岬のチャペル

 

 


   †


「やっぱりここで正解」

 圭介が得意気に言った。

 前撮りの撮影と指輪の交換、ベールアップの練習を済ませ、ガラス張りの窓に広がる空と海を並んで見ていた。

「すごいね」

 感嘆する。青の世界に吸い込まれてしまいそうになる。あとは着替えて帰るだけなのに、なんとなく去りがたくてふたりで手を繋ぎ静かな風景に身を委ねていた。


「こういうところでやりたいと思ってたんだよね。やっぱり人生、強く願ったらなんだって叶うんだよなあ」

 しみじみと、楽天的なことを言う圭介に笑顔になった。

「あれ? 心菜は異論あり?」

「いいんじゃない。微笑ましくて」

「あ。ばかにしてる」

「してないしてない」

 素直な圭介が羨ましいだけよ、と心の中で言うに留めた。

「心菜、俺から離れないよね」

 突然に、圭介が言った。圭介は前を向いたままだ。

「俺から離れるときは死ぬときしかないからね」

「どうしたの、急に」

「確認だよ。ただの確認」

 私は、もちろんよ、と答える。

 圭介の横顔から視線を外して目の前の、海と空の境目を見る。繋いだてのひらに僅かな振動があった。いつも触れあっているから感じることのできる、小さな動揺だった。指先を使って圭介の手の甲を撫でる。ゆっくり。海の香りも波のざわめきも窓ガラスの向こう側にある。どんなに美しい風景も隣にいる圭介の存在には適わない。圭介の息遣いと慣れたコロンとお喋りな唇と、ときどき見せる切羽詰った表情や底抜けに晴れた笑顔や、喜怒哀楽が素直に反映される言動を一番近くでずっと感じていきたいと思う。離れるなんて、想像もしたくない。そのことをどう伝えればいいのか思案して、思案して……、時間だけが過ぎて、結局別の話題に移ってしまう。今もそうだ。



「あ。心菜の携帯じゃない? 鳴ってる」

 身軽な圭介が代わりに携帯を取ってくれた。送信相手は元同僚だった。引き継ぎをして退職したのだが、分からないことがあると質問のメールがくる。


 :谷口さん、今日はリハーサルでしたよね。ウェディングドレス姿メールで送ってください!


 珍しく、今日はプライベートの内容だった。

 でもどうして知っているのだろう、と思う。


「心菜、足どうかした?」

「え? どうして?」

 圭介はちょっと首を傾げ、ドレスの足元から視線を上げ私の手の中の画面を読んだ。

「画像送る? 撮ってあげる」

「いいの、いいの」

 私は手を横に振った。こんなふりふりでふわふわでラブリーな格好を他人に見せるなんて罰ゲームもいいところだ。

「いいじゃん、自慢しよう!」

 私の手からするりと携帯を抜き取って素早くシャッターを押す。

「やだ。返して、もう」

「すっごい綺麗だから絶対送った方がいい」

「だめだめ、送らないで!」

「送るよ、いいよね」

 私の携帯を持った圭介が走り出して、私は手を伸ばして後を追う。追いかけっこのような格好で衣装室の前まで来た。式場のスタッフが笑っている。赤面しながら、返された携帯を慌てて確認した。送信ボタンは押してなかった。もうっ。圭介の腕を叩く。

 にいっと笑って、圭介は隣の部屋へ入っていった。

「新婦さまはこちらへ」

 スタッフに促され、私も衣装室へ入った。男の圭介はひとりで着替えができるけれど私の場合はそうはいかない。

「仲がよろしいですね」

「すみません」

 回り込んできたスタッフによって手早くベールとドレスを脱がされた。身体をしめつけていたきついコルセットが外れ、思わずよろめいた。すみません。白とグリーンの淡いストライプの壁に左手をついて、また謝る。

「解放されましたね」

 見慣れた光景らしく、スタッフが労ってくれる。

「ええ。やっと普通に呼吸ができます」

 苦笑いするしかなかった。花嫁がこんなに窮屈な想いをするなんて知らなかった。

 私がひと呼吸取っているあいだに、スタッフはボリュームのあるドレスを手際良く専用のハンガーに掛けてベールと靴を箱の中に仕舞い終えていた。慌てて、借りていたアクセサリー類を外して返した。

「当日のお天気も晴れだといいですよね」

「そうですね、せっかくなら、そのほうが」

「でも雨の日も決して悪くはないんですよ、幻想的で厳かな雰囲気になりますよ」

「そうなんですか、それじゃ雨がいいかな」

「とはいえ晴れていると海がやっぱりキレイですから」

「ええ、今日もすごく素敵でした」

 他愛ないやりとりをしながら着替えた。

 真っ赤なベルベットのスツールに腰を落としてストッキングを穿き、ほっとひと息つく。目の前の大きな鏡の中にあまり馴染みのない柔らかい頬の自分がいた。不思議な気持ちで眺めて、また笑う。この頃の私は笑ってばかりだ。当日の天気がどうであれ、花嫁になる日は特別な日に違いないから、たとえ嵐だろうと幸せを感じるはずだと思った。

 立ち上がりジャケットに袖を通した。圭介はもう着替えを終えただろうかと意識をむけたとき足に違和感を覚えた。この、むず痒さは――――


 ドダッ、ガグッ、

 鈍く重い音が隣の部屋から聞こえた。何かがぶつかったのか倒れたのか、とにかく日常では聞き慣れない衝撃音だった。

「なんの音でしょうね」

 訝るスタッフの声に押されるように足が勝手にドアの方へ動いた。廊下に出ると呻き声が聞こえた。前のめりに、私は隣の部屋へ飛び込んだ。

「圭介っ」

 呼びかけたが返事がない。私の横を誰かがすり抜けた。圭介の元へと駆けながら流れるようにその陰に視線を向けた。女だった。顔に色がないのっぺりとした――

 床に血の付いた包丁が転がっていた。

 私は圭介の名を連呼しながら衝立を越えた。

「け、けい、すけ……」

 声が震えた。声だけじゃない、私の手も足も、なにもかもが震えている。床に倒れている圭介に駆け寄って跪いた。流れる血が床を汚している。着替えたばかりのチェックのシャツが湿って重くなっていく。

「やだ、やだ……、なに、これ」

 圭介は苦しそうに表情を歪めて、荒い息を吐いた。

「心菜、……いる?」

「ここにいるじゃないっ、圭介しっかりしてっ」

 安心したように圭介は口元を横に引いた。

「俺ね、心菜、心菜と会うまで、正確には、恋をするまで、ひねくれて、ひどく、いつも……」

 圭介はだらりと下がった腕を空に浮かした。

「いいからっ、圭介、動かないで……、だ、誰か! 早く来て!」

 圭介の指先が私の頬をなぞる。その弱い力が、母の臨終を思い出させてフラッシュバックが起きた。

「いやあっ! 圭介っ」

「だ、だいじょ……ぶ、心菜、泣かない、で。でさ、俺、ほんとにサイテーなヤツで。あたりまえの、幸せ、持ってるヤツがキライで……、キライでさ、俺、ほんと、心ではいつも、怒ってた、んだ。明るく振舞ってた、だけ、装ってただけ、なんだ……」

 私は必死に左右に首を振った。圭介の腕を、頬を、髪を、ただただ夢中で撫でた。

「俺もずっと、神様に、おまえの探し物は手に入らないって、言われ続けてた、夢のなかで……でさ、悔しくて、俺は、あらがった……。神様なんか、信じないって、あらがった。そしたらさ、手に入ったよ、心菜、俺の探してるもの、ちゃんと、最後に、手に入った」

「いやよっ、なに言ってるの、最後だなんて言わないでっ」

「俺の勝ち。やっぱ、神様もたいしたこと、ないよ。だから心菜、心菜も『サイアク』に負けないで……、負けないと宣言したら、負けないから。俺みたいに、な」

 救急車っ! 誰かが怒鳴っている。

「誰か、誰かっ。警察に電話! その女、捕まえて!」

 廊下から引き攣れたような声が飛んでいる。

「心菜は……、あきらめるくせ、ついてるから……、なんでも、自分が我慢すれば、いいって、思ってるけど……、それはだめだ、よ、じゃないと、解ける、誤解も、解けないよ、……わかった?」

「圭介お願いもう喋らないで」

「心菜、俺のこと、愛してる……?」

「愛してるよっ、あたりまえでしょっ、だって結婚するのよっ!」

「どのくらい、愛してくれて、る……」

「世界中で一番! 誰よりも、なによりもっ、自分よりもよっ。圭介!」

 圭介が笑った。笑ったはずなのに顔からは血の気が引いていって、どんどんどんどん、白く、弱く、なっていく。

「心菜が、俺の探していたものを、くれたよ。俺は、俺を、一番に愛してくれる人がほしかった。願いは、叶った」

 圭介。圭介!

 答えない圭介を揺すっているのは、私? 

 ――――俺は一生ぜったい、心菜から離れない

 そう言って深い瞳で私をみつめたのは数ヶ月前のことなのに。

 ――――俺から離れるときは死ぬときしかないからね

 これはいつの言葉?

 足がむず痒くてたまらない。

 意識が朦朧とする。

 これは絵本の続きなの?

 いつまで『サイアク』は続くの?

 誰か、教えて。

 誰か

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