強がりで、弱い私たち
庭に咲いている紫と薄桃色のストケシアを花束にして新聞紙で包んだ。先月はミヤコワスレを摘んで墓地へ持って行った。来月になったらシュウメイギク、冬はスイセンを供えよう。祖母が庭に植えた植物たちは半分日陰の場所でさえ、あまり手を掛けなくても一年中咲いてくれた。
靴の底についた土をコンクリートの上で足踏みをして払い落し、縁側に置いていたバッグを持った。裏口のドアに鍵を掛け忘れていないかをもう一度確かめてからガレージの脇を通って通りへ出た。陽射に手をかざしながら今日の暑さを確かめる。傘は持たなくてもいいみたいだ。ノースリーブの白いシャツにいつでも羽織れるように薄手のカーディガンを持った。どこへ行っても外気と室内の温度差が激しいため夏は体調を壊しやすい。アルバイト先のレストランでも大半の女性客はエアコンの冷風に腕を摩っているのだからもう少し設定温度をあげてもいいと思うが、厨房にいるシェフに私の提案は通らない。とても残念だ。
墓地まではバスを使った。気候の穏やかな日は徒歩でのんびり行くこともある。でも帰りはたいがい疲れて墓地内に待機しているタクシーに乗ってしまうから節約にはならない。
あの日の記憶の一部が私にはない。チャペルでリハーサルをしていたときの幸せな時間を思い出して笑みを浮かべ、周囲の音だとか匂いだとか私を覗き込む誰かの眼差しに、逆流する渦の中へ巻き込まれるみたいに本物の記憶を呼び覚まし叫び出しそうになる。そんな混乱は今でもときどきある。
俺のせいだ。
いつだっただろう。西日が穏やかになった時間帯の、ぬるく静かな病室で道哉が絞り出すような声で言った。項垂れたまま、病院の個室のドアを背に立ちつくしていた。
――おまえに嫌がらせをしてたのは、まみだった。
――俺がくだらない嘘をついたから、だからまみは思いつめてあんなことを。
道哉はまみちゃんが好きだった。好きなんて言葉じゃ追いつかないくらいにまみちゃんを想っていた。私には格好をつけて言わなかったけれど、道哉は何度もまみちゃんの家へ出向き、“女装は副業で仕方なくやっている、契約が切れたら二度としない”と頭を下げ、交際の継続を頼んだらしかった。けれどまみちゃんの家族が態度を軟化させることはなかった。
ようやく家の中へ入れてもらった日、道哉はまみちゃんのお父さんに言われた。
「きみは女装を副業だと言った、仕方なくやっているとも言った。けれどそれは事実とは違うのではないか。私には、きみはこの場を乗り切ることしか考えていないように見える」
道哉の本心を見抜き、「憐れだな」と言った。それが最後だった。
道哉は羞恥心に耐えられなかった。まみちゃんの家から逃げるように飛び出し、もう二度とまみちゃんとは会わないと決めた。
――家族に反対されるような男とじゃ、まみは幸せになれない
――結婚はふたりだけの問題じゃないから
そう自分にも、私にさえ、言い訳をしながら。
道哉は開き直ってしまおうと決めた。そうやって気持ちを騙しながら時間をやり過ごしていた頃、私に真っすぐな愛を向ける圭介と出会った。それに比べて弱さや醜さを隠し通すのに必死な私のこともすぐ近くで見続けることになった。私は逃げ道を用意して自分を慰めていた。幸せには縋らないと嘯いて、そのくせ圭介の愛が欲しくて欲しくてたまらない矛盾の存在だった。道哉は私のことを憐れだと思った。そのときに初めて、まみちゃんのお父さんが使った“憐れ”の意味に行き着いた。嘘をつくから現実はこんがらがる。嘘で固めた土台の上で何を成そうとも、憐れなものしか築けない。道哉は私を通して自分を見た。道哉が圭介を放っておけなかったのは一途なまみちゃんを重ねていたからかもしれない。
「道哉くん、もういいって。こっち来て座ってよ」
あの日圭介は穿通外傷で出血性ショックを起こした。医師の懸命な蘇生処置により峠は越えたと言われてもなかなか目を覚まさなかった。私は毎日圭介の手を握って呼びかけた。戻ってきて。戻ってきて。戻ってきて。あれほど何かを願ったことはなかった。『サイアク』の投下に怯え、恐れ続けた神様にではない。圭介が夢の中で会っていた意地悪な神様にでもない。私は圭介自身に願った。戻ってきて。戻ってきて。戻ってきて。それでも意識が戻らない理由を、このまま圭介を失うかもしれない恐怖と闘いながら必死に考えて――、若葉さんに「本音では私も圭介と一緒に家族づきあいがしたいです」と、圭父に「何年、何十年先になってもいい、あなたの娘にもなりたいのです」と、言えずにいた想いを伝えた。誤解を誤解のまま放置する生き方はだめだと瀕死の圭介が言った。だから私は望む未来のために抗う。仕方ないことだなんて、私みたいな人間はあきらめることしか許されないだなんて、この先二度と思わない。絶対。
圭介の意識が戻ったのはまもなくだった。
「心菜、道哉くんをこっちに連れてきて」
ベッドから自由に動けない圭介が必死に手招きをする。それでもじっとしている道哉に圭介はとうとう焦れた。私は苦笑いで、道哉の背中をドアから引き離してそのまま押した。ベッドの足元へ恐る恐るやってきた道哉は、そこで足を止めてまた項垂れた。
「俺がグズグズしていたからこんなことに……」
道哉は私たちの結婚を見届けたら、遅いかもしれないけれどまみちゃんに本当の気持ちを伝えに行くつもりでいたらしい。まみちゃんがまだ自分を好きでいてくれたら、今度こそまみちゃんの手を離さないで一緒に乗り越えていこうと。
「本当に、ごめん」
あの日まみちゃんは朦朧としながらチャペルへやってきて、そのまま男性衣装室の札が掛けられた部屋へ入った。挙式が入っていない日のチャペルはスタッフの数も最小限で、誰もまみちゃんに気づく者はいなかった。
「それよりカノジョさんの親に感謝だよ。こんなすごい個室にも入れてもらったし至れり尽くせりなんだからおつりがくるって」
似たようなことを圭父が言って、圭介を笑わせていた。もう回復していくだけだと安堵してからは、圭介の意向を酌んで、騒ぎ立てるようなことはしないと決めたようだった。
「道哉、圭介はもう大丈夫だから。道哉が気にし続けたら私だって、圭介に申し訳なくてここにこうして立っていられないんだよ。ね、圭介」
「そうそう! だから道哉くんも気にしないで。じゃないと心菜も気にするから!」
「……」
まみちゃんは、
けれど私が結婚するのは圭介で、道哉ではない。まみちゃんは圭介のことを調べた。そしてチャペルの場所やスケジュールを知った。まみちゃんは道哉のために、真っ白な手紙を書き続けた。なぜ道哉を裏切るのか、あんなにお願いしたのに、なぜ……! 憎しみは私にではなく、道哉のために邪魔な存在である圭介へと向かった。心を偽って道哉と私を祝福した時点でまみちゃんは壊れ始めていたから、呻き倒れた圭介と自分が握りしめている包丁の鮮血を見た瞬間に、世界が寸断されてしまった。
「道哉くんのカノジョさんも早く退院できるといいね。すぐに俺も元気になるし、そうしたら全部元通りだよ。な、心菜」
「うん」
私は静かに頷く。そんな風にならないことを私と道哉は知っている。すべてなかったことには出来ない。まみちゃんがそれを望んでいないからだ。
――――まみちゃん、今日は謝りにきたの
私が最後のお見舞いに行った日だ。
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