2 一人の決意
どうやら昨日の雪は夜のうちにまた雨に変わっていたようだ。
外に出ると地面は濡れていたが、雪も積もって無く、空は昨日の葬儀のことなどなかったように、今の季節にしては珍しいぐらい暖かな朝日が、さしていた。
僕はいつもと同じようにスーツに着替えると家を出て、向かいの喫茶店に向かう。
「やぁ、おはよう、いらっしゃい」
ドアを開けると、ドアに着いたベルの乾いた音と一緒に朝の挨拶が飛んでくる。
「おはよう、マスター」
僕は声の主に普段のように挨拶をして、いつものカウンター席に座る。
そこは別段変わった風もなく、普段通り今日も僕の他にお客さんはいないようだった。
高校の時から、学校に行くときは毎日、賢治と千川さんとの三人で、朝よくここを待ち合わせに使っていた。
店内を流れる渋めのジャズと、コーヒーメーカーの音が何ら変わらない日常を知らせている。
「もう大丈夫なのかい?」
そう言いながらマスターは、この店自慢のブレンドコーヒーを出してくれる。
僕はできうる限りの笑顔をマスターに向けてから、向けられる視線を遮るように、新聞を手に取る。
普段から使っていることもあって、住んでいるマンション目の前、喫茶店「カフェ
起きてから昨日のことで頭がぐるぐるするので、平静を保つためにも、いつも通りの生活をすることにした。
いつも通りの起床、いつも通りの朝食、いつも通りの習慣、それを続けることで平静を保つことにしたのだ。
「賢治君は、残念だったね」
マスターはぽつりとつぶやくとパイプに火を入れる。
僕は新聞を読むのをやめて、マスターに静かに頷くとコーヒーをすする。
いつも通りを心がけても、コーヒーの苦みが心も渋くしたようだった。
けれどその日常を壊すように、喫茶店に流れる少し湿った空気を吹き飛ばしたのは一人の声だった。
「あー! 宗一郎さん!来てたんだー!」
明るく茶色に染められ、肩まで伸びた軽いウェーブがかりの髪を揺らしながら走ってくると、声の主は隣にちょこんと座る。
「どうしたの? 元気ないじゃないですか? 風邪ですか? 風邪ひいちゃったんですか?」
軽く髪をいじりながら、こっちを上目遣いでのぞき込んできて、僕の左肘に彼女のやわらかい胸が押し付けられる。
「こら、
マスターが孫娘に向かって唸る。
「いーだ、お父さんには関係ないでしょーだ」
そういうと未来ちゃんは拗ねたように顔をそむける。
「それに今は、宗一郎さんだって、こうしてもらいたいと思うもん。私だって——」
小さい声だったのと、マスターのくれたコーヒーを飲んでいたので、最期なんて言っていたのかは聞き取れなかった。
「カフェ
気が付くと、マスターは心配そうな視線を僕に送っている。
「大丈夫ですよ、マスター」
僕はそういうと、空になったコーヒーカップに視線を落とし、小さくため息をつく。
昨日の今日で心は沈むし、少し騒がしくしてくれてるほうが気はまぎれた。
「あ、宗一郎さん! 聞いて聞いて!」
そう言うと未来はポケットから何か紙を出して見せる。
「温泉旅行?」
紙にはでかでかとそう書かれていて、どうやらそのチラシは二泊三日の温泉旅行プランが書かれている。
彼女は目を輝かせながら続ける。
「そう、これ! 温泉旅行のチラシ!」
「だからそれは、無理だと言ってるだろう、未来、お父さんこの喫茶店があるんだから」
マスターがやれやれといった感じで頭を振る。
いつものように手慣れた手つきでグラスを拭きだした。
「そ、そうじゃないもん! 私は宗一郎さんにお願いしてるんだもん!」
なにを言いているのかよくわからなかった。
”ガシャン”と音を立てて、マスターの拭いていたグラスが地面に落ちた。
音のほうを見ると、マスターが自慢の白い口ひげをぴくぴくさせ、口が半開きになり、僕と彼女を交互に見た後チラシを指さした。
「卒業旅行、友達と行こうとした前日にお父さん倒れちゃうから、私、卒業旅行できてないんだもん!」
未来ちゃんはマスターを見ないで、話を続ける。
「だから、私、宗一郎さんと卒業旅行に行きたいなーって、思って、受験勉強見てくれたお礼もできてないし、ついでに子供も卒業しちゃいたいなぁーって」
未来ちゃんは楽しそうにチラシをひらひらさせる。
僕は大学に入るまでの夢が教師だった。
彼女に大学受験の勉強を見てほしいといわれた時はとてもうれしかったし、マスターからもお願いされた時は歓喜した。
マスター曰く、「宗一郎君なら下手な社会人やら大学生より勉強教えるのはうまいだろう」だそうで、「教えてくれたら毎朝のコーヒーはタダにしよう」といわれて勉強を見ることになった。
教師になりたかった過去の夢とかさなって、教えることにわくわくしたのは事実だが、もともと勉強のできる未来ちゃんの家庭教師は必要なかったんじゃないかとも思ったりした。
単純に、年頃の孫娘に変な虫が寄り付かないようにするためにとった、マスターもとい、孫娘にべた惚れのおじいちゃんの作戦だった。ということに後になってわかったのだが。
教えるからには受かってくれないと、後でマスターに何を言われるか分かったもんじゃなかったから、彼女が大学に受かったと聞いた時は心底安心したりもした。
彼女が大学に受かったのは、つい一週間くらいの前の話のはずなのに、それがすごく遠くに感じられる。
「お、おい、未来、そ、宗一郎君とまさか、二人っきりで行くつもりなのか」
砕け散ったグラスをそのままに、マスターがやっとのことで声を出した。
目を大きく見開き、綺麗に整えられた白い眉毛をぴくぴくさせ、チラシを指さす手が震えている。
年頃の男女が二人っきりで温泉旅行に行くのは、さすがにまずいだろう。
「いやいや、マスター? 僕にも仕事がありますからそれは——」
「宗一郎さんは、仕事と未来どっちを取るの?」
そういうと未来ちゃんは目を潤ませる。
え? 何この夫婦みたいな会話?
「おい、こら、宗一郎! うちの娘と仕事どっちが大切なんだ」
いやいや、マスター、断っても怒るの?
どうしろっていうんですか?
「いや、だから、そのー、ね? ここには毎日来てるけど、これでも一応社会人だから——」
そう言いかけたところで僕の電話がなる。
電話は会社からだった。
助かった。
僕は内心そう呟きながら電話に出る。
「はい、もしもし」
未来ちゃんは電話に興味津々という風に電話の反対側に耳を当てる。
電話越しの未来ちゃんから、女の子特有のふわっとしたいい香りがする。
マスターはマスターで、新しいグラスを拭きながら視線を一切電話から離そうとしない。
「笹塚さんのお電話で間違いないでしょうか——」
何とも言えないプレッシャーの中、電話に受け答えする。
それにしても、こんな時間に会社から電話がかかってくるなんて珍しいこともあるもんだ。
普段会社に着いてから実務の連絡は多々あれど、会社の方針から、仕事外の連絡は極力しないのが常だ。
「と、言うわけででして、今日から一か月あなたはお休みです」
はい?
突然の休暇を言い渡される。
一か月って、遠回しに会社を辞めろと言っているのか? 僕この歳でクビになっちゃうんですかね?
「聞いているんですか? 笹塚さん? 千川令嬢の言いつけ、と言うより社長命令ですね、一か月の休暇を与えます。だそうですよ」
「あ、はい分りました。失礼します」
なるほど会社に行く前に話しておかなければならない内容だったから、電話をかけてきたのか。
って、なんで一か月だよ? しかも何でこのタイミングなんだよ? 実質クビの言い渡しなのか?
電話を切ってため息をつく。
ふと正面を見るとマスターが固まっていた。
横からちょんちょんと肩を小突かれる。
見ると満面の笑みを浮かべた未来ちゃんがいた。
「やったー! 宗一郎さんと温泉旅行だ! 楽しみだなー!」
「だまらっしゃい、お父さんは認めません! 男の人と二人っきりで温泉旅行なんて認めません」
「うー、お父さんのけちんぼ、わからずや、おやじー」
おやじは別に悪口じゃないと思うんだけどな。
まぁ、未来ちゃんの言ってることもわかる。
卒業旅行、確かにみんなと行けなかったのは悲しいかもね。
でも、マスターの言ってる通り、年頃の女の子が男の人と二人っきりで旅行に行くは、どういうもんだろう。
未来ちゃんは客観的に見ても、僕の主観的に見てもかわいい、軽くウェーブのかかった明るめに染められた髪も、もうすぐ大学生になる年頃の女の子らしく、なんていうか目のやり場に困るくらいには、出るとこは出てるし、たれ目で笑うとちらりと八重歯が見えるところとか、なんだかなぁ。
普段は意識していないのに、変に意識してみてしまった、僕も年取ったなぁ。
そんなことを考えているとドアが乾いた音を立てて開いた。
「いらっしゃい」
マスターが出迎える。
珍しい来客もあるものだ。
そこにはスーツ姿のとても整った顔立ちに、腰まで伸びる黒い髪の見知った人が立っていた。
「あ、おはよう! 千川さん!」
未来ちゃんは元気に挨拶をした。
ドアには千川令嬢が立っていた。
千川さんはこちらに気が付くと軽く手を振る。
「あら、おはよう、宗ちゃん」
昨日はずっと泣いていたのだろう、目の下に少しクマができていて、目も少し腫れいてた。
千川さんはヒールをコツコツいわせながらこっちまで歩いてくると、僕の隣に座る。
テーブルに置いてあった温泉旅行のチラシに気が付くと、まじまじと見てから、僕と未来ちゃんとチラシを見直して何か思いついたのか、にやりと笑った。
「そうだ、お嬢、頼みがあるんだが少しいいかね」
マスターはその様子を見て、そっちはそっちで何か思いついたのか、声をかける。
千川さんは、マスターから出されたコーヒーを妙に落ち着いた様子で、すすっている。
「未来を温泉に連れてってもらえないだろうか」
「えー! お父さん何言ってるの!」
千川さんはいつもの笑みを浮かべ、クスリと笑う。
未来ちゃんはマスターに食って掛かっていた。
「私は宗一郎さんと行きたいの! なんで千川さんに言うのかな! 千川さんだって仕事大変なんだからそういうこと言っちゃダメでしょ!」
僕は仕事が休みになる前から言ってましたが、僕も一応社会人なんですよ? 未来ちゃん?
「でも、お前、未来、男と女が二人っきりで温泉とかなぁ」
千川さんは手帳を取り出し何かを調べているようだった。
一通り見てから、千川さんは未来ちゃん越しにこちらをちらりと見て、一瞬にやりと笑った。
なんだろう、その仕草が妙に不安を煽る。
「そう、ね、」
あたりが途端にしんとなる。
千川さんは手帳を閉じてマスター、未来ちゃん、僕を順番に見てからチラシを指さした。
「未来ちゃんはいつからの予定なら空いているのかしら?」
「え? それって、連れてってくれるの? 千川さんが?」
途端に未来ちゃんの顔が明るくなる。
「未来ちゃんの大学合格祝いもしていないし、慰安旅行もかねて、ね、」
「やったー、今日からずっと暇人です! 大学の入学式までずーっと暇ですよ」
そう言う千川さんの顔はどこか寂しげだった。
その顔は三人で飲んだ時に賢治から告白されたときの笑顔に似ていた。
「宗ちゃんも今日から仕事お休みでしょ? 一緒に行きましょう」
なぜ社長令嬢が、一般社員の突然の休暇を知っているのか疑問に思っていると、それを見透かしたのか、千川さんが答えてくれた。
「電話で聞いてない? 宗ちゃんを休みにしたのは私ですもの、三人で楽しく温泉旅行しましょ」
え? そうなの? どうして僕は一か月も休みにさせられたの?
「やったー宗一郎さんも一緒に温泉旅行だ!」
マスターはしぶしぶ頷いた。
「小僧、分かってるな? 未来に手を出したら」
周りに聞こえないように、僕だけに耳打ちをする。
手を出さなかったら出さなかったで、「未来に魅力がないだと!?」って逆切れされそうだ。
そんな僕の疑念をよそに、未来ちゃんがとてもはしゃいでいた。
かくして僕ら三人は、次の日から二泊三日の温泉旅行に行くことになった。
都内から、車で三時間、僕らは旅館に着いた。
っていうかここって、ひょっとして。
「久々に来たわね、ここの温泉」
千川さんはホテルの入り口のターミナルで、まじまじと建物を見る。
やっぱりそうですよね。ここってうちの会社が出資してる旅館ですよね。
ホテルマンに鍵を渡しつつ、僕はうんざりした様に建物を見る。
「うわー凄い高そうな旅館だなー? っていうか高級ホテルだよね! これ!」
未来ちゃんは目を輝かせていた。
「なんだろう、毎年来てるからか、全然温泉旅行に来た感じがしないんですけど」
思わず独り言をつぶやいた。
千川財団の有する高級ホテルの一つ、中が無駄に広いこともあって、会社の研修旅行やら、会社の社員旅行やら、高校の時に賢治と三人で遊びに来たやらで、毎回来ている。
昨日のチラシと違うのは、チラシのプランに、0が一つ足される金額がないと泊まれないこと。
言われるがままに車を運転していて、方向が方向だったから、もしやとは思っていたけれど。
会社から休暇貰って、それでいて会社の関係施設に来るのはなんか気が引ける。
荷物を持って呆然としていると、千川さんが笑顔で答える。
「宗ちゃん、気にしなくていいのよ、ここ、私の家みたいなものだから」
千川さんはそびえ立つ高級ホテルを指さして、満足げにしている。
そりゃそうだろうけど、なんか違う気がする。
「どうせ来たんだから楽しまなきゃ損、でしょ?」
こっちの考えを見通してか、千川さんはそう言うとこちらにウィンクしてくる。
僕はため息を一つついて、首をかしげる。
どうにもこうにも府に堕ちない。
「宗一郎さん、千川さん、早く中に入ろうよー」
そう言うと未来ちゃんは入口に走って行ってしまった。
僕はやれやれと、荷物を持って後に続いた。
まぁ、主役の未来ちゃんが喜んでいるようだし、良しとするか。
ロビーで、チェックインを済ませ、部屋に着く、どうやら一部屋だけのようだった。
あれ? 男女別の部屋じゃないの? 千川令嬢?
「ひろーい! すごーい! 眺めもサイコーだ!」
部屋について荷物を下ろす。
「でも和室なんだね! びっくりしたよー」
落ち着いた感じの和室の窓から見える風景は、雪化粧された街並みと、遠くに富士山が見える。
さすが千川財団の誇るホテルの一つである。
千川さん曰く「温泉旅行は和室でしょ?」だそうな。
一つ一つの部屋に個別の露天風呂まであるのだから、まさにいたれりつくせりだ。
「夕食まで時間があるから、温泉行ってくる!」
未来ちゃんはそう言うとパタパタ走って出て行った。
千川さんはホテルのオーナーと少し話があるとかで、ちょっと怖い笑みを浮かべて、部屋を出て行った。
最上階の一番お高い部屋、しかも人気の和室に泊まれるっていうのは、確かに悪い気分じゃないんだけれど、そのお礼かな?
まぁ、部屋が一部屋しか借りれなかったから、そのお礼もあるのだろうけどね。
浴衣に着替えて一人座椅子に腰かけどこを見るわけでもなく外を眺めていた。
「なぁおい、宗一郎、お前いずれはどうなりたい?」
賢治はそう言いながら窓を開け放つ、春先とはいえまだ冷たい風が部屋の中に入り込む。
「どうなりたいって言われてもな、教師の夢は諦めてしまったし、こうして一緒の会社に入ったしなぁ」
僕は窓際に立つ賢治を見ていた。
あぁ、これは夢だ。
今の会社に入ってから一番最初にあった、研修旅行の時の夢。
この時僕は、自暴自棄になりかけていた。
小学生からの夢だった教師になること、そのことに、大学で真剣に向き合えば向き合うほど、自分には向いていないという真実がぶつけられていた。
いっそのこと大学をやめて、働こうとも思った。
そんな時、賢治が千川さんの会社に就職するからお前も来い、と言ってくれたのだった。
「過去に縛られるのがお前の悪い癖だな宗一郎、先を見ろ、未来を見ろ、これからを考えろ」
そう言いながら賢治はこちらを見据える。
あいつの瞳はどこまでも真っすぐで、大学に入ってから、夢を失った僕には少し辛かった。
どうしてお前は諦めたんだ? とか、なんで続けなかったんだ? とか、そう言われたほうが幾分か楽だったろうに、賢治は一切口にしなかった。
あの時も、この時も、あいつは言い訳を許してくれなかった。
賢治に夢をあきらめるって言ったとき、あいつは一言言っただけだった。
それがお前の決めた道ならいいんじゃないのか?
突っぱねるように一言言われただけだった。
それがあいつの優しさでもあり、厳しさでもあった。
「宗一郎、俺はもっとでかい男になる。身体のことじゃない、心の大きな人になる。それが俺のどうなりたいかだ」
そう、賢治はいつも自分に正直で、人に正直だった。
人に弱さを見せない、とても強い人間、僕はそんな賢治に、ただただいつもあこがれるだけだった。
「なら僕は、賢治の支えになるよ。賢治はいつも危なっかしいからな」
そうじゃない、僕はそう言ったが、そうじゃなかった。
何かを見透かしたように、賢治はどこか寂しそうに笑いながら礼をいった。
「…賢治、……僕は」
ふと目を覚まし頭を上げる。
「あー、宗一郎さんやっと起きた!」
寝起きのけだるさの中、目をこすり周りを見渡すと、窓の外はすっかり暗くなっていた。
携帯を取り出し時刻を確認すると、デジタル表記で19時を過ぎていた。
「たははー、宗一郎さんほっぺに変な跡ができてる」
未来ちゃんは僕の顔を指さして笑う。
どうやら座椅子で机に突っ伏して寝てしまっていたらしい。
頬を触ると二本の線のような肌触りがあった。
机の木目がついているようだった。
「夕食準備できてるんだって! 食べに行こうよ、千川さんは先に行っちゃったよ」
未来ちゃんに返事をして、一緒に夕食の準備のできている一階の大ホールに向かう。
「木目落ちないねー、宗一郎さん」
どうやら未来ちゃんのツボに入ったらしく、一緒に歩いている最中、ずっと笑われ続けた。
大ホールに着くと千川さんが先に席についてた。
というよりもうすでに飲みだしていた。
「宗ちゃんも未来ちゃんもおっそーい、もう先に飲みだしちゃったよー」
頬を赤らめ浴衣を着崩した千川さんはなんか少し色っぽかった。
片ひざを折り、片方の足は流していて、浴衣から少しのぞける綺麗な白い肌、長い黒髪は、さらさら流れて大きくあいた胸元に来ていて、白い肌が余計に際立っている。
僕は気恥ずかしくなり、思わず目をそらしていしまった。
「あはは、宗ちゃん、ほっぺたに線路ができてる」
くぅ、そんなに変な跡ができてるのか?
気を取り直して、自分の席に着くとそこには、夕食の準備ができていた。
夕食はこのホテル自慢の一品、お刺身や茶わん蒸し、お吸い物。
どれもこれも一流品で、ものすごくおいしい。
千川財団のレジャー企画部の極みがそこにあった。
「いいなぁー、未来も飲んでみたいなぁー」
未来ちゃんは、僕や千川さんの席においてある徳利に興味津々の目を向ける。
ちょっとかわいそうな気もするけれど、うーん、お酒は二十歳になってからだよね。
そんな心配をよそに、横の酔っぱらいはぐびぐびやっている。
「未来ちゃんも飲んでみるかー?」
「だめだよ。千川さん、もう出来上がってるの?」
未来ちゃんはうーっとこっちを睨んでいるが、だめなものはだめです。
いずれ分かるんだから、大学入ったらいやでもお酒の付き合いが出てくるんだから。
「宗一郎さんの意地悪ー、けちんぼ―、まじめ―」
未来ちゃんはそういうとしぶしぶオレンジジュースを口にする。
まじめは別に悪口じゃないよね?
「宗ちゃんのいけずー、わからずやー、まじめー」
そう言うと千川さんはお猪口をあおる。
だから、まじめは別に悪口じゃないんじゃないかな?
こういう嫌なお酒の付き合いに、嫌でも付き合わされるんだから。
千川さんは少々おやじ臭い感じでお猪口を置く。
「でもまぁ、今日くらいは、いいんじゃない? ……とも思うけどね」
ぽつりと誰に言うわけでもなく、そう言う千川さんの目はどこか寂しげだった。
隣に座る未来ちゃんは夕食に満足したらしく、胸の前で握りこぶしを上下させて、さっきとはまた違った唸り声をあげている。
「おいしー、すごくおいしー」
そうこうしているうちに食事は終わり、僕は少しふらついている千川さんを部屋に連れていく。
未来ちゃんは「私、お土産見に行ってくるー」といって、逃げ出した。
「千川さん大丈夫?」
僕の声に返事はなく歩きながら半分寝ているようだった。
どうにか部屋まで戻る。
「…ありがとう」
千川さんは、ぽつり呟くように言うと、自分で窓側の椅子まで行き、ストンと落ちるように、腰かけて、うつらうつらと舟をこぎ始めた。
一昨日葬儀があったこともあるし、普段と変わらないようにふるまっているが、相当疲れていたんだろう。
そんなことを考えて、千川さんに見とれていると、舟をこぐたびに上下してる少しはだけた胸元とか、浴衣が崩れて何んともみえそうで見えない感じの太ももとか、さっきまで意識していなかったところに目が行きだして、なんていうか目のやり場に困る。
僕だって年ごろの男だし、やぁ、なんていうか、ドキドキするでしょ?
あぁ、なんていうか、ずっと見ていたいような、見てたらいけないような。
どうせ二人っきりなんだから、少し抱き着いてみたって大丈夫だよ。お酒もたっぷり飲んで寝てるんだ。ちょっとやそっとじゃ起きたりするもんか。
頭の中の悪魔は語りだす。
千川さんだぞ? 普段優しくて、すごい美人の千川さんだぞ? こんなチャンスめったにないぞ? 手を出さなかったらむしろ失礼だろう?
あぁ、宗一郎、貴方はなんて罪深い人。
おぉ、理性の天使も残っていたようだ。
社長令嬢に手を出すなんて、どうせ一か月後には死んでしまうのです。今すぐ社会的に死んでも大差はありません。
おい! 頭の中に悪魔と堕天使しかいないよ!
僕は雑念を振り払うように頭を振ってから、近くにあったタオルケットを取る。
「だいたい、千川さんも無防備すぎるんだよ、まったく」
少し名残惜しいような気がしなくもないですけどね。
肩から千川さんの体が見えないようにタオルケットをかける。
「……けん…じ…私…」
僕の耳がちょうど千川さんの顔近くに来たとき、千川さんの寝言が聞こえた。
何も悪いことをしていたわけじゃないのに、僕はその場を飛びのいた。
「千川さん起きてる——」
僕は千川さんの顔をみてハッとした。彼女の目じりには涙が光っていた。
千川さんは一定のリズムで舟をこぎ続けていた。
今度は違う意味で千川さんを直視できなかった。
僕は何ともいたたまれなくなって部屋を出ることにした。
部屋を出て、どこに行くわけでもなくロビーまで歩いて、缶コーヒーを買い、ソファーに腰かけた。
やっぱり、千川さんも賢治のことが好きだったのだろうか?
何だろう? 何かを忘れている気がする。
手に持った缶コーヒーを眺めていたら、ふいに声をかけられた。
「あ、宗一郎さん!」
声はロビー横のお土産売り場から聞こえる。
「ちょうどよかったー。お父さんへのお土産って何がいいと思う?」
そっちを見てみると、お土産売り場から未来ちゃんが顔を出した。
僕のほうへ、スリッパをパタパタ言わせて小走りで近づいてくる。
「これなんかどうかなー? かわいいと思うんだけど」
未来ちゃんの手にはゆるキャラの人形が握られていた。
何とも中途半端な可愛さで、目つきが悪く、顔が少しひねている。
ベースは熊だろうか? それとも犬?
その熊とも犬とも言えないぬいぐるみの右手にはなぜか徳利が握られている。
強面のあのマスターに、このゆるキャラを送るのか?
僕は思わず噴き出した。
「あー、ひっどーい、これでも私は真剣に考えてるんだからね!」
「わるいわるい、マスターが人形持ってる姿想像したらおかしくて」
未来ちゃんはむーっとその場で唸る。
一通り唸った後、そんなにおかしいかな? っといった風に手に持った人形とにらめっこをしている。
その姿は高校三年生なのに見た目のほうが少し幼く見えるからか、とても愛らしかった。
思わず未来ちゃんの頭をなでてしまう。
「まぁ無難に、食べ物のほうがいいんじゃないかな? 温泉饅頭とか?」
未来ちゃんはその提案に納得したようで、お土産売り場に戻っていった。
そもそも明日もあるのだから、今日買わなくてもいいと思うんだけどね。
お土産を一生懸命探している未来ちゃんに別れを告げてから、部屋に戻る。
部屋に戻ると、そこに千川さんはいなくなっていた。
「結構酔ってたと思うけど、大丈夫かな?」
僕はさっきまでそこに千川さんが座っていたであろう、窓際の椅子を眺める。
彼女の寝言、やっぱり彼女は賢治のことが。
まぁ考えてもしょうがないか。
雑念を払うように頭を振り、窓に近づき視線を落とし外を見る。
不意に、離れにある、露天風呂が目に留まる。
僕は替えの下着を用意してお風呂に行くことにした。
この旅館一番の押しどころである露店岩風呂は、部屋のある建物から少し離れたところにある。
外を続く渡り廊下を進み、階段を上り、離れにある露天風呂を目指す。
脱衣所で素早く浴衣を脱いで、いざお風呂へ。
扉を開けるとそこには今までと違った景色が広がっていた。
広い、すごく広い、前の研修旅行の時は人が大勢だったから感じられなかった広さが、今は貸し切り状態で目の前にある。
身体を軽く流してから、急いで湯船に向かう。
「あ、あぁー」
湯船に入ると思わず、おやじ臭い言葉が出てしまう。
僕の他にお客さんはいないらしく、あたりはしんと静まっていた。
湯船にゆったりと体を伸ばし、星を見る。
静かになったこともあって、ずっと心に詰まっていた、考えない様にしていたこと、が頭を回る。
千川さんの真意は?
会社を一か月も休みってことは実質、首になったのかな?
それに、本当に自分は一か月で死んでしまうのだろうか?
実感があまりわかないのも事実だし、こんな一瞬がいつまでも続けばいいのにとさえ思う。
けれど、あの宣告のあと、二週間で賢治は本当に死んでしまった。
「…一か月、か」
ついつい、言葉がぽつりと漏れた。
その言葉を洗い流すように、顔を音を立てて洗う。
「休暇、一か月じゃ不満だった?」
ふいに声をかけられた。
声のするほうに顔を向けるとそこにいたのは、バスタオルを胸元までまいた千川さんだった。
「え? あれ? 部屋からいなくなったと思ったらここにいたの? それよりここは男湯じゃないの?」
急いでタオルを引き寄せて、股を隠す。
慌てふためいている僕をしり目に、千川さんは軽くはにかんで、あきれたように話す。
「宗ちゃんここは混浴よ?」
千川さんは湯船に入ると僕の横に座った。
僕は気恥ずかしくなって、横を向いて千川さんに背を向ける。
千川さんは僕を見てクスリと笑い、空を見上げながら、僕とは反対を向いて背中を預けた。
何だこの状況? 背中越しに男女が一緒ですよ。
どうしていいかわからず硬直していると、静寂を破ったのは千川さんだった。
「宗ちゃん、私ね、賢ちゃんが死ぬ三日前に再度告白されたんだ」
背中に千川さんの背中がくっつくと、僕の鼓動が早くなっていくのがわかる。
やばい、すごくドキドキしてる。
「それでね、断られちゃった」
どこか消えそうな、寂しそうな彼女の声が耳を抜ける。
胸の鼓動よりも、どこかニュアンスの違うその一言が頭を冷やしてくれた。
「賢ちゃん、幸せにして見せるって言ってた」
背中越しに彼女の体が震えている。
僕は知っていた。千川さんが賢治を好きなことを、
僕は知っていた。賢治が千川さんを本当に大切に思っていたことを、
なら、なぜ彼女は賢治の申し出を断ったのだろう?
断られた? 千川さんが賢治を振ったんじゃないのか?
「千川さんは、賢治のことが好きだったんでしょ?」
背中越しに彼女がビクッとしたのがわかる。
僕は千川さんにゆっくりと話す。
「賢治のことを、その、好きだったのは知ってる。千川さんの、賢治を見る目は、なんて言うか、その」
言っててどこか寂しくなった。
心が少し冷えていくのがわかる。
「いとおしいものを見るその目、だったよ」
「…それは」
千川さんはそこまで言って口を濁す。
高校時代、千川さんにあこがれを抱かない男子はなかった。
容姿端麗で、自分の社長令嬢という立場を気にしないで、分け隔てなく話す彼女は、高校時代、男子たちの女神のような存在だった。
賢治は賢治で、成績もそれなりによくて、運動神経抜群の俗にいうイケメンで、男女問わず人気があった。
高校時代の二人は誰が見てもお似合いの存在だった。
彼女は優しいから、自分の会社のことに賢治を巻き込みたくなかったのかもしれない。
賢治は豪快で、真っすぐで、それでいて自由な男だった。
彼女はそんな賢治に自分のために留まってほしくなかったのかもしれない。
「…私は、わからない、わからなかったの、賢ちゃんの言う幸せが、今まで生きてきた自分を壊してしまうんじゃないかっておもった。賢ちゃんのことは好きだった。でも…」
背中越しに、上気した彼女の体温が、じんわりと伝わる。
でもなぜか、その言葉のところどころに、何か心がざわめくものがあった。
きっと彼女は賢治への愛よりも、今までの、そしてこれからの自分の地位が大切だったのだろう。
千川社長令嬢、千川財団の跡取り娘、そんな肩書がその愛の邪魔をしたんだろう。
自身の両親からの圧力や、身のふるまい、その一つ一つをいろいろなところから、見られているのだろう。
これは何だろう、頭の中に自分でもわからない言い訳が思い浮かぶ、まるで自分でも何かにたどり着いてほしくないような。
僕は一つため息をついてから、千川さんに話しかけようとした。
「千川さんそれは——」
「…宗ちゃん、私ね、賢ちゃんのことも好きだったけど、…宗ちゃんのことも、その、……おんなじくらい愛してたの」
予想の斜め上からの返答に僕は思考は停止した。
へ?
今なんて言った?
賢治の恋の邪魔をしたのは、僕?
「それで、私は、今まで生きてきた自分を、三人の関係を壊したくなかったの…」
自分の耳を疑った。
心に何か重いものを落とされた気持ちになった。
「え? 今、なんて言ったの? 千川さん」
思わず彼女のほうを振り返る。
彼女は耳まで顔を真っ赤にして、目に涙をためていた。
僕の視線に気が付くと、視線から逃げるように顔をそらす。
「湯あたりしたみたい、先に上がるわ」
そう言うと千川さんは湯船から立ち上がり、脱衣所に向かって走って行ってしまった。
僕はその姿を呆然と見送るしかできなかった。
ふと頭に、言い訳は何のため? と疑問が浮かんでは消えた。
空は相変わらず星がきれいで、さっきまでの出来事が何もなかったかのようにきらめいていた。
そこからどうやって部屋に戻ったのか、自分でも覚えていない。
湯船につかり過ぎていたせいか、顔が熱っているのが自分でもわかる。
部屋に戻ると千川さんの姿はそこにはなく、代わりに浴衣姿の未来ちゃんがブスッとした表情でテレビを見ていた。
「もーなんで勝手にお風呂行っちゃうかなぁー」
戻ってきた僕をジッと一瞥すると、机に肘をついて、さも不服そうに先ほどお土産屋さんで買ってきたのだろう、お茶菓子をほおばる。
「し・か・も、離れの混浴のほうに行くなんて、どうして誘ってくれないかなぁー」
未来ちゃんは何を見るわけでもなく、不機嫌そうにテレビのチャンネルをパチパチと変える。
隣の部屋には布団が仕切り板で二つと一つに分けられていた。
未来ちゃんはがばっと、座椅子から立ち上がると腕を組んでこっちを睨んでくる。
「もー聞いてるの? 宗一郎さん! なんで温泉行っちゃうの! さっき窓の外見たら歩いてくる宗一郎さんみえたし!」
どうやら窓の外から見える渡り廊下を、僕が歩いている姿を見たようだ。
「あ、あぁ、聞いてる聞いてる、ごめんね未来ちゃん」
僕は力なく笑うと、未来ちゃんに平謝りする。
頭の中は温泉での出来事がぐるぐる回っていた。
千川さんは賢治のことが間違いなく好きだった。
賢治も千川さんのことが間違いなく好きだった。
でも千川さんは僕のことも好きだった。
なんで間違いなく好きだったと言い切れる?
そうやって勝手に決めつけていたのか?
何から逃げるために?
僕は賢治の恋敵でもあった。
賢治の恋が実らなかったのは僕のせいだったのか?
そして僕は、賢治の後を追うように、一か月後に死んでしまうのだろうか?
そもそも浮かんでは消えたさっきの疑問は何のため?
そもそも自分の、何を考えている?
だめだ、考えられない、今日はもう寝よう。
沸騰しそうになる頭が熱い。
「あれ? どうしたの? 宗一郎さん?」
どうやらボーっとしていたらしい、未来ちゃんが心配そうにこちらを見ている。
「未来ちゃん、ごめん、僕もう寝るわ」
「はー!? 宗一郎さん寝ちゃうんですか?」
「うん、そういうわけでおやすみなさい」
呆然としている未来ちゃんの横を通り過ぎ、そう言って僕は隣の部屋の仕切りで分けられた一つの布団のほうにもぐりこんだ。
未来ちゃんはキーっと叫びながら、その場で地団太を踏んでいた。
とりあえず今日は寝よう。
とっくに僕のキャパを超えてるよ。
「え? ちょっと、マジで? 宗一郎さん? この後三人でゲームやったりトランプやったり、っていう、旅行お馴染みの遊びはしないんですか?」
はぁ、布団が気持ちいい、これならすぐに眠れそうだ。
ほら、だんだん意識が遠のいていくのがわかる。
「…うわ、ほんとに寝ちゃったよ、もー! 宗一郎さんのバーカ! アホ! 真人間!」
薄れゆく意識の中で遠くにそんな声が聞こえた。
窓からさす朝日に目を覚まし、大きく背伸びをして、声にならない声をあげ、布団から起き上がる。
周りを見渡すと、部屋に二人の姿はなかった。
衣服を正し、座椅子に腰かける。
ぼーっとした頭で、お茶でも入れようかと視線を机に移すと、無造作に置かれたメモ紙に、目が留まった。
「意地悪な宗一郎さんへ、勝手に朝食に向かいます。起こしませんよーだ。意地悪!甲斐性なし! お爺ちゃん睡眠!」
何だこのメモ紙。
殴り書きされたメモを読み終えて、僕は首を垂れてため息をつく。
確かに昨日は、未来ちゃんにかまってあげられなかったなぁ。
もともとこの温泉旅行は、未来ちゃんの卒業旅行だし、少しかわいそうなことをしたかもしれないな。
そんなことを考えていると、音を立てて部屋のドアが開いた。
そちらに目をやると、そこには千川さんが立っていた。
「あ、おはよう、宗ちゃん」
千川さんはそう言うと、顔を伏せてしまう。
頬を少し朱に染めて、いつもの自信に満ち溢れた感じと違い、視線が泳ぎ、照れくさそうに手をもじもじさせている。
その仕草が、昨日の出来事は、夢じゃなかったと物語っていた。
「お、おはよう、千川さん」
心がざわざわする。
僕は気恥ずかしくなって、顔をそむける。
千川さんは居心地悪そうに、そろそろと歩いていくと、窓側の椅子に腰かける。
「あ、あの昨日は――」
「その、昨日のことなんだけど―――」
声が同時に被る。
何ともいたたまれない。
こういう、何とも甘酸っぱい青春は、学生のうちで終わるもんだと思っていた。
沈黙が何とも重い。
「ちょ、朝食、食べに行ってくるね」
僕はそう言って部屋を逃げるように出た。
千川さんの顔が見てられない。
高校、大学と一緒だったのに、今までそんなことなかったのに、千川さんが僕のことを好き?
いやいや、うれしいよ? そりゃうれしいよ?
でも、これは恋なのか? 愛なのか?
それと、この心の重くなるざわめきは何なんだ?
僕は寝起きの頭がショートしそうになるのを抑えて、なんとか朝食の準備がされている大ホールに着いた。
「おそーい! おそーい! この、寝坊助! すっとこどっこい! 宗一郎!」
未来ちゃんが開口一番罵声を浴びせてきた。
宗一郎は名前です。悪口じゃないよ?
ブスッとした未来ちゃんの横に座ると、朝食を取ろうとする。
「昨日は悪かったって、今日は一緒に遊ぼう」
朝から未来ちゃんのご機嫌を取りつつ、朝食を見る。
メニューは恋もとい、鯉のおつくりと、愛違う、鮎のフライ、あー、和食ですね。
頭の中で勝手に連想ゲームされるくらいおかしな感じがする。
「宗一郎さん大丈夫?」
どうやら朝食を見て固まってしまったらしい。
未来ちゃんに曖昧な返事を返して、朝食に取り掛かる。
「そう言えば、宗一郎さん、千川さんは? 会ってないの?」
朝食に手を付けようとしていた僕の箸が、ピタリと止まる。
未来ちゃんのほうを見ると、箸をどれに着けようか迷っているようだった。
「朝食に来ないからって、宗一郎さんを呼びに行ったんだよ?」
「あー、そうだったんだ? 悪いことしちゃったなー、会ってないような会ったような?」
曖昧な返事に未来ちゃんは不思議に思ったのか、ふーんと言うとこちらをジッと見る。
何だろう責められているようで視線が痛い。
「何があったのか知らないけど、千川さん、呼んできたほうがいいんじゃない?」
未来ちゃんはそういうと再び料理に目を移した。
隣の席を見ると、手を付けられていない料理がそのまま置かれていた。
このままじゃ朝食がのどを通らない。
未来ちゃんの提案を飲んで、千川さんを呼びに行くことにした。
大ホールを出るとき未来ちゃんが何かを言っていた気がするが、小さい声で僕にはよく聞こえなかった。
寝泊りしている部屋の近くまで来たとき、ちょうどその部屋から出てきた千川さんに会った。
「あ、や、やあ」
何とも間抜けな声が出る。
千川さんは僕の声に少しうつむいて、こちらを見ないようにしてこくりとうなずく。
「さっきは、その、ごめん、朝食わざわざ呼びに来てくれたんだってね」
千川さんはこっち見ずにまたこくりとうなずく。
あーもう、何をテンパっているんだ僕は。
頭を軽く振り、あくまで平静を装い、話を続ける。
「その、未来ちゃんも待ってるし、とりあえず行こうか」
僕と千川さんは、もと来た朝食の準備されているところまでの道を、並んで歩く。
こういう時、賢治ならどうしていただろう?
ふとそんなことを考えていた。
「宗ちゃん、覚えてる? 賢治が寝坊して、研修の時に朝食に遅れてきたこと」
ぽつりと千川さんが話す。
研修の初日、朝八時からの朝食に賢治は大遅刻をした。
部屋が同じだったから、上司に僕まで怒られたことがあった。
連帯責任だろうと言われ、なぜか大目玉を食らった。
まぁ、怒られるのは最悪良しとしても、皆が朝食を食べているど真ん中で、正座させなくてもいいと思うんだよね。
「あぁ、あったなぁ、賢治のやつ、同じ部屋なんだから起きるまで起こしてくれるのは当たり前だろうとか、上司に怒られてる最中言うもんだから、上司がさらにヒートアップしちゃって」
賢治がそんなことを言うから、かんかんに怒った上司の怒りが、僕にまで飛び火して散々だった。
「あいつ、説教終わった後、まるで僕が悪いみたいなこと言いだしてさ」
頭の中をあの時の風景がフラッシュバックする。
それは怒られたせいで、二人とも遅くなった朝食を食べているときだった。
「全くあそこまで怒る必要ねぇじゃねぇか、なぁ宗一郎?」
「いやいや、寝坊したお前が悪いだろう、どう考えても」
僕は箸を止め、ため息をついてから、うんざりした視線を賢治のほうにむける。
「だってお前、昨日俺を支えてくれるって言ってたじゃんか」
「僕はそう言う意味でいったんじぇないよ」
賢治はなぜかにやにやしながらこっちを見ていた。
全くこの人は、どうして自分の悪いことを認められないんだか。
「怒られてたのに何、にやにやしてるんだよ賢治、気持ち悪いよ」
「な! お前、人のことを気持ち悪いだとか言うもんじゃないぞ」
思い出すとなぜか心がちくりとした。
あぁ。今思い返しても、腹立たしい限りだ。
きっとこれは怒りだな、うん、自分勝手な賢治に怒ってるだけだ。
「私、あの時、遠目に見てたんだけど、なんだかいいなぁって思った」
千川さんは思いにふけるようにどこか遠くを見る。
「いやいや良くないよ。ただの飛び火だよ?」
僕は顔の前で手を横に振る。
それを見て千川さんはクスリと笑う。
不思議とさっきまでの緊張は解けていた。
「友情ってああいうものなんだろうなって、なんだろうね、二人の間には割って入れないんだろうなって思ったんだよ」
千川さんの一言に、再度、心のざわつきと、針を刺されたような痛みが走った。
そうこうしているうちに大ホールまでついた。
「もー、宗一郎さんは探しに行くのも遅いんだから」
僕らに気が付いた未来ちゃんはそう言いながらふてくされたようにデザートのアイスを食べている。
「ごめんね未来ちゃん、私、ちょっとお手洗いに行ってたものだから」
千川さんはそう謝ると、席について自分の朝食に手を付けだす。
僕も未来ちゃんと千川さんの間に座って朝食を取り直す。
先に食べ終わって暇を持て余した未来ちゃんはてもちぶたさを紛らわすように、千川さんと僕を交互に見る。
「千川さん、宗一郎さん、今日は何します?」
未来ちゃんはまだふてくされているのか、拗ねたようにぽつりとつぶやく。
冬だと、ハイキングコースも寒いだけだし、温泉は夜でもいいし、釣りは、確か未来ちゃん嫌いだったな。
いろいろ思いを悩んでいると千川さんが答えを出した。
「そうね、今の時期だと、近場のスケート場か、年中無休の温水プールもあるわね」
「温水プール!」
未来ちゃんの目が輝く。
あぁっと、近場のスケート場も、温水プールも、両方とも千川財団のレジャー施設だよそれ。
自分自身、気が付かないうちに会社の施設を頭から排除していたらしい。
どうやら何気なしに、僕は嫌な顔が出ていたようで、千川さんはこっちを見ると気にしないで、とでもいうように、にっこりと含みのある笑みを送ってくる。
「え? なんで? 宗一郎さんプール嫌いなの?」
「いやそういうわけじゃないけどね」
僕だって年ごろの男ですし、かわいい女の子二人とプールだなんて最高のシチュエーションですよ?
願ってもいないチャンスですよ。そりゃぁね。うれしいですよ。
ただ一点、それもこれも、自分の会社の施設じゃなければね。
「宗ちゃん、別に誰に見られるわけじゃないのだから、気にしなくて大丈夫よ」
そういう千川さんの瞳は、これからいたずらをする小学生のように輝いていた。
会社を休んで会社の施設に入りびたり、美女二人をはべらかせていたら、そんなの上司にも部下にも見られたくない。
というより見られたら、会社で何を言われるか分かったもんじゃないんですよ。
「あーでも、私、水着持ってきてないや」
未来ちゃんはがっかりした様に項垂れる。
「大丈夫よ、水着も借りれるから、なんなら私の替えの水着もあるわよ」
そう言うと千川さんは、まるで「任せておけ」というかのように、親指を立てる。
途端に未来ちゃんの顔が明るくなる。
あぁ、そうね。そうですよね。
千川さんにとっては、≪自分の家≫みたいなものですもんね。
そう言うわけで朝食を取り終えた僕らは温水プールに行くことにした。
年中無休の常夏空間、「南国千川スパー」に来たのはいいのだけれど、さすがに冬の温水プール。
人がまるでいない。
僕はガランとしたプールを見渡した。
「……これは、……さすがにお客がいなさすぎるわね―――」
顎に手をやり、何かに思いつめた感じで千川さんが現れる。
少し離れたところにいる千川さんの独り言が聞こえるくらいガランとしている。
千川さんはどうやら、この施設の経営状態に悲観しているようだった。
周囲を見渡す千川さんは、こっちに気が付くと軽く手を振って近づいてくる。
肩まで伸びた黒い髪をなびかせて、すらっとしたラインと透き通るように白い肌、黒いシックなビキニ姿はまたそれを引き立てていて、足を出すたびに揺れる我儘な胸元が、何とも言えない大人の魅力を見せつけていた。
「二人ともお待たせ―」
そう言って現れた未来ちゃんも、大きすぎず小さくもない胸と、あか抜けた感じの茶色くて軽くウェーブのかかった髪、かわいい系のオレンジ色のふりふり付きのビキニがちょっとエッチな雰囲気と、最近の女子高生の発育っぷりを表していた。
っていうかこれ、なんなの?
僕は一か月しないで明日にでも死ぬの?
「宗ちゃんー、未来ちゃんに手を出しても犯罪ではないけれどー、ばれたらマスターに殺されるわよ」
どうやら見とれてしまっていたらしい。
未来ちゃんは照れくさそうにえへへっと笑う。
「い、いや、なんだ、その、二人ともきれいだなって思って」
言ってて自分が恥ずかしくなるのを感じる。
きっと耳の先まで真っ赤になっているんじゃないかと思う。
どうやらそれは僕だけじゃないようで、二人とも恥ずかしそうにもじもじしだす。
なんだこれ、すごくかわいい。
ここが会社の施設じゃなければさらに良かったのにと思う。
「ほ、ほら、私あれに乗ってみたい! ウォータースライダー」
未来ちゃんの指さす先には巨大な滑り台があった。
僕は引きずられるまま片っ端からプールを楽しんだ。
そんなこんなで一通り楽しんで、お昼を取ることにした。
いろいろ買い込んで、今は、手ごろな席についている。
「未来ちゃんはどうしたの?」
隣に座った千川さんが周りを見渡している。
僕は焼きそばに手を付けながら答える。
「あぁ、ウォータースライダーが偉く気に入ったみたいで、食べる前にもう一回、行ってくるってさ」
何とも言えないもっさりした焼きそばを、ビールで流し込んで、ウォータースライダーを指さす。
「そう、宗ちゃんはもういいの?」
「さすがにもう疲れたかな? 千川さんこそもういいの?」
気が付くと千川さんの前にはスケジュール帳が置かれていた。
右手に持たれたボールペンで頭をかいている。
「どうしたら、この忌々しき事態をどうにかできるか、と思って」
社長令嬢、お仕事ご苦労様です。
心の中でねぎらってあたりを見回す。
確かにお客さんは少なくてガランとしている。
というより、貸し切り状態に近かった。
冬場とはいえさすがに味気ないくらいに人がいない。
「そうだなぁ、冬場に割引行うとか? ちょっとしたイベントを行うとか? かな?」
誰に言うわけでもなくぽつりとつぶやく。
「どうせ夏場はいやって程お客さん来るだろうしさ、そんな感じのお客さんに冬場に来ても楽しんでもらえるように夏のころから企画したりしてさ、月一回の何かのイベントを企画する、とか? でもそれだとその日だけしか増えないから、週一回、というよとり毎日ちょっとしたイベントを起こしたりして、人数少なくても何かできる感じのほうがいいかなぁ」
ぼーっと、人のいないプールを眺めながらそんなことを口走る。
「そうだな、例えば宝探し? とか? 家族みんなで楽しめるものを企画して、人が少なくてもできる系なほうがコストもかからないだろうしさ、準備もそんなにかからないだろうし、継続もできるしさ、商品に割引券とか? リピーターを増やす感じのものを——」
っはとして横を見る。
千川さんは口を半開きにしてこっちを見ていた。
「すごいわね、宗ちゃん」
千川さんは僕の視線に気が付くと、ふむふむと何か意味ありげに頷く。
しまった。やってしまった。レジャー部の仕事を押し付けられてしまう。
その時ふと思った。
押し付けられるも何も、一か月後の休み明けに果たして僕はいるのだろうか?
「あ、いや、何でもない、今のは忘れてくれ、何も考えてない素人の意見だから」
千川さんは僕の話なんて聞いてないようでメモを取っている。
また昔の光景がフラッシュバックされる。
「宗一郎、お前の発想はすごくいいんだ、なんでもっと進まないんだ?」
「こんな幼稚な考えでさ、仕事が出来たら苦労しないだろ、建設的な意見なんぞまるで入っていないんだからさ」
これは会社の帰りの居酒屋で話していた内容だ。
「いいんだよ、稚拙で、幼稚で、考えなしで、そういうものから案は生まれるんだよ。意見が出なければそもそも何も生まないし進まない、考えなしの行動が後から見たら正解だったこともある」
「そう言うもんかねー? 僕には無理だな、どうしても考えてしまうよ。それこそ考えなくてもいいことまで考えてしまう」
「考えなくていいところまで、か」
そう言う賢治はどこか寂しそうに僕の話を聞いていたっけ。
考えなしの行動、か。
「宗ちゃん? 宗ちゃんってば?」
不意に現実に引き戻される。
「あ、ごめん、聞いてなかった」
千川さんは心配そうに顔を覗き込む。
柔らかな胸が肘に当たっている。
何とも気持ちがいい感触がする。
「この長期休暇を終えた後の話だけど、…どうしたの? 具合悪いの?」
「いや、大丈夫、大丈夫だから」
慌てて僕は少し距離を取る。
っていうか近い、近いよ、具合悪くなくてもドキドキして顔が赤くなってしまうから。
ふぅっと息を吐いて呼吸を整える。
距離の近さに千川さんも気が付いたようで慌てて離れる。
赤面した千川さんを見ると、何とも言えない気恥ずかしく、いたたまれない空気になってしまった。
「そ、そう言えば未来ちゃん遅いね。ちょっと様子を見てくるよ」
僕はそう言って逃げるように席を立つ。
僕は今、何から逃げているんだろう?
昨日のことが頭によぎる。
考えないようにしていた出来事が堰を切ったように流れてきた。
それは自分の過去の話?
僕は何におびえているんだろう?
頭を、考えなくてもいい考えがぐるぐる回る。
とりあえず未来ちゃんを探そう。
沸騰しかけた頭を振って周りを見渡すと、人影が少ないこともあって、すぐに見つけることができた。
未来ちゃんは流れるプールにいた。
こっちに手を振っているようだ。
僕も未来ちゃんに向かって手を振り返す。
うん? 何だろう? 様子がちょっと変だ。
溺れているのか?
未来ちゃんのほうへ、少し足を速めた。
「…た、助け…」
次の瞬間、水の中に未来ちゃんが消えた。
「未来ちゃん!」
僕は叫ぶや否や走り出した。
プールに飛び込み急いで駆け寄る。
水の中でぐったりした未来ちゃんを、プールから引き揚げ、その場に横にする。
肩を大きく揺すり、意識があるかどうかを確認する。
「未来ちゃん! 未来ちゃん!」
口元に手をかざすと、息はしっかりしているようだった。
しばらく声をかけていたら、目がうっすらとあいた。
「大丈夫? 未来ちゃん?」
「あ、あれ? 私、溺れてたの?」
良かった、無事みたいだ。
「本当に良かった」
僕は安心して胸をなでおろす。
未来ちゃんは、がばっと起き上がると僕に抱き着いてきた。
「宗一郎さん怖かったよー、怖かったー」
僕は安心して緊張が解けたからか、抱き着かれてどぎまぎしてしまう。
なんていうか胸にその、押し付けられて、何とも言えない感触が。
「大丈夫? 未来ちゃん?」
いつの間にか千川さんも横にいて心配そうに未来ちゃんに声をかける。
「千川さんー、怖かったよー」
千川さんも安堵の息をもらす。
未来ちゃんは今の状態に気が付いたのか、ハッとして急いで僕から離れる。
耳まで真っ赤にして、胸元を隠して叫びだした。
「そそそ、そそ、宗一郎さんのエッチ! スケベ! それからえーっと、エロ魔殿!」
いやあの、抱き着いたのはそっちなんですよ。
それよりも、エロ魔殿って何でしょう?
やれやれと頭を振ってから立ち上がり、未来ちゃんを立たせるべく手を差し出す。
未来ちゃんは息をのんだ。
僕はその仕草になんか気恥ずかしくなって、手を引っ込めようとした。
「あ、いや、大丈夫ならいいんだ」
手を戻そうとしたらつかまれた。
未来ちゃんは小さくうつむいて、視線を逸らす
「あ、ありがとう」
吹けば飛ぶような小さなお礼が聞こえた。
「どういたし、まして!?」
そのままそこに立たせようとしたら、ぐいっと思いっきり手を引っ張られた。
足を滑らせ、体が軽く宙を舞い、プールに一直線。
一瞬みた未来ちゃんの顔は、にやりと黒く目が光っていた。
え?
その出来事に何が起きたのかわからなかった。
次の瞬間、僕は頭から、プールの中にいた。
なんてことをするんですかこの人は?
がばがばと、かっこ悪い感じでその場に立ち上がると、プールサイドで僕を指さして、二人は大笑いしていた。
僕はその場で首を垂れて落胆した。
ひとしきり笑われた後、僕はプールから上がる。
「ありがとうね宗一郎さん、とりあえず、おなかすいた!」
元気になった未来ちゃんの一言で僕らはさっきまでいた席に戻ることにした。
昼食の後、しばらく遊んでからホテルの部屋に戻ると、すっかり遊び疲れたのか、未来ちゃんは早々と寝てしまった。
「夕食までまだ時間あるし、私少し寝ます! おやすみなさい」
だそうで、寝る子は育つんだろうなぁと思ってしまう。
昼食前のあの感触が今でも思い出される。
まぁ、どこがとは言いませんよ? これからもっと大きくなるんでしょうね。
どこがとは言いませんが。
そんな感じで呆けていると目の前にお椀が置かれる。
「宗ちゃん、お疲れさま、……なんか変なこと考えてた?」
千川さんはそう言うとお茶を出してくれた。
「な、何にも? ちょっと、ぼーっとしてただけだよ」
僕はぶんぶん首を振ってお茶を受け取る。
受け取って一口飲むと、お茶のあったかさに心も満たされていくようだった。
ふぅっと息をついてから、未来ちゃんのほうを見る。
溺れかけていたこともあるし、結構疲れていたのかな?
息をするたびに布団が上下している様子から、もうすっかり熟睡しているようだった。
「…もう…だめですってば……宗一郎さん」
悩ましい声のそんな寝言が聞こえる。
いったいどんな夢を見てるんですか?
視線をお茶に戻し、窓のほうをふとみると、窓の近くの椅子に腰かけた千川さんと視線が合った。
西日が窓から刺されているせいか、千川さんの頬が朱く染まって見える。
「…宗ちゃん、昨日のことなんだけど」
不意にひんやりした空気が流れ込む。
妙に静かなその声に曖昧な返事を返してしまう。
心がざわつくのがわかる。
「…その、昨日のこと、宗ちゃんは迷惑だった?」
千川さんは軽くうつむいて、こちらと目を合わせないようにしている。
「そんな、迷惑だなんてそんなことは、ないよ」
そう返事をして、空になったお椀に視線を落とす。
迷惑だなんてとんでもない、正直言ってうれしいと思った。
でも、賢治は? 賢治の気持ちは?
千川さんは一時の気持ちに流されてしまったのではないか?
賢治を失った気持に押しつぶされそうになっているだけなのではないか?
考えなくてもいい考えが頭を回る。
何であいつは去ってしまったのだろう?
生きていればこんなことにはならなかっただろう。
昨日と同じように言い訳が頭に浮かんでは消える。
誰するわけでもない言い訳が頭の中に浮かんでは消え、また浮かんでは消える。
「…その、宗ちゃん、宗ちゃんさえ良ければ、私——」
「いやー、今日の夕食は、なんだろうね」
我ながら間抜けである。
僕は自分の気持ちに気が付いてしまった。
千川さんの声が聞こえなかったふりをして、妙に元気に、千川さんから目をそらして話を続ける。
「昨日のお刺身もおいしかったし、今日は洋食かな? それともまた和食かな?」
頭をかきながら、座椅子から立ち上がり、急須を取り、空になったお椀にお茶を注ぐ。
僕は、ひどい男だと思う。
千川さんに問題があるんじゃない、問題があるのは僕の心だ。
もちろん千川さんのことが好きだ。
愛しているといっても良い。
本当に? 人を受け入れないのに?
だけどこれは違う気がする。
そうやって自分をごまかすんだ、いつも。
千川さんは一時の感情で、押しつぶされそうな心を誰かに依存して、平静を保ちたいだけだ。
それも言い訳なのではないか?
それは、愛情ではない、恋心ではない、ましてや同情や哀れみからくる悲しい心だ。
そう言って自分を欺いてるだけなんじゃないか?
「おいしかったからなぁ——」
変に流ちょうに、要らない言葉が後から後からついてくる。
自分の心に人を入れない、そうすれば自分は決して傷つかない。
今は、だめだ。
なら、いつならいいの?
自分に言い聞かせるようにしているのがわかる。
僕は、最低だ。
ただただ、自分の心に人を入れたくないだけなんだ。
親友を失った悲しみにお前もうち伏せろと言っている。
それすらも言い訳で、ただただ、拒絶したいだけなんだ。
僕の心に入ってくるな。
自分でもどうすることができない。
自分と向き合ってすらないのに?
「……宗ちゃん」
消えそうな声に、言葉が詰まる。
千川さんを見ると、彼女の瞳に涙がたまっていた。
その瞳はどこか寂しげで、軽く微笑んで、切ない。
「……私、わかっているの、そういう態度をとるのは、貴方が、賢治と他の誰かを——」
息が詰まる。
心がきしむ。
触れてはいけない。
僕の心に触れさせてはいけない。
僕は再度目をそらす。
見てはいけない、あの人はお前の心に踏み込んでくるぞ。
頭の中で何かが警鐘を鳴らす。
「い、いやー、やっぱし、あれかなー、ステーキとか出てくるのかなー」
「宗一郎!」
さっきとは打って変わった怒気のこもった声に驚き、千川さんを恐る恐る見る。
千川さんはこちらをキッと見据えている。
千川さんの瞳からは窓から入る光に充てられ、光るものが流れた。
静まり返った部屋で、時計の針が時を刻む音が響く。
分かっている。
頭の中で言い訳している。
心の中でさえも言い訳している。
賢治もそうだった。
僕の心に踏み込んで来ようとしていた。
でも踏み込ませなかった。
分かっていた。
拒絶していた。
一か月で死ぬんだ。残された彼女の気持ちを考えろ。
今もまた、言い訳を頭の中に繰り返し、誰も踏み込ませようとしない。
賢治でさえも拒絶した。
踏み込まれて、入ってきて、勝手にいなくなって、残された人がどんな気持ちになるかわかるから、残されて、悲しくて、やるせなくて、それでいてどこかざわついて、行き場のない感情を何にぶつけていいわけでもなく、ただただ呆然として、心に折り合いつけて、屈折していく。
だから僕は、心に誰も入れさせない。
これから先、どんな人がいても、僕の心には誰も、入れさせない。
「宗一郎、私は、私は諦めないわよ」
千川さんは、ただただ真っすぐに、こっちを見る。
急激に頭が冷えていくのがわかる。
うすら寒い笑顔を千川さんに向けているのがわかる。
僕はその目が怖い、ただただ真っすぐに突き進んでくる千川さんのその目が怖い。
僕は視線を落として、そらしてしまう。
「…何が、何が、分かるんだよ」
ぼそりと口に出てしまった。
僕は頭を振っていつもの笑顔を作る。
「あ、あはは、なーんてね」
変におどけているのがわかる。
こんな上ずった声で、こんな冗談でした、みたいな声を出すのは普段なら絶対あり得ない。
「私は、賢治ができなかった。あなたのその笑顔をはがして見せる。必ず。」
どんだけ気丈に振る舞っても、どんだけ良い顔をしても、踏み込んでくる人は必ずいるんだ。
僕はそんな人たちが大好きで、僕は自分のことが嫌いだった。
臆病な自分が、逃げている自分が、向き合えない自分が、そんな自分をバッサリと切って行ってしまう、この人たちが、苦手で、でも好きで、この距離が心地よくて、甘えて、切られないように自分を隠して、いつまでもいつまでも、こうしていたいとさえ思っている。
「……ははは、表情怖いよ。まるで殺人鬼のような言い回しだね」
僕の乾いた声に千川さんの返事はなかった。
話はそれで終わったようで、千川さんはすっかり暗くなった窓の外を眺めていた。
僕は座椅子に座り直し、どこを見るわけでもなくほおけていた。
心に誰かを入れると、いなくなった時に、いたたまれなくなる。
それがわかるからこそ、だからこそ。
僕、笹塚宗一郎は、人の心を拒絶すると誓ったのだ。
僕は座椅子に腰かけて、お茶を飲んでいた。
何をするわけでもなく、千川さんと僕は一言も口を利かずにずっとお互い目を合わせずにいた。
「どしたの? この空気?」
後ろからの声に、僕は驚き振り向く。
そこには未来ちゃんが今起きたようで、伸びをしていた。
「いや、別に……何にもないよ」
「えぇ、何もないわ」
未来ちゃんは僕と千川さんを交互に見て首をかしげる。
「ふーん、そう、ならいいんですけど」
未来ちゃんは少し不服そうにそう答えるとお茶を入れて飲みだし、携帯電話を見ると叫んだ。
「って、もうこんな時間じゃないですか! ご飯食べに行きましょうよ!」
そう言われて僕も時計を見る。
時刻は夜の八時を過ぎていた。
「えぇ、そうね、食べに行きましょう」
こうして三人で部屋を出た。
未来ちゃんを先頭に、僕、千川さんの順で歩いていく。
三人とも大ホールに着くまで終始無言で、何とも言えない重圧がかかっていた。
「ほんとに何にもなかったんですよね?」
ホールの前に着いたとき、未来ちゃんは立ち止まりぽつりとつぶやく。
僕はどうしたもんかと、頭をかいた。
千川さんのほうに目をやると、千川さんは千川さんで、僕と目が合うとそっぽを向いてしまう。
「あのー? お二人さん? この旅行の目的忘れてませんか?」
未来ちゃんは振り返りほっぺを膨らませて拗ねている。
目はジトッとして僕を見据えている。
「この旅行は! わ・た・しの卒業旅行なんですからね!」
そう言いながら人差し指を立てて、ずいっと迫ってくる未来ちゃんに、僕は一歩後ずさった。
「お二人が勝手にけんかするのは、そりゃ自由でしょうけど、わ・た・しを巻き込まないでほしいんですけど?」
未来ちゃんはそういうとさらに一歩こっちに迫ってくる。
ぐっと、迫ってくる勢いと、何も言い返せない正論とで、僕はいたたまれなくなった。
それは千川さんも同じようで、僕の横で申し訳なさそうな顔をしている。
確かに卒業旅行を楽しみにして来ている未来ちゃんには悪いことをしてしまっている。
「ごめん、悪かった」
「宗一郎さん、だ・れ・に謝ってるんですか?」
へ?
僕は未来ちゃんの言ってる意味が分からなかった。
「どーせ、宗一郎さんのことだから、千川さんにしょうもないこと言って、傷つけたんでしょ!」
さらに一歩僕に距離を縮める。
未来ちゃんに見上げられる形になる。
「いいのよ、未来ちゃん、私も悪かったのだから」
千川さんは、寂しそうな笑顔で未来ちゃんに謝る。
未来ちゃんは一瞬、千川さんのほうを見るとまた僕にジトッとした目を向けてくる。
一つため息をわざとらしくついて、あきれたように、首を振る。
「千川さんは相変わらず、宗一郎さんに優しいですね」
未来ちゃんはそう言うとさげすんだ目で僕のほうを見て、何か言いかけようとしてから、口を結んで頭を軽く振ると、踵を返しホールに入っていった。
あとに残された僕と千川さんはお互いに顔を見合わす。
「あの——」
「その——」
お互いの声が重なってしまう。
お互い何とも気まずくその場にうつむいてしまった。
「……ふふ、フフフ」
千川さんがこらえるように笑い出す。
僕もつられて笑いだしてしまう。
恥ずかしいとも、バカらしいとも、何をしていたんだか。
「はぁ、一番年下の子に、諭されてしまうとはね」
僕はそういいながら頭をかく。
「そうね、何をしてたんだか、私たちは」
そういうと千川さんは自分の髪を肩から払う。
「さっきはすまなった。僕のために言ってくれてたのはわかるんだ。けど……」
「いいのよ。宗ちゃん、これは私が決めたことだから、近いうちに心からのあなたの表情を出して見せるわ」
彼女はそう言うと僕の前を歩いていく。
ホールの入り口まで来て、立ち止まると僕を横目で見て呟いた。
「私は、いつまでも待っててあげられるほど、優しくはないのよ?」
千川さんは優しい人だと思う。高校の時からずっと僕と賢治に優しかった。
「それと、殺人鬼は無いんじゃないかしら?」
あぁ、高校の時から怒ると凄く怖い人だった。千川さんの目は今度は純粋に怖かった。
千川さんは、ホールに入っていった。
心に触れられる。
なんだろう? その恐怖より、今は安心感が勝っていた。
自分の心と、自分自身と純粋に向き合わなければならないのかもしれないな。
そんな事を考えながら僕は千川さんに続いて、ホールに入る。
未来ちゃんは昨日と同じ様に、ホール側の端の席に座っている。
千川さんは未来ちゃんの横を通り過ぎるとき、未来ちゃんに一言二言、耳打ちしてから、昨日と同じように、一席開けて座った。
僕は間の席を目指して歩く。
未来ちゃんの横に座り、未来ちゃんのほうを見ると、相変わらずジトッとした目を僕に向けてくる。
「悪かったよ、未来ちゃん」
僕は未来ちゃんに平謝りする。
その様子を見て、未来ちゃんはため息をつく。
「まぁ、いいですよ、その様子を見ると、元通りになったみたいですしね」
「あぁ、ありがとう」
素直に感謝する。
未来ちゃんは少し拗ねたように、頬を膨らませうつむく。
「私は、……ただ、千川さんも、……宗一郎さんも、仲良くしてもらいたかっただけで、……別に感謝されるようなことは何も、してないっていうか、……どうせ喧嘩みたいなのするなら、私も中に入れてほしかったっていうか、……仲間はずれみたいで、少し嫌だったというか——」
何とも小さい声で話していたので、終わりのほうは聞き取れなかった。
僕は聞き直そうかどうしようか迷い、未来ちゃんのほうへ少し体を傾けた。
「ひゃ! な、何でもない! 何でもないんです!」
未来ちゃんは慌てた様子で、自分の前で手を激しく振りだす。
「うん? そう? 未来ちゃんには感謝してるよ。何かお礼がしたいくらいだし、本当にありがとう」
僕は改めて未来ちゃんにお礼を言った。
「うーん、そうですね。なら、ご飯食べて戻ったら、三人で一緒に遊びましょうね」
そういう未来ちゃんの顔は満面の笑みになっていた。
僕は改めて目の前の夕食に目を移す。
今日もザ・和食って感じのラインナップだ。
「ふん? うん?」
そういえば昨日とあまり変わらないような気がする。
おいしいのだけれど、二日連続というのもなんだか味気ない。
「どうかしたの? 宗ちゃん?」
不満の顔が出ていたのか、千川さんがこっちを覗き込んでくる。
この人はもうお酒が入ってるんでしょうか?
頬を軽く赤らめ、右手にはお猪口をもって何とも楽な恰好で晩酌してる。
「いや、なんだろう? 連日泊まる人は何種類かの料理から選べるようにしたほうがいいのかもなぁと、ふとそう思っただけだよ」
「ふーん? 例えば和食と洋食な感じ?」
うーん? 洋食っていうより、なんだろう? 和食なら和食でもいい気がするんだけどね?
「例えば、和食でも肉メインとか魚介メインとか? むしろ洋食っていうより、いっそフレンチみたいな? ここのホテルって見た目なんていうか和食が出てくるってイメージないしね」
千川さんは僕の話を頷きながら聞いている。
「そうね、確かに和食が出てくるインパクトは二日目からは消えてしまうものね」
そういうと千川さんはお猪口を煽る。
それにしてもおいしそうに飲むよな、この人は、お酒が本当に好きなんだろうな。
「あぁ、そうだ。例えば日本酒の利き酒みたいな物とかあったら面白いだろうね」
千川さんみたいな人は喜ぶんじゃないかな?
そんなことを考えていたら、隣から声が上がった。
「もう、まったくお二人さんは! どうしておいしい食事でそんなむつかしそうな話をしてるんですか! 私は二日連続でお刺身が食べれて幸せですよ!」
そっか、確かにそういう人もいるんだろうな。
僕は未来ちゃんがおいしそうに食べるその姿を見ていた。
そんなこんなで、夕食は終わり部屋に戻る。
千川さんは相変わらず結構飲んでいて、あっちへふらふら、こっちへふらふらしながら歩いている。
「もー! 千川さん飲み過ぎ! どうしてこんなになるまで飲むのよ!」
「もー未来ちゃん、大人には大人の事情があるものなのよ?」
若干ろれつの回らない千川さんは未来ちゃんに楽しそうに答える。
それにしても千川さんは楽しそうに飲む人だ。
「この後一緒に遊ぶって約束したでしょ!」
未来ちゃんはぷりぷりしながら千川さんの手を引いていく。僕はその姿を見て心が和んでいくのを感じた。何だろう姉妹みたいだな。
「らいじょうぶだって、お酒入ってる時の私はどんな勝負もまけないから」
あまり大丈夫そうでもないんですが。
まぁ、気持ちよく飲むのは良いことだ。一昨日賢治が死んでからどこかで千川さんの笑顔に曇りがあったし、楽しくなってくれるならそれに越したことはない。
部屋に着くと未来ちゃんはトランプを取り出した。
「さぁ! 何して遊びます?」
未来ちゃんの目が輝いている。
と言っても三人で遊べるものだから、結構限りがあると思うんだけどね。
「麻雀やる? って三人じゃ無理か、トランプね」
千川さん、状況分かってますか?
三人でやるゲームね。
「そうだね、セブンブリッジ、ポーカー、ババ抜き、ブラックジャック、戦争? かな? 三人だしね」
「宗一郎さん、三人でババ抜きって、正直微妙じゃない?」
未来ちゃんはカードをシャッフルしながら首をかしげる。
「意外と白熱すると思うよ。あぁ! ジジ抜きするか!」
千川さんは若干いやそうな顔をしている。
未来ちゃんはカードを切るのをやめて不思議そうにこっち見ている。
「宗一郎さんジジ抜き? って何ですか?」
「ジジ抜きはババ抜きと同じなんだけど、何がババかわからないやつだよ。ジョーカーも2枚入れて、一番最初にカードを一枚引いて、そのカードをだれにも見せないでかくしておいて、そのカードと同じ絵柄が一枚余るからそれがババになるんだよ」
まぁ、ババ抜きのルール通り、一番最後までカードを持ってた人が負けなんですけどね。
「えー、宗ちゃん、あれやめましょうよ、顔に出ないババ抜きとか正直ババ抜きじゃないわよ」
そう、これは賢治がババ抜きだとひたすら顔に出るから、ババ抜きのゲームを長引かせるためにやってた。
千川さんの言う通り顔に出ないとはいえ、後半はわかってくるからあまり関係ないんだけど、それでも千川さんの勝率は他のゲームに比べてあまり良いとは言えなかった。
まぁ、それでもなんだかんだ千川さんが毎回勝ち逃げしてたような気がしなくもないんですけどね。
何より、賢治とやってた時は賢治が最後までババをわからないという、何とも抜けた話もあるんですが、それは置いといて。
「千川さん、勝率悪いからね。まぁ、負けるかもしれない勝負はしたくないよね」
僕は千川さんを挑発する。
普段なら絶対乗ってこないであろう挑発だけれど、お酒の入ってる絶好調の千川さんなら。
「私はお酒入ってるときは負けないし! そこまで言うならいいわよ! 絶対一番に抜けて見せるわよ!」
はい、釣れました。
「まぁやってみればわかるよ。すぐ終わるし、とりあえず一回やってみようか」
そんなこんなでババ抜きが始まった。
カードをよく切ってから、一枚伏せて抜き取り、それがババになる。
配られた手札から会っている図柄を真ん中に捨てていく。
「あれ? 私のほうが枚数多い? 私の中にあるのかな?」
未来ちゃんの手札は5枚、僕と千川さんの手札は4枚だった。
「まぁでも、そうとも限らないからね」
手札をざっと見て、何とも不思議な感じがした。
多分、消えるとわかっていてもジョーカーが入ってるババ抜きってやっぱ変な感じがする。
「あ、そうだ宗ちゃん、どうせやるなら罰ゲーム付けましょうよ」
千川さんは唐突にそんなことを言い出した。
「あ、それ面白そうですね!」
未来ちゃんも乗り気だ。
一番枚数の多い未来ちゃんが乗り気なら、まぁ異論はないんですけどね。
「どんなの付ける? 無茶なのは無しだよ?」
「そうね、一位の人は負けた人になんでもお願いできることにしましょ」
あれ? ちょっと、無茶な話な気がするんですが?
「何でもって? 何でも! どんなことでもいいの?」
あの、未来ちゃん? 目が今までで一番輝いてますけど? 何を企んでるんですか?
「そうよ! キスでも! その先でも! なんでも思うがままよ!」
おいこら、そこの酔っぱらい何言いだしてんだ。
何だろう手札から嫌な感じがする。
「いやいや、さすがに無茶なお願いは無しだよね?」
「本当に! それ乗りましたよ!」
いやいや、未来ちゃん? 何ノリノリになってるんですか?
「宗ちゃん、漢なら勝てばいいのよ! 勝てば、私たちを自由にできるわよ」
何言い出してるの? この酔っぱらいは何言ってるの?
確かにお酒で上気してる千川さんとか、隣ではしゃいでる未来ちゃんとか、その、すごく、女の子してるなぁ、とは思いますけどね?
「宗ちゃん、意外と乗り気のようね」
いやいや、致し方なくですよ? 嫌ホントに、致し方なくですよ? 浴衣引っぺがしたいとか、これっぽっちも思ってないですよ?
嫌ホントに、みんなノリノリだから、水差すのも悪いなーとか思ってますよ。
「宗一郎さんのフケツ」
未来ちゃんが僕のほうを氷のように冷たい視線で見た後にボソッと心に刺さる言葉をつぶやく。
「さて、それじゃあ始めましょうか」
未来ちゃんは自分のカードを右にいる僕に差し出す。
一枚引いて図柄があったカードを捨てる。
意外と順調だな。これは本当に勝てるんじゃないか?
そんなこんなでゲームが進んでいく。
「フフフ、一番はやっぱり私だったわね」
千川さんは高らかにカードを捨てる。
手札は僕が二枚、未来ちゃんが1枚、っていうかジョーカーが不動なんですけど? これババってもしかしてジョーカー? ジジ抜きなのにババ抜きしてるの?
「いただきー! はい私、二抜け!」
はぁ、しまった、ジョーカーを凝視していたら、さっそうと隣のカードをかっさらわれた。
「結局ジジって何だったんですか?」
未来ちゃんはそう言って僕の残った手札を覗き込む。
「え? 結局ババじゃないですか、なんかすごい確率な気がします」
確かに、結局ババ抜きしてたんだよね。
しかも、僕の手札から微動だにしなかったんですよこれ。
「さて、宗ちゃん? 覚えてるわよね?」
いったい何の話でしょう? 僕は忘れてるんじゃないかな?
千川さんの目が怪しく光る。
僕は背中に嫌な汗をかいていた。
あぁ、怖いよ、やだなー、怖いなー。
「何にしようかしら、そうねー」
千川さんは楽しそうに首をかしげている。
その横で、未来ちゃんはわくわくした瞳を千川さんに向ける。
「あ! そうだ! あれにしましょう」
千川さんは自分の胸元でポンと手をたたくと立ち上がり、自分の旅行カバンをごそごそあさりだす。
何かを見つけたように、それを高々と上げた。
「ジャーン、猫耳カチューシャ」
千川さんの右手には黒い猫の耳が付いたカチューシャがあった。
はい? 何それ? なんでそんなの持ってるの? って、え? 二十代後半の男がそんなもの付けるんですか?
「宗ちゃん、はい!」
僕の目の前に差し出す。
パーティーグッズの猫耳は、女の子がしたらそれはもうかわいいでしょう。
「早くつけてよ。宗一郎さん」
えー、すごく嫌だな。
未来ちゃんはクスクス笑っている。
仕方なしに千川さんから受け取り、それを付ける。
「……似合ってるわよ。宗ちゃん! ……最高!」
最高って、酒のつまみ的な何かだろうに、そこまで笑いを堪えながら感想言わなくてもいいよ。
「あはは、似合ってる似合ってる! 最高だよ!」
未来ちゃんはお腹を抱えて大笑いして僕を指さす。
くそう、なんかすごく悔しい。
「……宗ちゃんまだよ? 右手を頭の横まで上げて、クク、左手を顎の前まで上げてくれるかしら?」
笑いを必死にこらえながら千川さんは注文を付ける。
僕は言われた通りに、手を上げる。
「はいそれで手首を返して、ニャーン。だめだ! 耐えきれない!」
千川さんは横に倒れて、笑い転げている。
パシャ、パシャっと、未来ちゃんの手にある携帯電話からフラッシュがたかれる。
ちょっと、二十代後半のおっさん捕まえて、あんたら何やってるんですか?
もういいですか? 羞恥に殺されてしまいますよ?
僕は耐え切れずにカチューシャを外そうとした。
「何外そうとしてるの? 宗ちゃん、二回戦行くわよ」
えー、もうやだな。この戦い。
そもそもこのままいくの? 外させてほしんですけど?
「さぁさぁ、宗一郎さん二回戦始めましょう!」
未来ちゃんはサクサクとトランプを切って、千川さんに一枚引いてもらい配りだす。
そんなこんなでサクサクとゲームは進んでいった。
未来ちゃんがカチューシャしたり、千川さんはカバンから猫のしっぽの着いたベルト取り出したり、鎖の着いた首輪だしたり、謎のメイド服出したり、ってか終始千川さん負けてないんですけど?
千川さんがお酒入るといろんな意味で止まらない人だと思わなかったよ?
圧倒的に勝ち続ける千川さんに対し、気が付けば僕と未来ちゃんはメイド服を着た猫耳コスプレ状態になっていた。
いい年した男の人が、ネコミミメイドですよ? もう悲しくて、何が悲しくてこんな格好をしてるんだろう。
「さてと、それじゃぁ次で最後にしましょ」
僕と未来ちゃんの姿を見て満足した様に千川さんが言う。
くそう、なんだろうすごく悔しい、ジジ抜きって千川さん苦手じゃなかったっけ?
「ちょっと、さすがに、……恥ずかしい」
隣で未来ちゃんはメイド服のスカート裾を触りながらもじもじしている。
カフェ未来ですらそんな服装したことないだろうに、私服の状態でエプロンしてるだけですもんね。
最後の戦い負けたら何されるんでしょう? もうすっかりネコミミメイドはできあがってるんですけど?
そんなことを考えていたら千川さんはカバンからとんでもないものを取り出した。
「あ、そうそう、ちなみに最後はこれよ!」
千川さんは白衣の天使の衣装を持っている。
妙にスカートが短い気がするんですよね? どこぞの怪しいお店においてあるコスプレ品みたいなんですけど?
ちょっと待って、いや待って、メイド服着てるおっさんだけでも辛いのに、ナース服を負けた人間に着せる気ですか?
未来ちゃんは青ざめた表情で隣で固まっていた。
「それ、僕負けたら着るの? 本当に?」
千川さんは今までで満面の笑みだ! こんちくしょう!
「さぁさぁ、始めましょ」
いや、マジで、負けられない戦いがここにあるよ?
どうやら未来ちゃんも同じだったらしく今までと違い真剣な面持ちでカードを捨てていく。
手元に残ったのは4枚のカード、未来ちゃんは同じく4枚、千川さんは5枚だった。
浴衣一人に、メイドが一人、そして変態が一人の完全にコスプレ大会と化したジジ抜きが始まった。
僕は未来ちゃんのカードを一枚引く。
ハートのエース? こんだけ枚数あるのにそろわないのか。なんかやな感じがするな。
でもその未来ちゃんから引いてきたカードがそのまま僕の手を離れて千川さんに持っていかれる。
千川さんはそのカードを手札に入れてからシャッフルしだした。
そうつまり、一周してもカードが減らない、誰も捨てなかったのだ。
ってことはさっきのだ。さっきのハートのエースが今回のジョーカーだ。
今は千川さんの手にある。
「あら、いやだ。そんなに見ないでよ?」
そういうと千川さんは自分のカードを後ろに隠してしまった。
ひとまず安全だ。
今のうちに逃げ切ってしまえばいいんだ。
カードを千川さんから引いて図柄を合わせて捨てた。
ってことはひとまず安全だ!
やばい、今までで一番集中して、ジジ抜きしてる気がする。
未来ちゃんの残りは3枚、どれを引いても安全だ。
僕は引いてきたカードを図柄を合わせて捨てる。
やった。後2枚、千川さんはこれで捨てて残り3枚、
このままいくと先に未来ちゃんが上がりそうだけど、この際どうでもいい。
一番に抜けるのが千川さんじゃなければいいよもう。
と思っていたら、未来ちゃんの手が止まる。
あれ? 引いてきたんですよね? なんで図柄合わせて捨てないんですか?
未来ちゃんはカードを後ろに隠してシャッフルしだした。
その表情には、まるで「宗一郎さん分かってるよね? 持っていってほしいカードがあるんですよ?」と言っているように僕のほうをじっと見つめてくる。
ちょっと、この人引いてきちゃったの? ハートのエース引いてきちゃったの?
「何とかなりそうね、今回はどっちにナース服着てもらおうかしら?」
えー、千川さん余裕そうですよ? 勘弁してください。
「はい、宗一郎さんどうぞ!」
妙に気合のこもった感じで未来ちゃんは僕の前に3枚のカードが出してくる。
あぁ、怖いよ。3分の1だよ? 当たる確率はざっと33%だよ? 約70%は大丈夫だよ? 安全の保障はないよ?
僕は意を決してカードを1枚引いた。
ハート!? 3? あー良かった!
カードを合わせて捨てる。
「やった。やっと勝てた!」
残りの1枚を千川さんに渡すと同時に安堵の息が漏れる。
「あー、宗ちゃんに着せたかったのに」
着てたまるか! あんなもの!
千川さんは僕から引いてきたカードを合わせて場に捨てる。
未来ちゃんは千川さんの1枚を引いて……あれ? これひょっとして?
その引いてきたカードを合わせて未来ちゃんは捨てた。
未来ちゃんの手元に残ったカードは1枚、千川さんは引く前だから2枚。
うん? あれ? ひょっとして千川さん?
「やったー、上がったー!」
未来ちゃんは最後の一枚を千川さんに渡す。
それで千川さんはカードを二枚捨ててハートのエースだけが残っていた。
「それじゃぁ、千川さん着替えてきてくださいね!」
「仕方ないわね、着替えてくるわ」
未来ちゃんはノリノリで千川さんを隣の部屋に置いやる。
「やった! やっと勝てた!」
未来ちゃんは大喜びだ。
猫耳メイドはその場でピョンピョンはねていた。
僕は残ったハートのエースをまじまじと見ていた。
何だろう何か違和感を感じるような気がする?
僕のその考えは次の瞬間吹き飛ばされた。
「どうかしら? 宗ちゃん?」
白い衣装は、黒い髪が良く映える。
胸元がはち切れんばかりの主張をして、丈の短いスカートから白い太ももが見える。
「いやぁ、なんですかねこれ、すごいですね」
思わず口から出てしまった。
次の瞬間目の前が真っ暗になる。
「うわーお、なんていうか、その、エロエロなナースですね! 宗一郎さんはあんまり見ないように!」
気が付くと未来ちゃんは僕に目隠ししている。
柔らかい手をゆっくりどかすと、目の前に未来ちゃんのジトッとした目が目の前に現れた。
「そんなに見たいんですか? 宗一郎さんのエッチ、ヘンタイ、エロ貴族」
「いいのよ未来ちゃん。むっつりスケベでヘンタイでエロ貴族な宗ちゃんだって男の子ですもの。男の性には勝てないものなのよ?」
ヘンタイとエロ貴族は確定事項なの? 散々な言われ方をしている。確かに今の格好はヘンタイ以外の何物でもないと思うけど。考え直しても自分の格好は猫耳にメイド服、あぁ、ヘンタイに違いない。でもエロ貴族って何ですか? エロの上流階級? 謎の舞踏会用の仮面とか付けちゃうんですか?
そんなこんなで、温泉旅行最後の夜「コスプレジジ抜き対決+ヘンタイ」は終了した。
肩まで浸かった温泉で音を立てて顔を洗う。
「今夜も星が綺麗だなぁ」
自分の吐く息が白い靄になって空に消えていく。
目の前に広がる一面の星が降りてきそうだ。
「部屋に備え付けの露天風呂もなかなかいいものだよな」
千川さんと未来ちゃんはコスプレから着替えて大浴場のほうに向かっていった。
二人を見送ってから、部屋備え付けの露天風呂に入っている。
備え付けでも人一人分には十分に広く、僕はゆったりと温泉に浸かっていた。
「なんだかんだで温泉満喫してるな」
昨晩のことや、夕飯前のことがふと頭によぎる。
千川さんの言っていることは十分理解してるつもりだ。
いつまでも過去に縛られているだけじゃダメなんだ。
でも、自分でもどうしようもない。両親が死んで十年以上の歳月がたって、今度は親友の賢治が死んで、やっぱり心に穴の開いたような感覚が襲ってくる。
人が死ぬっていうのはそういうことなのだろうか。
自分の心に知らず知らずのうちに賢治も入っていたのだろうか。
家族を失った時、僕は喪失感からこれ以上人と深くかかわるのは止そうと決めて生きてきた。
今度は僕が一か月以内に死ぬ。
いっそ皆から嫌われてしまったほうがいいのだろうか?
でも、けんか別れでこの世を去るっていうのは余計辛い気がする。
「はぁ、そもそもそこまで実感もわかないしな」
誰に言うわけでもなく、空に白い靄が浮かぶ。
死ぬのが怖いとか、もっと生きていたいとか、がむしゃらに何かを手に入れたいとか、そういう風に思えれば少しは気が楽なのかもしれない。
でも違った。
僕はそもそも親友が同じように宣告されて死んだというのに、実感がわかずにいるんだ。
頭のどこかに、ひょっとしたらこないだのことは嘘なのではないか? 悪い冗談なのではないか? なんてものが浮かんでいるんだろう。
ひょっとしたらそう思いたいのかもしれない。
死んだ先はどうなるんだろう?
僕がこの世を去ったとして、千川さんや未来ちゃんは悲しむのだろうか?
会社に与える影響は? まぁ、大したもんじゃないか。
誰かの心に穴を作ってしまうんだろうか?
「あぁ、だめだな。この考え方はだめだな」
音を立てて湯船で顔を洗う。
そうじゃないな。
賢治なら、きっと取り残されたとか、悲観して立ち止まるとかは考えないだろう。
空を見上げるときらめく星が疑問を投じているようだ。
「僕が、どうなりたいか、か」
生きたい。そう思っているのは事実だろう。
賢治のように強くなりたい。
残り一か月を切った僕に何ができるんだろうか?
普段通り、でも前向きに生きていく。
「そうだな、そういう考えのほうがいいんだろうな」
どうせ死ぬなら、満足して去りたい。
僕はそう決意して、空のきらめく星を眺めていた。
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