第四章

日常に、ひとり


 退職から十日もすると起きてから寝るまでの時間のほとんどを持て余すようになった。

 年末にしか手を出さない網戸やエアコンや換気扇の掃除を張り切って済ませてしまったことが原因なのだろうと思う。そのせいで、もう他にやることが思いつかないのだ。

 洗濯物を干し終えるとポストがかたかたと音を立てた。庭先から郵便配達員に会釈し、カゴを抱えたまま玄関へ回った。恐る恐る、ポストを覗く。

 圭介を完全に遠ざけたあの夜から、手紙は届かなくなった。それでもこうして郵便物を手に取るとき一瞬身構えてしまう。




 


   †


「ココ」

 土曜日の午後、買い物帰りの背中に声を掛けられた。俯いたままで、近づいてきた足を眺める。猫なで声の正体が誰か確かめるまでもなかった。女装をしていない道哉は足先を広げて歩く。

「無視すんなって。ごめんって。謝るからもういいだろ?」

「……」

「いい加減機嫌直せって」

 怒っているわけではなかった。

「……」

 わざと、明後日の方向に目をやる。

「悪かったって言ってんだろ。そんなに振られたのが面白くなかったのかよ」



 あの日、私は夜の公園で道哉に振られた。


 ――――私のカレシになって。

「演技ってこと?」

「演技じゃなくてもいい」

「どういうことだ?」

「恋人に戻ろうってこと」

「……」

 あのあと道哉は言った。憎らしいほどきっぱりと、いやだ、と。

「なんで?」

 駄々っ子のように詰め寄った私に道哉は首筋を掻きながら迷惑そうに唇を窄めた。

「つーか、無理」

「なにそれ」

 私には女装が趣味だからってつきあいを反対する親もいないし、あんたのこと家族同様に理解してる。それなのにどうしてよ?

 半分脅迫的に迫った。道哉は、公園は蚊が多いなあ、と緊張感の欠片もないことを言い、「そういうことだから、じゃあな」と軽く手をあげて歩き出してしまった。去っていく背中は緩んだままだった。私はひとり取り残されて――、時間を掛けて重大な事実に行き着いた。私は同じ相手に二度も振られたのだ。


「あんたはデリカシーがないの。これ、絶対他の女の子にやっちゃダメなやつだからね」

 私は“無視”をあきらめて、説教に切り替えた。

 正直、あっさり振られた一瞬は頭に血が上ったけれど、そのうち冷静になった。……確かに、それはありえないや

 告白しておきながら自分に突っ込んだ。ヤケになって幼なじみの親友に甘えた、それが真相だ。ただ、振られたのは癪だった。


「これでチャラだろ。俺も振られたままじゃ悔しいから振ってやったんだって」

「はあ? 私がいつあんたを振ったっていうのよ」

 聞き捨てならない言葉に眉間が寄っていく。

「最初のときも振られたのは私なんですけど」

「いーや、俺だ」

「ちょっと待ってよ。記憶の改ざん卑怯」

 気がつけば道哉と肩を並べて歩いていた。

 どちらともなく日陰へと足を向ける。三叉路の角にやや広めの歩道がある。ときどき近所の主婦や散歩中の老人や子供たち、学生カップルが立ち話をする地域住民には馴染みの一角だ。道哉に続いて街路樹の下に入った。


「言っとくけど、あのとき俺、本気で別れるつもりなかったから。おまえがあんまり彼女としてそっけないから、ちょっといじめてやろうと思っただけ。おまえのうろたえる顔が見たかった。ひょっとすると泣いて縋ってくるかもと思った。そしたらおまえ、なんつった? それもそうだね、ってヒクぐらい軽く言ったんだぞ」

「……」

 九年目の真実。私はてっきり、道哉とは同じ気持ちでいたと思い込んでいた。

「でもさ、でも、道哉はもう私とヨリを戻す気はないんでしょ?」

 恐々と聞く私に、道哉はおもいきり噴いた。

「あたりまえだろ。俺たちの間にこれ以上のなにが生まれるっていうんだよ」

「だよね」

 今は間違いないく自分たちは同じ気持ちで向き合っている。そのことを再確認していると道哉が声を落とした。

「圭介とはどうなった?」

「どうなったもなにも、別れたんだからあれきりだよ」

「ふーん」

「もうやめて、この話題……」

 私は性懲りもなく泣きそうになる。


「この前、圭介が俺んとこに来た」

「! ……ど、うして」

 絶句したあとで、辛うじて言った。

「あのあと俺を付けたんだろ、マンションの前で待ち伏せされてつかまったわ」

「……」

 心臓が勝手にバクバクと波打つ。――そこまでするのだ、圭介は。


「……それで、どうしたの」

「まあ、いろいろ話したけど」

「だから、その、いろいろを、教えて」

 切羽詰まった自分の声は、とても貪欲だった。

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