなり、席を立っていた。

 なんであんなことを言った。

 なんで人の心に入り込んだ。

 なぜ僕は拒絶するのに、僕は人の心を触った。

 しばらく歩くと、自販機が見えてきた。

 僕は自分自身に嫌気がさして、その場で深いため息をつく。

 自販機でホットココア二本とブラックのコーヒーを買う。

「絶対に、開けてはいけない扉になぜ触れてしまったんだ」

 ひとりごちて、頭を振る。

 未来ちゃんのところへ戻ろう、それでちゃんと謝ろう。

 僕は決意して、元の席に戻る。

 二人のところに戻ると、未来ちゃんはだいぶ落ち着いたのか、椅子に座り、照れくさそうに顎を引いて、テーブルをじっと眺めていた。千川さんは、そんな未来ちゃんの頭を優しく撫で下ろしていた。

 目の前のテーブルにココアを二つ並べる。

「未来ちゃん、あの——」

「宗一郎さん、私——」

 僕と未来ちゃんの言葉が被る。

 千川さんは未来ちゃんを撫でるのをやめて、穏やかな表情をしていた。

「……私ね、その、なんて言ったらいいのかわからないけど、……純粋にうれしかった。宗一郎さんが、あの時かけてくれた言葉もそうだったし、今の言葉も、……とてもうれしかった」

 未来ちゃんは手を温めるようにココアの缶を両手でなでている。

「それと同時にね、……なんて言うか、いろんなこと、思い出しちゃって、……思わず泣いちゃった」

 心が少し、満たされるのを感じる。あったかいって、こういうことなのだろうか? でもそれと、同時に、何かが僕の中でざわめいているのも感じた。何とも言えないその黒いものは、その温かさを拒絶しているのがわかる。

「さっきはごめんね、その、悪かった」

 気が付くと声が聞こえた。

 その声が自分のものだと、少ししてから気が付いた。

 未来ちゃんは、顔を伏せて振る。

「そうじゃないの、別に宗一郎さんが——」

「あの、その、なんだろうな? ちょっとはしゃぎすぎてたのかな?」

 未来ちゃんの声をかき消すように声を重ねる。自分でも分からない、話さずにはいられない、口を止めたら僕は死んでしまう。そんなあり得ない何かにとりつかれたようだ。

「水族館に来たの久々だったし、いろいろあの時来た時と変わってるし」

 そうやって、何に言い訳してるの?

 そうやって、誰に許しを請うの?

 そうやって、何を求めているの?

 うるさい、僕は何も求めていない。

 頭の中を声が、感情が、記憶が、渦をなして駆け巡る。

「いやー、でも広いね、さすが水族館——」

 目の前のコーヒーの缶から目を離せない、これは何なんだろう。自分でもわからない衝動で、言葉を次から次へとつなげる。

 そうやって、何におびえているの?

 そうやって、自分にないものを人に見せつけられて、絶望しているの?

 そうやって、逃げてるの?

「日頃みえないものが! っ!?」

 乾いた音と同時に、右の頬に痛みが走り、僕は我に返る。

「……そうやって、また、……そうやって、過去から逃げ出しているの? 宗一郎」

 立ち上がった千川さんが、憐れんだ瞳を僕に向ける。

「……あなたは確かに優しいわ、優しすぎる。どんな人に対しても、…そしてそれは自分に対しても、でもそれは、……それは、逃げていいことに、ならないのよ、宗一郎」

 千川さんは僕の目を見つめ、ゆっくり諭す。

 いつの間にか、頭の警鐘も、考えも、感情も、記憶も止んでいた。

 何もなくなって乾いた心に、千川さんの言葉は深くしみ込んでいく。

 そうやって、また繰り返すの?

「あぁ、すまなかった」

 何をしているんだろう。自分でも自分の何かが抑えきれずにいた。 

「宗ちゃん、謝る相手は私じゃないわ」

 顔を上げて、未来ちゃんのほうへ向き直り、同じように頭を下げる。

「ごめん。未来ちゃん」

「大丈夫、大丈夫ですよ? 私は大丈夫です」

 未来ちゃんは顔を伏せているせいで、表情は見えなかった。

 なぜこうなってしまったんだろう、自分でもわからない。

「イルカショーは始まってしまったわね」

 千川さんは腕時計に目をやると、自分のカバンを肩にかけ、席を立った。

「宗ちゃん、今日は責任もって、未来ちゃんと楽しむこと」

 千川さんは僕のほうに怒りとも、哀れみともとれる視線を向けて話を続ける。

「私は今日は先に帰るわ。未来ちゃんをこれ以上悲しませたら、宗ちゃんといえども、……わかっているわね?」

 僕と未来ちゃんは取り残されてしまった。

 何とも言えない空気が流れる。

 どう声をかけえていいものか、思い悩んでいるときだった。

「ココア、……ありがとうございます」

 未来ちゃんは顔を伏せたまま話す。

「いや、さっきはその、本当に悪かった。ごめん」

 僕は自分のコーヒー缶に視線を落とす。

「そうじゃないんです。私は宗一郎さんの優しさが単純にうれしかったんです」

 缶コーヒーを握る僕の手に、温かい手が添えられる。

「私、私ね、宗一路さんと二人でここに来たとききっとすごくうれしかったんだと思う」

 視線を上げると、未来ちゃんは笑顔だった。

「私、あれなんです。あの頃の記憶がちょっとあいまいで、ただうれしかったのは覚えてるんですよ? でもなんていうか、あの頃はいろんなことがあり過ぎて、宗一郎さんに声をかけてもらったことも、今考えるとうれしいんですけど、よくわからないんですよ」

 そういう彼女の目はどこかさ寂しさを映している。

「最近の宗一郎さんは、あの頃の私にどこか似ている気がするんです」

 彼女の言葉が心に刺さる。

 周りの騒音も消えて、その言葉が頭の中でぐるぐる回る。

 あの頃の未来ちゃんに似ている?

 親友の賢治を失ったから?

「賢治さんのことは確かに残念でしたけど、きっとそれだけじゃないですよね?」

 賢治のことじゃない。

 それは確かに、その通りなのかもしれない。

 死ぬことなのだろうか?

 それとももっとほかの何か?

 あぁ、そうか、そうなんだ。

「賢治さんが亡くなってからもう一週間以上たちます。宗一郎さん? 何があったんですか? 他の何かがあるんですよね?」

 未来ちゃんの瞳に移るのは寂しさなんかじゃなかった。

 僕が勝手に決めつけていたんだろう。彼女の瞳に移っているのは確信を迫るあれだ。

 話すべきなのか?

 僕が死ぬことを?

 それとも過去の話を?

 頭の中をぐるぐると考えが回る。

「宗一郎さん? 私に、いや、私たち二人に何か隠してますよね?」

「何のことかな?」

 僕はあくまでとぼけることにする。

 僕があと三週間で死ぬ事実を教えて何になるんだ。

 後に残された人の気持ちはどうなる?

 教えて何になる?

 頭の中に言い訳が生まれる。

「宗一郎さんがそういう風にいう時は、よくないことを教えたくないときですよ」

 未来ちゃんは、真っすぐにこっちを見ている。その視線がつらい。

 僕は目をそらしてしまった。

「何から逃げているんですか?」

 それは千川さんに言われた台詞そのものだった。

 逃げている。

 今もこうして目の前の事実から逃げている。

 高校生のゴールデンウィークからずっとずっとそうしてきたんじゃないか?

 違う。

 今回の賢治の死もそうやって逃げているんじゃないか?

 違う。

 人にやさしくしようとして本当は自分に優しくしているだけなんじゃないか?

 違う。

 頭の中にもう一人自分がいるようだ。

「宗一郎さん、もう一度聞きます。何を隠しているんですか?」

 言葉に詰まる。

 開きかけた口からは何も言葉が出てこない。

「宗一郎さんの悪いところは、勝手に頭の中で考えて、勝手に決めつけて、勝手に解決することですよ」

「そんなことは——」

「そう言うところですよ。何を隠しているのかわかりませんけど、そうやって自分の問題だって勝手に決めつけて。自分の自己満足のために行動するところ」

 僕は再度言葉に詰まる。

 自己満足。

 確かにそうなんだろう。

 でもそれは悪いことなのだろうか?

「私は宗一郎さんの何ですか?」

 思考が止まる。

 僕は、僕にとって未来ちゃんは何なのか。

 大切な人。

 単純な考えだ。

「あぁ、そうか、そうだね」

 恋人とか、友達とか、そう言うものじゃない。

 単純に人として、笹塚宗一郎にとって大切な人だ。

 未来ちゃんが何を思って言ったのかはわからない、けれど、僕にとってかけがえのない人物には違いないのだ。

「そうだね。僕が間違っていたよ」

 それが何であれ、きっと知りたいのだ。

 大切な人のそれなら、知りたいのだ。

 偉人も言っていた。

 人生においての幸福とは2つあり、1つは最愛の人に会う時、もう1つは別れる時だと。

 その結果別れることを知ったとしても、大切な人のそれはきっと知りたいことなのだ。

 改めて未来ちゃんに目をやる。

 初めて会った時は、どこか不安になるほど幼く感じたのに、こんなにも成長していたのか。

「でも、ごめん、今日はやめておこう」

 自然と笑みが出るのがわかる。

 何だろう? うれしいのか? 人に心を触れさせてうれしい?

「まぁ、今日は私しかいないですし、千川さん帰っちゃいましたし、いいですけど」

 そういう未来ちゃんはどこか拗ねているようだった。

 そっぽを向いて何かをぶつぶつ言っている。

「結局私一人じゃ宗一郎さんの心の支えにはなれないんですよね。はぁ、なんでかな? どうしたらもっとうまくなれるかな? 私は——」

 未来ちゃんがなんて言っていたのかは小さい声だったからほとんど聞き取れなかった。

「ありがとう。未来ちゃん」

 温泉の時もそうだった。

 僕が気が付いていなかっただけで、きっと未来ちゃんはいつも僕のことを正しいほうに導いてくれていたんだろう。

 きっとそれがうれしいんだ。

 そのことに気が付けたから。

「いいんですよ。私はいつまでも待ち続けるって決めたんです」

 何についてかは触れないけれど、きっとそれは僕の心なのだろう。

 いつから彼女は待ち続けてくれているのだろうか。

「でも今回のこれは、早く教えてほしいですね。さすがの私でも待ちきれないときはありますからね」

 いたずらっぽくウィンクした笑顔でそういう彼女はとてもまぶしかった。



 その日の夕方、僕はカフェ未来に戻ってきていた。

 未来ちゃんと千川さんに挟まれて、朝と同じように三人並んでいる。

 水族館での未来ちゃんの提案に応えるべく、あの後すぐ千川さんに連絡を入れたのだ。

「宗ちゃん? それで? 話って何?」

 水族館のこともあってか、千川さんは不機嫌そうに視線を向ける。

「そうですよ。全部話してくださいね? 宗一郎さん」

 未来ちゃんはそれとは対照的に、どこかうれしそうにしている。

 何から話したらいいのだろう?

「お二人のの予定も早く切り上げて話す内容ですもの? さぞかし重要なお話なんでしょうね?」

 千川さんは不機嫌そのものだった。

 少し離れたところでグラスの割れた音がする。

 マスターが落としたグラスをそのままにこっちを見ていた。

 何もなかったよ? 何もなかったからこうしてここにいるんだよ?

 マスターを心の中でなだめる。

「それで? 話って何? 私、未来ちゃんを楽しませなかったら。って言ったわよね?」

 怖い、やだ怖い。千川さんの視線で人が殺せる。

「千川さん、大丈夫ですよ? 私あの後、結構楽しかったですから」

「そう? なら、とりあえず保留できそうね。よかったわね宗ちゃん」

 未来ちゃんがそう言ってくれなかったら僕どうなっちゃってたの? すごく怖いんですけど?

 その怖さとは別の意味で、怖いけれど言わなければならない。

 過去と向き合うためにも、言わなければならないんだろう。

「今日は、というよりあの後に、未来ちゃんに諭されて——」

 僕はそこまで言って、口ごもる。

 本当にいうべきなのだろうか?

 僕は何がしたいんだろうか?

「宗一郎さん。多分、千川さんも私と同じ気持ちですよ?」

 未来ちゃんに後押しされて、僕は覚悟を決める。

 大きく息を吐いてから、僕は話し出す。

「プロジェクトの打ち上げの後、千川さんと賢治、僕の三人は二次会をやったの覚えてる?」

 千川さんのほうを見ると彼女は頷く、僕の話の続きを待っているようだ。

 僕は改めて、荒唐無稽なその話を続ける。

「その飲み会の帰り道、僕と賢治は天からの使者に死の宣告を受けたんだ」

 自分で口にして、改めてバカげていると思う。

 だけど二人は笑うでもなく、あきれるでもなく真面目に話を聞いてくれている。

 僕は白饅頭からの死の宣告、内容通り賢治が死んだこと、僕があと三週間でこの世を去るであろうことを話す。

 全て話し終わったところで僕はため息をつく、やはり馬鹿げている。僕が言われたとして、到底信じられそうもない。

「私は、なんていうか、あんまり信じられないかも」

 未来ちゃんはそう言うと千川さんの様子を窺うようにちらりと見る。

 そうですよね。どう考えても信じられない話ですよ。

 信じられる話をそもそもしていないのだから仕方がないと、内心諦めて僕は未来ちゃんにつられて千川さんのほうを見る。

 千川さんの雰囲気は先の不機嫌さが消えて、どこか悲観しているようだった。

 千川さんはコーヒーカップから視線を変えずに話し出す。

「私は……」

 何とも歯切れが悪い、いつもの彼女ならはっきり相手を見て話し出すだろうに。

 千川さんは意を決した様に、小さく息を吐いてから言葉を続ける。

「私は、知ってたわ。その……、宗ちゃんのこと、この話のこと、実は知っていたのよ……」

 知っていた? 千川さんは僕が死ぬことを知っていたのか? でもどうして?

 千川さんは何とも言いずらそうに、歯切れ悪く続ける。

「賢治が死ぬ三日前にね。……私に告白してきたのよ」

 それは温泉の時に言っていた話だった。

 告白。

 その日に聞いたその話は愛の告白ではなかったのだろうか?

「私は賢ちゃんからその話を告白されたのよ。……賢ちゃんは三日後に本当に死んだわ。私はあの時、もっとまじめに取り合えばよかったのかもしれない、でも信じられなかった。賢ちゃんの言っていたことも、その話も私は信じたくないだけなのかもしれない。」

 千川さんは肩を震わせている。

 知っていたのだ。

 彼女は全部知っていて温泉の時、僕の本当の感情を引き出すと言っていたのだ。

「信じたくなかった。わかっていた。でも、……でもどうしようもなかった。賢ちゃんは、……賢治は死ぬ三日前に、話してくれたの」

 千川さんの瞳にはうっすら光るものが見える。

 お店に響く渋めのジャズが耳から消え、千川さんの声が僕の耳に妙に響く。

「賢治は、俺が死んだら、一か月だけかもしれないが宗一郎を頼む。って、言ってたわ」

 ただただ、千川さんの声が頭に響く。

 頭の中が空っぽになって、その声だけを受け入れているような感覚に襲われる。

「高校からの親友として、過去を知る人間として、お前の大切な人として」

 千川さんの熱のこもった声は、ただひたすらに響いていく。

「宗一郎を頼むって言ってたわ」

 ただの自己満足。

 その考え方は間違っていたのだろう。

 死んでも、いなくなってしまっても、お節介な親友は僕に気が付かせる。

「賢治ね。全部知ってたのよ」

 高校からの僕の親友は、大雑把で、やることがいちいち豪快で、どこまでも自由で、うるさいくらいにお節介で、底知れず優しいやつだった。

「こないだの二次会の時に宗ちゃんの前で、私に急に告白したのだってそう」

 でも、賢治の優しさは一見優しさに見えないことも多かった。

「高校生の時に水族館に呼び出したのだってそう」

 自由に動いているんじゃなくて、実際は人のために動いている。

 自分に厳しく、優しさはわかりずらい、そんな奴だった。

「自分が死ぬことを全部受け入れたうえで話してたの」

 僕は胸が熱くなる。

 言葉にできない感情があとからあとから、あふれてくる。

「……私の気持ちも、何もかも知ったうえであの時告白してたの」

 お前はどうなりたい?

 賢治の言葉が頭を駆け抜けていく。

 あの時、本当はわかっていたのかもしれない、でも、答えを出したくなかったのかもしれない、賢治や皆に甘えていたのは僕だったんだ。

「ただ、……ただ唯一、本当に大切にしたかった。賢治にとっては数少ない親友を守りたかったんだと思う」

 賢治は自分をどうのこうのしたかったんじゃない、大切にしたかったのは親友。

 相変わらず、豪快で、やり方がさっぱりしすぎてるんだよ。

「私、未来ちゃん、宗ちゃん、マスターのいるこのお店が好きだったから」

 周りに対して一番気を使っていたのはあいつだったのかもしれない。

 何だよ。あいつ一言も言わないで、先に行ってしまったのかよ。

 一緒に、宣告されたんだ。少しくらい不安なところを僕に見せてくれても良かったじゃないか。そんなのずるいじゃないか、僕だって、賢治、お前の力になりたかったんだ。

「……賢治、前にね。こんなことを話してたのよ」

 千川さんの震えた声は続く。

「別に、宗一郎がどっちを選んでも構わない、俺は宗一郎が好きだから。だってさ。もし、宗一郎が選んでそれが原因で、みんながばらばらになったとしても、俺が何とかする……」

 本当に、でたらめだよ。

 なんで? 少しくらい相談しろよな? 俺は知ってたんだ。隣で聞いてたんだ。

「俺は、あの店が好きなんだ。宗一郎がいて、麗子がいて、未来がいて、マスターがいるカフェ未来が好きだからなって。」

 僕は、選べなかったんだ。

 怖くて、今もまた選べない、自分の生死すらも冗談みたいな天使にゆだねられているんだ。

「自分が死ぬのも怖かったはずなのに、賢ちゃんは……賢治はいつまでも私たちの心配をしていたのよ。それと、……宗ちゃんには、宗一郎には黙っていろって。きっと……、きっと宗一郎から俺と同じように話す時が来るはずだから、黙っていろって」

 賢治は、僕には一切悩んだ様子は見せたことはなかった。

 高校で知り合ってから、この世を去るその日まで、一度たりとも見せたことはなかった。

 いつだって道を示して、みんなを引っ張って、周りをまとめてたんだ。

「宗一郎が話さないで死んだなら、それは……、少し寂しい気がするけど、仕方がないって言ってたわ」

 千川さんはそう言うと向き直り、震える指で、コーヒーを口にする。

 僕は賢治に絶対の信頼を気が付かないうちに寄せていたんだろう。

 結局、人を心の中に入れないだなんてできないことなんだ。

 それこそ自分の思い上がりだったんだ。

「それじゃぁ……」

 吹けば消えるような、けれど強い意志のこもった未来ちゃんの声が響く。

「……それじゃぁ、本当なの? 本当に、宗一郎さんは、その、あの……」

 未来ちゃんはそこまで言って頭を振る。

 口にすら出したくないと、声に出すのも怖いと言っているようだった。

 僕は頷く。

「あぁ、そうだと思う。実感はわかないけれど、きっと、そうなんだと思う」

 そう言って僕は俯いてしまう。

 何だろう、昨日までと違って、この感覚は何だろう。

 死ぬということの実感が、僕の何かを締め付ける。

 昨日まではどこかで死んでもいいと思っていたのかもしれない。

 でも今は、今はまだ。

「まぁ、そう思い悩むな。宗一郎君」

 僕の前にお代わりのコーヒーが置かれる。

 顔を上げると、いつものように優しい笑顔がそこにあった。

「まだ完全に決まったわけじゃなかろうに、そこまで思い悩む必要はないじゃろて」

 マスターは口ひげをなでながら話を続ける。

「でも、でも! 万が一! 宗一郎さんが——」

「未来、少し落ち着きなさい、未来が思っている以上に宗一郎君は事実を受け止めておるよ。それにの? 未来、人はな、遅かれ早かれ、旅立つもんだ」

 未来ちゃんを諭すように、マスターは話す。

「人はな? いずれいなくなるんだ。だからこそ、今なんだよ。未来、わかるかい? あの時、ああすればよかった。こうすればよかった。そういう後悔をなるだけしないように、今を生きるから人は成長できるんだ」

 カウンターの向こうにいるマスターは僕たちを見回して頷くと満足そうに微笑んだ。

「お嬢、未来、宗一郎君、君たちはまだ若い、わしなんか明日死んでしまうかもしれない位だぞ? だからな、みんな今を生きなさい」

 優しく僕たちを諭すその声は、不思議と安心感を与えてくれた。

「一か月だって、三週間だって、三日だって、たとえ一日であっても遅いことはないんじゃ。今、できることを、今やっていくんだよ」

 そう言うとマスターはパイプに火を入れる。

 今、を生きる。

 マスターのその一言が、僕の勝手な自己満足ではだめなのだと。

 他とつながり、他と結んで、自分があるのだと。

 自分の在り方とは何なのかと。

 僕に説いているようで、妙な気持がわいてくる。

「賢治に、……向こうで賢治に会った時、あいつを殴ってやりたい」

 しまった。口に出していたらしい。

「へ?」

「え?」

 未来ちゃんと千川さんは同時に声を上げて僕のほうを見た。

 二人とも目を丸くして驚いている。

「いや、あいつ、千川さんにそんなこと言って、僕には何も言わなかったからさ。心配してたんだろうけど、そうじゃないだろって、一言言ってやりたくて」

 それに、賢治もそれくらい成長した僕を見たいだろう。

 自分でもわかる。賢治が死ぬ時までの僕は、ただ甘えていただけだ。

「そのためにも、自己満足じゃなく、今を精一杯生きることにするよ」

 カウンター越しのマスターは、満足げに煙で輪っかをプカリと作る。

 そうだ。

 いつ死ぬかなんて関係ない。

 僕は今を楽しく、いつまでも楽しく生きてやる。

 たとえそれが、三週間の命であろうとも。

 僕、笹塚宗一郎は死ぬ三週間前にしてやっとこの世に生まれた気がした。

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